統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol25

36 山陽病院への入院
  
 
これまで、統合失調症という病気と治療について、触れてきたが、ここで私自身の事に話を戻したい。
 
石垣島から家に帰れて、隆道や大智、亮純に会えて、ほっとした。でもやはり、不安が込み上げてくる日々が続いた。原因はわからない。ただ、お寺に帰ると、不安が込み上げてくるのだ。また、相変わらず、家事ができない日々が続いた。野菜を前にしても、それをどう料理すればいいのかわからないのだ。米の研ぎ方もわからなかった。
 
隆道は、岡山の知り合いの僧侶に、私の事を相談した。そして、その僧侶の知人の紹介で、私は、岡山の山陽病院を受診した。山陽病院の医師から告げられた病名は、鬱病でも神経衰弱でもなく、やはり、統合失調症だった。
 
統合失調症と呼ばれる前の病名は、精神分裂病である。とても悲惨な響きがある。統合失調症は、考えや気持ちがまとまらなくなる精神疾患で、その原因は、脳の機能にあると考えられている。約100人に一人がかかると言われており、決して特別な病気ではない。思春期から40歳くらいまでに発病しやすい病気であり、薬や精神科リハビリテーションなどの治療によって、回復することができると言われている。そう、回復することができる病気なのだ。でも、隆道も私も、その現実をなかなか受け入れられなかった。
 
そんな中、常夫の一周忌で、私たち家族はとう東京へと向かった。房恵はその時に、隆道に借りていた500万円を返してくれた。

法要を終えて、広島に帰ろうという時に私は、
「帰りたくない!」
と、言った。帰ったら、山陽病院に入院させられると思ったからだ。戸惑う隆道。
すると直樹が、
「おったらええねん。お姉ちゃん、東京におったらええねん!」
と、言ってくれた。房恵は、渋々だったが頷き、私は東京に残ることになった。そして、しばらく房恵のマンションに滞在することになった。
 
東京には、中学生・高校生時代の友達が、何人もいたが、そんな友達に会いたいとは思わなかった。とてもそんな心境ではなかった。
昼間は、喫茶店で煙草を吸いながら、ボーっと過ごして、夜は、時々直樹の焼き肉店を手伝った。寺にいる時のような不安はあまり感じなかったが、近くの公園で遊んでいる子供たちを見ては、大智と亮純の事を思って、辛かった。
 
房恵は、私を山王病院の精神科に連れて行った。ここでも診断名は、統合失調症だった。そして医師は薬を処方した。医師にも房恵にも、一生懸命自分の気持ちを伝えようとするのだが、うまく言葉にならない。私はとても混乱した。
 
次の日、房恵が、
「銭湯にでも行って来たら?」
と、言うので、近所の銭湯に一人で行った。ここでも、私は混乱した。下駄箱のどこに自分の靴を入れたのか、わからなくなったのだ。何とか自分の靴を見つけたのだが、私は脱衣所や、番台にいる人たちに笑われている気がして、そこから逃げ出したかった。
 
次の日から、私の体調は、さらに悪くなった。昼間は、眠りをむさぼり、夜は、直樹の店に行かずに、ベランダで煙草を吸い続けた。もみ消したタバコにまた火をつけて、フィルターぎりぎりまで吸った。そして、鏡を見ては、歯の汚れを気にした。房恵は、家中の鏡を隠した。眠りをむさぼり、ベランダで煙草を吸い続ける私。そんな私を見て、房恵は、
「子供たちが一生懸命頑張っているのに、あんた、恥ずかしくないの!」
と、叱った。それでも私は、煙草を吸い続けた。他に何をしたらいいのかわからなかった。煙草を吸っては消し、また火を点けて吸う。その繰り返しだった。房恵も限界だった。房恵は隆道に電話し、私は、岡山に帰ることになった。
 
新幹線に乗るために行った東京駅で、私は房恵とはぐれてしまった。自分がいったいどこにいるかさえもわからなくなっていた。そして、なぜか結婚指輪を外して、投げ捨ててしまった。房恵が私を見つけて、私たちは、広島行きの新幹線に乗った。私は、席にじっと座っていられなくて、新幹線の通路を行ったり来たりと、うろつき続けた。疲労から、居眠りをしてしまった房恵は、私の姿が見当たらないことに驚き、新幹線の中を探した。私は、新幹線の一番先頭の車両で、ぶつぶつと一人ごとを呟いていた。
「もう!葉月ちゃん!何してるの!」
と、房恵は私の腕をつかみ、座席へと連れ戻した。
 
私たちは、岡山で降りた。岡山駅には、隆道が迎えに来ていた。そして私たちは、山陽病院へと向かった。車内で房恵と隆道が、何を話していたかは覚えていない。病院に着く前に、私たちは、昼食を食べるために、うどん屋に寄った。そこでも私はじっと座っていられなくて、うどんを食べずに、ずっと店内を歩うろうろと歩き回った。
 
山陽病院では、当時、副院長だった中嶋先生の診察を受けた。私はそこで、
「入院は嫌だ!」
と、暴れたらしい.”らしい”と言うのは、後で隆道からそう聞かされたからだ。その時の診察を私は全く覚えていない。気がついたら保護室に入っていた。

「出して!」
と叫ぶ私を体格のいい、二人の看護師が押さえつけ、私の腕に注射を打った。すると全身の力が抜けて、私は床に崩れ落ちてしまった。後になって隆道に聞かされたのだが、「その注射を打って後遺症が出ても、文句は言わない」といった内容の同意書に、隆道はサインしたらしい。それほど強い注射だった。私は、全身の力が抜けて、床にぐにゃりと倒れこみ、そのまま寝入ってしまった。
 
病院を出た隆道と房恵は、抱き合って泣いたらしい。私がどうなるのか、大智と亮純がどうなるのかと思って、二人は泣いたのだった。
 
房恵は、隆道と別れた後、鞆の浦の旅館に一人で泊まったらしい。そして私や隆道、大智や亮純の行く末を思って泣いたという。あとになって、房恵がそう私に聞かせてくれた。
 
入院した次の朝に、目覚めた私は、殺風景な保護室の様子に驚いた。6畳くらいの広さの部屋の床に、布団が一組敷かれていた。入口の近くに、水洗の便器がある。それだけだった。白いドアは、外から鍵がかかっていて、押しても引いても開かない。ドアの上には、外から中の様子を見られる、小さな窓があった。隣の部屋からは、男の人が「わあ、わあ」と叫ぶ声が聞こえた。余計に頭がどうにかなってしまいそうだった。
 
たまらず、私は両手でドンドンと、扉を叩いた。
「すいません!すいません!」
私は、叫んだ。しばらくして看護師が扉の上方の窓から中を覗き、
「何?」
と不愛想に聞いた。
「水、水を下さい。」
私は言った、看護師は水の入った紙コップを持ってきて、私に渡すとそのまま立ち去って行った。私は部屋の中をぐるぐると歩き回った。落ち着かなかった。じっとしていられなかった。と木戸沖看護師が、扉の上方の窓から、私の様子を見に来た。
 
3日経ち、私は1日2本タバコを吸うことを許されて、保護室の外に出た。少しの時間だが、保護室を出ることを許されたのだ。保護室を出た私は、そこにいる患者たちが、川崎医大付属病院の患者たちとは、明らかに違っているように感じた。皆、もっと重い症状に見えた。そして、一週間が経ち、私は、大部屋に移った。
 
精神病院には開放病棟と、閉鎖病棟がある。私が入院したのは、閉鎖病棟だった。どのドアにも鍵がかかっていて、窓の外には格子があって、外に出ることができない。格子越しに窓の外を眺めては、
「ここから出たい!家に帰りたい!」
と、思った。
 
大部屋の同室に、洋子という女性がいた。もう10年も入院しているという洋子は、Picasoとプリントされたハンカチを持っていた。
「可愛いハンカチ」
と、私が言うと、洋子は、
「ピカソにもらったの」
と、言った。背筋に寒気が走った。 

邦子という、60を越えた女性は、私に
「あなた、うちの主人と浮気したでしょう!」
と、しつこく言ってきた。これには閉口した、 床に寝転がる女性。上半身裸で、走り回る老婆もいた。みんな壊れていた。
 
入院して、ジプレキサという薬を処方された。薬の効き目が出る前に、副作用が出た。口喝と便秘だ。特に便秘はひどかった。チネラックという下剤を5錠飲んでも排便ができなかった。ジプレキサの副作用には、他に体重増加がある。病棟での生活での運動不足も相まって、私の体重は、徐々に増加していった。
 
寺の仕事や家事、子供たちの世話で忙しい中、隆道は時折、面会に来てくれた。隆道の顔を見ると、ほっとした。
「家に帰りたい!子供たちに会いたい!」
と、言う私に隆道は、
「きちんと治さないとダメ。僕たちはどこにも行かないから」
と、言った。

病室のベッドに横になる時いつも、
「大智と亮純を抱きしめたい!」
と思った。寂しくて、涙が出そうになった。そして、シミのある病室の冷たい壁を見つめながら寝入る日々が続いた。

山陽病院には、A棟、B棟、C棟があった。A棟は開放病棟で、煙草が自由に吸える。B棟は高齢者の患者が多かった。私のいたC棟は、閉鎖病棟で、煙草は1日7本と決まっていた。何もすることのない入院生活。注文したおやつを食べることと、煙草を吸うことだけが、楽しみだった。 病棟には、もう16年も入院生活を送っているという男性もいた。その男性も、
「煙草だけが、僕の楽しみだから」
と、言っていた。
 
入院生活での起床は6時で、消灯は9時だった。消灯の時間になると、男性がいる病室と、女性がいる病室の間のシャッターが下りてくる。シャッターが下りる音を聞くと、
「今日も一日が終わる」
と、何とも言えない虚しさと、淋しさが込み上げてきた。そんな風にシャッターを下ろして、男性患者と女性患者の性的な間違いを防いでいるはずだったが、性行為をした患者たちがいると、噂で聞いた。夜ではなく、昼間にだという。
(どこで?どうやって?)
と、私は不思議に思った。
 
ある日、いつも通りに煙草を吸っていたら、通りがかった中嶋先生が、
「煙草やめたら?お寺のおかみさんがタバコを吸っていたら、おかしかろう?」
と、言った。その言葉にハッとして、私は次の日から煙草をやめた。
 
そんな入院生活だったが、薬が効いたのか、十分に休養したのが良かったのか、私は外泊を繰り返し2か月半で、退院することができた。

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