統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol12

19 英会話教室・教子とのこと
 
亮純が生まれる少し前から、私は自宅で、児童英会話教室を開く準備をしていた。亮純を出産後一か月経ってから、私は近所の子供たちに英会話を教え始めた。
 
まだ25歳と若かった私は、働きたかった。でも「お寺の奥さん」という立場がある私は、なかなか地元では働きづらかった。好きな英語を生かせて、子供が好きな私は、その仕事がしたかった。
 
働きたかった理由は他にもあった。教子の存在だ。教子は心臓の風船治療をしていて、たくさんの薬を飲んでいた。だから、食事にとても気をつけていた。食事を作るのは私だったから、毎食、細心の注意を払って作っていた。牛肉などは、油抜きをして料理に使った。でも、一生懸命食事を作っても、
「最近、ほうれん草を食べとらん」
「椎茸を食べとらん」
と、あるものではなく、無いものばかりを注意される。子供たちの世話をしながら、教子に文句を言われない食事の準備をするのは、本当に大変だった。

大智を授乳中の時は、大智が寝ている時に、境内の草取りをしていたら、
「私の育てていた、モミジの苗を抜いたじゃろう!」
と、きつく叱られた。

また、
「葉月さんみたいな家柄の娘さんが、うちみたいな格式の高い寺にお嫁に来られたのは、奇跡じゃなあ」
ということも繰り返し言われた。
 
教子は寺の娘で、亡くなったお義父さんは婿だった。その土地、寺のことしか知らない。朝起きる度に、
(今日は、何を言われるのだろう?)
と、胃がキリキリと痛かった。

(自分の居場所が欲しい。認められる場所が欲しい!)
そう思って、私は研修を受けて、私は児童英語講師のライセンスを取ったのだった。 
 
亮純が生まれる前に教室を開講して、一か月休み、6月の終わりから授業を再開した。生徒も順調に集まり、教える仕事もやりがいがあり、とても楽しかった。
 
隆道は子育てに、とても協力的だった。教子も私が授業をしている間、子供たちの面倒を見てくれた。そのことには、今でもとても感謝している。寺の仕事、家事と育児、そして教室の仕事と、毎日フル回転で頑張った。

教室が終わったら、大智と亮純に絵本を読み聞かせて9時過ぎくらいに寝させて、私も一緒に寝て、夜中の2時くらいに起きて、授業の準備をして、家事をして、昼間は、寺の掃除をして、夕食の準備をしてから授業をする。そんな毎日だった。よく体がもったと思う。でも充実感が、それに勝った。英会話教室の仕事は、本当に楽しくて、やりがいがあった。

  
教室を始めてから、初めての夏休みに、やよい達、中高時代の友達が京都から寺に遊びに来てくれた。ロッジにみんなで泊まり、バーベキューをした。楽しかった。大智はやよいになつき、
「やよいちゃん、帰らんじゃろう?」
と、やよいに何度も聞いた。
 
冬には、亜希たち、大学時代の友達が、遊びに来てくれた。相変わらず亜希は綺麗で、魅力的で、私の心は、また、ざわめいた。
(まだ、亜希を愛しているのだ・・・)
と、思った。
「葉月だから頑張れるね、ここで」
と、亜希は、ぽつりと言った。亜希が帰ってからは、しばらく亜希の事を考えた。でも、大智や亮純や、英会話教室の生徒たちが、私を忙しい日常へと引き戻した。

次の年からも口コミで生徒も増えていった。私は、大変だったが充実した日々を送っていた。
 
私が留年して大学に通わなければならなかったこともあり、また、在学中に大智を身ごもったために、隆道と私は、新婚旅行に行っていなかった。大智が5歳、亮純が3歳の時に、私たちは、隆道の修業時代の先輩一家と一緒に、ハワイへ行った。常夫と房恵は、ハワイに行くという私たちに、10万円をくれた。

教子は、
「行ける時に、行っておきなさい」
と、言ってくれて、留守を守ってくれた。生まれて初めて海で泳いだ大智は、
「おばあちゃん、ハワイの海はすごいんじゃけえ。波があるんじゃけえ」
と、言って、私たちを笑わせた。本当に楽しい旅だった。
(教子のおかげだ。教子に恩返しをしよう!)
と、私は、心に誓った。

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