ミラージュ・サブスタンス #3
2
蜃体学校には入学費などなく、誰でも入ることができるが、与えられる環境は最低限だ。
増え続ける生徒のせいで居住スペースが十分になく、大人の男が三人大の字になれるか怪しい空間で八人も生活しなくてはならない。食事は街で余ったものが申し訳程度に出るくらい。水場は敷地内に小さな川が流れているだけで、水浴びや洗濯は各々そこで済ませる。
「だけど、何故かトイレは水洗……」
朝、喧しい喇叭の音に叩き起こされたロエルは、石造りの物々しい廊下を通って、初等部生の教室へと向かう。朝っぱらからまずい食事を食べたくないので、朝食は抜き。手には粗製のノートと束ねた鉛筆。いずれも、蜃体の学習を放棄した落ちこぼれ生からありがたく頂いた物だ。
ロエルが教室の席に着いて間もなく、講師が入ってきて授業が始まる。講義名は蜃体の基礎。
「蜃体が発見されたのは今から六十五年前の揺籃の国未統合の時代、かつて若かりし父帝ヴァラントが南部の紛争に立ち会っている時のことだ」
ごとり、と講師が空き瓶を教壇に置いた。ロエルはその空き瓶が空ではないことを知っている。
「そして、これがその蜃体の一つということだ……といっても、君らには見えないだろう。見えないことが、初等部に在籍するための条件だからな」
嫌味っぽく講師は言うが、ロエルにとってはのっぴきならない事実である。
蜃体は基本的に不可視の物体だが、訓練を受けることで見ることができるようになる。といっても、蜃体を見ることはスタート地点に過ぎず、蜃体を自在に取り扱うようになるまで更に多くの訓練が必要だ。どれだけ真面目で優秀な生徒でも卒業に三年はかかると言われ、十年かかって卒業というのもざらだ。
そして、その専門的な技術体系を持っているのは蜃体学校だけであり、その体系を遺したのが初代帝王ヴァラント、通称〈父帝〉なのだ。
「蜃体は扱い次第で、ほぼ無制限にエネルギーを取り出すことができる物体だ。その効果は蜃体それぞれで違う。まず、エネルギーを溜め込み圧縮する『貯蓄体』……これは一般に水の温度を上げるために用いられ、蒸気機関の燃料として使われる」
貯蓄体の蜃体にエネルギーを貯め液体に触れさせると、その水温を自由にコントロールできる。火を使うよりも、圧倒的に便利で扱いやすい。
「続いて、分離させるとその破片同士がお互いに引き合う『張力体』。これは列車などに使われ、物流を支えている重要な物体だ」
張力体二つをもつれ合った状態にさせ、一つずつ車両、荷揚げ場に設置するだけで、自動で二つの地点を高速で結ぶラインが出来上がる。
「『伸張体』は無制限にその長さを伸ばせる蜃体だ。では……ロエル、この蜃体の使い道はなんだ?」
「……あ、はい」
唐突に指名されて、ロエルは慌てて立ち上がった。周りの生徒達の視線が集まる。思わぬ貧乏くじを引いてしまったが、そのまま黙っているわけにはいかず、ロエルは講師の質問に答えて言った。
「伸張体は、揺籃の国民の証である〈標付け〉に使われるほか、簡単な情報の伝達に使われます」
標付けとは、戸籍に直結した蜃体を、国民の身体へと装着することを言う。非正規の入国者や戦争捕虜などはこの標を持たないから、蜃体師なら一目で不法滞在者がわかるし、国民は専門の蜃体師に頼めば一瞬で身元を証明できる。
一般国民用の蜃体は目視できれば簡単に取れてしまうから、ロエルを始めとする蜃体学校入学者には皆、国の許可がなければ外せない鍵付きの特殊な標付けがなされる。脱走者がいても、データベースからこの標を辿れば楽々追跡できる――というわけだ。
講師は、ロエルの正答を聞いてもぴくりとも表情を動かさず、問いを重ねた。
「間違いはないな。で、その簡単な情報の伝達とは?」
「無限に伸びる性質、そして特定の刺激を媒介する性質から、あらかじめ決定しておいた暗号通りに振動を送れば、不定の距離間でも一瞬で情報共有が行なえます。この基幹構造は現在、王都と東部の干戈地域ウォーゾーンを繋ぐ生命線となっています」
ロエルの回答に、クラスがどよめく。いくらなんでも説明が流暢過ぎる、本気で蜃体師になりに来ている強者か、或いは何回も講義を受けたことがあるかのようだ、と。
――ああ、あの人、ロエルって人か。
やがて、納得したような雰囲気が教室に満ちる。優秀さへの畏敬の眼差しは、嘲笑と軽蔑の眼差しに変わった。ロエルは同級生の視線を、必死で意識の外側に追い出す。
講師はわざとらしく手を叩いた。乾いた音が教室に響く。
「全く以ってその通り。模範解答をありがとう、ロエル。ところで……この講義を受けるのは何回目なんだ?」
ロエルは身を固くした。教室のどこからか、小さな失笑を聞いた。
「……もう数えていません」
今度ははっきりと嗤笑が聞こえた。
教師は「ふぅん」と興味深そうに呟くと、教壇に載った名簿の頁を捲る。
「入学から……二年経っても、蜃体が見えるようにならないで、初等部にいると」
「はい」
「そして、無駄に知識を肥えさせていると」
「知識すらなくなったら、取り柄がないですから」
ロエルの言葉に、講師は目を眇める。同級生たちは笑う。
そう、蜃体学校のあの門を潜ってから、二年が経った。あの時一緒の乗り合いで来た生徒たちは、とっくに高等部、あるいは修術部で自分にあった蜃体の修行に明け暮れている。
基本的に、どんな落ちこぼれでも授業に出でいる限り、二年もあれば高等部までは進める。学校を卒業できるかどうかは、ほとんどそれ以降の問題であり、何十年も高等部に留まっている人の噂も聞くくらいだ。
しかし、初等部で二年も足踏みすることは前代未聞のことだった。少しでも蜃体を見ようと思っていれば、どれだけ才能がなくとも半年もあれば見ることくらいは可能なのだ。
ロエルは、落ちこぼれだった。それも、最も愚かに見えるタイプの。
「ロエル……本当にコイツが見えないのか?」
講師が空き瓶を掲げてみせる。ロエルは、その中に蜃体が入っていることを知っている。だが、知っているだけだ。知ることは誰にだってできる分、見ることとの隔たりは大きすぎる。泳ぐという行為を知っているのと自分が実際に泳ぐことの違いを思い浮かべると、その実感に近しい。
「教えられたことを思い出してみろ」
蜃体を見る基本は、まず「そこに蜃体がある」と盲信することだ。ロエルにとって、疑いを持つ意味はない。蜃体の存在が嘘ならば、この国がこれほど栄えることのできる要素がないのだ。あの瓶には、確実に蜃体が入っている。
「空間を見るんじゃない、蜃体の姿を感覚から裏返すように把握するんだ」
感覚から裏返すように。蜃体視認の訓練は、ひたすらこの言葉を聞くことでもある。
その他には、照り返しを掴み取るように、とか、陰影と白虹のイメージを重ねるように、とか、とにかく難解で抽象的な見方を教えられる。それでも、普通の生徒は大体三ヶ月程度で蜃体の姿を見ることができる。ある時、唐突に見えるようになるのだという。
よくできたものだ。蜃体の秘技が蜃体学校の外に漏れないのは、ここに理由がある。蜃体師に「蜃体の見方を教えてくれ」と訊いても、返ってくる答えがこれなら誰だってげんなりするだろう。
ロエルは、空き瓶を凝視し続ける。硝子の表面に、室内灯の灯りが揺らめく。虚ろな空間は虚ろなまま。感覚は裏返りもしないし、照り返しは掴み取れないし、陰影は白虹にかき消される――
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