ミラージュ・サブスタンス #11

  8

 一年が経った。
 トラーネは週の二日か三日を、ロエルの家で過ごした。色々なところに義理があって、ひとつの場所に腰を落ち着かせるわけにはいかないという。やってくる度にどこで手に入れたのかどっさりと本を持ち込むので、奥の部屋は書籍で鬱蒼としている。
 ホメロとの訓練は、何の進展もなかった。何も。手に入る範囲のあらゆる器材を試してみたが、何の効果も現象も見出さず、蜃体学校の二年間と同じような日々を、一年間、群青の町で過ごしたのだった。

 その日、訓練終了後にホメロはロエルを残らせた。
 机の上にはわざわざ王都から取り寄せたらしい電子顕微鏡、そしてバラエティ豊かな試料。結果は例によって〈異常なし〉だったが。
「突然ですが……近いうちに、群青の町から出なくてはいけなくなりました」
 ホメロは重々しく告げた。
「町から出るって……何故ですか」
「……私の身に危機が迫っているという情報が、情報部から入ったからです。遂に、レジ派が動き始めるようです」
「レジ派……? 何のことですか……」
 突飛過ぎる話の展開に、訳も分からずロエルが問うと、ホメロはチョークを浮かせて黒板に二つの単語を書き出した。非派、親派――レジ派とエス派。
「ロエルは、蜃体師の労働環境が過酷であることを知っていますね?」
「はい……」
 トラーネと初めて出会った店での悶着もそうだが、あれですら氷山の一角に過ぎない。町を歩けば、蜃体師が愚痴られ、怒鳴られ、罵倒されている場面に出くわすことも少なくない。この一年でも群青の町は更に発展し、人口は増え、蜃体師の需要も増えた。しかし、人材の供給が明らかに間に合っておらず、蜃体師は薄給に見合わない長時間労働を強いられているのが現状だ。
「経路はわかりませんが、この半年で私の存在が蜃体師の方々に漏れたらしいのです」
 ホメロの言葉に、ロエルは強い引っかかりを覚える。
「……町民だけじゃなくて、蜃体師にも隠していたんですね」
「はい……機密ですから」
 ホメロは歯痒そうだった。いくら莫大な力を持っているとはいえ、ホメロは両腕を奪われた一人の少女に過ぎない。自分の身分を保証してくれる王法の前では、膝を屈する他ないのはわかる。
「私は蜃体師の皆さんの三千倍以上の効率でエネルギーを産出します。つまり、蜃体師の方々は私が過剰にエネルギーを生み出す分は、仕事をしなくて済むのです」
「なのに、働く必要のない無駄な仕事を延々と続けさせられているのか……それなら、怒るのも当然です。でも、この空疎な労働を強いているのは、群青の町でしょう?」
「正確に言えば揺籃の国ですけど……実態はそうですね。国の代理人である町長クラム氏の采配です。……しかし、蜃体師達の恨みの矛先は私に向いています」
「何故ですか……訴えるなら町長にするべきでは」
「私が彼らの仕事を奪っているように見えるからです」
 ロエルは呆然として、黒板に書かれたレジ派という文字列を見つめた。
 汗水たらして町を支えているのにも関わらず、誰からも顧みられず感謝もされていなかった蜃体師達が、実は自分たちが働いている意味すら皆無なのだと知ったら。自分が死んでも誰も困ることがないと知ったら。
 むしろ、死んでもらっても構わないと思われていると知ったら。
 この怒りを、手っ取り早くぶつけられるのは誰だ? こんな国の制度を作った〈現帝〉か? 町長か? いや、もっと妥当な奴がいるではないか――排除すべき奴が。
「エス派というのは、国や町の役人の方々です。私が非レジ派の手にかかっていなくなったら、揺籃の国は侵略の危機に瀕しますから、支援して下さるそうです」
「侵略の危機……異教国からの?」
「はい、東部国境の干戈地域です。群青の町は元々運搬の要衝、その機能を停止してしまうと、東部戦線に物資を運搬できなくなります。ただでさえ、現在、現帝の政策のもと、異教国側へと戦線を押し戻そうとする計画が発動中ですしね……」
 先の王、先帝は専守防衛を旨として、徴税も最小限だった。しかし、現帝は異教国との戦争に意欲的であり、先帝時代は防戦に徹していた方針を一挙に攻めへと転換した。その増大した軍事費を増税で賄っているため、国民の評判はすこぶる悪い。
「また、経済的にもこの町は国の要衝でもあるので、機能が弱まれば揺籃の国の衰弱は必至。……最早、私抜きではいられないのです」
「危機が迫っているっていうのは、確かなんですか」

「はい。なので、明日の明朝にはここを出発し、蜃体学校へ向かい、オーマッド校長に匿ってもらう手筈になっています。ロエル、あなたも……着いてきてくれますね?」
 ホメロはまっすぐにロエルを見据える。
 蜃体学校――再び、あの場所へ戻ることになるとは。複雑な感慨が、水中に落とされた砂塵のように胸中に広がる。紛い物の淡い郷愁と、何も変わらなかったという恥辱の混じり合う、感情の断片集――
「はい、もちろんです」
 返事は躊躇わなかった。ホメロは未だに、こんな情けない自分を全力で信頼してくれているのだ。それに応えないなど、考えられなかった。
 いくら蜃体師の境遇が悲惨だからといって、非レジ派である蜃体師達の目論見は不当だ。ロエルの心中に怒りが灯る。


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