統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol28

39 5回目の入院

不調は、突然やってきた。全く眠れなくなったのだ。フィリピンから帰った時と同じだった。人に会うのも怖くなった。

(お寺でそんなことして、大丈夫なんか?)
房恵の言葉が、頭に響いた。 私の表情が、明らかに違うので、隆道も、大智も、亮純も、私の調子が悪いことを悟った。

「薬を飲みなさい!薬を飲めば、落ち着くのじゃけえ」
隆道は言った。私は薬を探したが、なかなか見つからなかった。捨ててしまっていたのだ。やっと薬を見つけたが、何をどれだけ飲めばいいのかわからなかった。たまらなく不安が込み上げてきた。
 

隆道は、山陽病院に電話をかけた。中嶋先生に繋いでくれた。
「先生、家内がまたおかしいんです」
隆道は、先生に言った。そして、私にかわった。

「須谷さん、どうしたん?診察にも来んと」
「すみません、先生。不安で仕方ないんです」
「お薬を飲まんけえよ」
「どうすればいいですか?先生?不安で仕方ないんです。」
「だから、薬を飲みなさいってば」
「どの薬を飲めばいいんですか?先生?」
「いっぺん、おいで。顔を見んといけんわ」
「入院は、嫌なんです」
「入院かどうかは、診察してみんとわからんわ。ご主人にかわって」
隆道と、中嶋先生は、電話で少し話した。

次の日、私は、山陽病院に、隆道と一緒に行った。
 先生は、私の表情を見るなり、
「これは、入院じゃなあ」
と、言った。
「入院はしたくないんです」
私は、言った。
「じゃあ、なんでお薬を飲まんの?」
「・・・・・・」
「ペナルティじゃ。入院しようや」
「保護入院ですか?」
「薬をちゃんと飲むんなら、任意入院じゃわ。いいね?」
私は、コクリとうなずいた。
 

こうして、私は5回目の入院をした。平成19年の6月のことだった。
「どうしたん?また来たん?薬を飲まんかったんじゃろう?なんで飲まんの?ちゃんと飲まれ!」
と、顔見知りの看護師が、冷たく言った。
 

暇を持て余す入院生活。最初のうちは、頭もしっかり働かず、隆道が持ってきてくれた本も読めなかった。
「須谷さん、息子さんたち、幾つになったん?」
別の看護師が言った。

「中3と小6です」
「中3いうたら、受験じゃが?」
「はい。私、こんなところでこんな事をしている場合じゃないんです」
「ほんまじゃなあ。早やく帰れるように、頑張られ」
看護師は、私の肩をポンポンと叩いて言った。

今までと同じで、2週間ほどすると、精神状態が落ち着いてきた。中嶋先生の許可をもらって、私は、卓球などの作業療法のプログラムに参加した。そして、しばらくして、開放病棟に移った。

開放病棟には、閉鎖病棟のような保護室はない。ドアにも鍵がかかっていない。院内を自由に歩くこともできる。洗濯も自分でする。“開放”と言う名の通り、閉鎖病棟とは、自由度が全く違う。許可をもらえば、一人で外出もできる。私は、開放病棟の患者たちとすぐに仲良くなった。私は、院内を散歩したり、患者と話したり、ベッドの上で、腹筋をしたり、本を読んだりして過ごした。特に、運動を頑張った。副作用で増えてしまった体重を何とかしようと、毎日のルーティーンを決めて、階段の上り下りや、ベッドでの腹筋などをした。

患者たちの中には、昭和の頃からずっと入院しているという人もいた。その人は、どこから見ても回復していて、健常者と変わらない。
「どうして退院しないのか?」
と、聞くと、
「帰りたくても、もう帰る家がない」
と、その初老の男性は、淋しそうに笑った。
「外の世界は、怖い。ここにいれば安全だ」
と言って、長く入院している人もいた。 中には、サラ金で多額に借金をして、家族に、この病院に入院させられたという男性もいた。その男性にも外の世界に、帰る家はない。
(帰る家があるだけ、幸せだ)
と、思った。
 

法務や、子供たちの世話で忙しい中、隆道は、時折、見舞いに来てくれた。私はいつも、子供たちの事を聞いた。
「二人とも元気よ。みんな待っているんだから、今度こそはしっかりと治そう」
と、隆道は行った。私と隆道は外出の許可をもらったって、カフェに行って色々話した。楽しいひと時だった。

それからも、私は順調に回復していった。隆道は中嶋先生と話して、外泊の許可をもらい、私は外泊をした。外泊というのは、家に帰ることだ。家でも、私は、落ち着いて過ごせた。



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