統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol39

50 鬱になった大智

大智は一浪して、博多の大学に進学して、博多で、一人暮らしをしていた。軽音楽部に入り、充実した大学生活を送っていた。そして大学のバンド以外でも、バンドを組んだ。大智はドラマーだった。大智は5歳のころから、ドラム教室で、ドラムを習っていた。保育所の時の将来の夢は、ドラムの先生になることだった。とにかくドラムが好きで、好きで仕方なかった。
 

大学以外で組んだバンドのギターボーカルの子は、仏教に興味があった。
「俺、寺の息子なんよ!」
と、大智は興奮気味に言った。会った時から彼と意気投合し、バンドを組むことになった。後で加わったベースの子も、とても実力のある子だった。皆、プロになりたいと、真剣にバンド活動をしていた。大智も、プロになりたいと思うようになった。
 

三人は、博多を中心に、九州各地でライブをした。固定のファンもついてきた。
(このバンドでもっと頑張りたい!プロになりたい!)
と、大智は思った。
 

でも、一つ問題があった。彼は、隆道の寺の跡取り息子だった。隆道も私も、大智に、
「お寺の跡を継ぎなさい」
と、言っては育てなかったが、大智は、自分が跡を継ぐものだと思って育ってきた。しかし、彼が跡を継ぐために、修行に行っては、バンド活動ができなくなってしまう。大智はすごく悩んだ。バンドの他のメンバーに申し訳ない思いでいっぱいになってしまった。
 

悩んだ大智は、私に電話をしてきた。
「おかん、俺今のバンドを続けたいんよ。でも修行にも行かんといけんのよ。どうすりゃあいいんじゃろう?」
と、思いつめた声で言ってきた。
「お父さんによく相談して」
私は、それしか言えなかった。
 

大智は、頻繁に私に電話してきた。時には、
「電話、切らんで」
と、言うこともあった。私はいつ大智から電話がかかってきてもいいように、電話を肌身離さずに持ち歩いた。
 

配になった私は、松河先生に、大智の事を相談した。松河先生は、
「大学にカウンセリングしてくれるところがあるだろうから、そこに行くように言ってあげて」
と、言った。私は大智にそれを告げた。大智は、カウンセリングを大学で受けた。少しだが、声が落ち着いていた。
 

でも、しばらくするとまた、不安そうな声で私に電話をしてきた。
「カウンセリングの先生の勧めで、精神科に行ったんよ。薬を一錠飲んどる。けど不安になるんよ」
と、大智は言った。軽いうつ病と診断されたようだった。

私は心配になって、隆道に電話をかけた。
「私が、博多に行きましょうか?」
と、私は隆道に言った。隆道は、
「あなたも体が悪いのだから、自分の心配をして。大智のところには、私が行くから」
と、言った。そして隆道は、博多に行って、大智と話した。

早くから一人暮らしをして、大智はかなり無理をしていた。そんな無理から来た疲れなどが、一気に出てしまったようだった。そして、やはり、バンド活動を続けたいという思いと、寺を継がなければという思いとの揺れに苦しんでいた。
 

隆道は、大智を岡山に連れて帰った。少し静養させるためだった。それを聞いて、亮純も岡山に帰った。そして三人で話し合った。
「そんなにやりたいなら、お兄ちゃんは音楽をやり。僕が寺を継ぐけえ」
と、亮純が言った。亮純のその言葉に、隆道も、大智も驚いた。でも、亮純は本気だった。
「亮純が継ぐのなら、なんの問題もない。大智、お前は思い切り音楽をやれ!好きなことをやれ!ただし、人に迷惑はかけるな」
と、隆道は言った。
 

それから、嘘みたいに大智の症状は軽くなり、鬱病の症状は影を潜めて、やがて消えてしまった。これらの話は、大智が後に私に聞かせてくれた

51 京都の大学に進学した亮純

 

別れた時は、中学生だった亮純は、京都の大学に進学した。服が好きな亮純は、将来、ファッションに関する仕事に就きたいと考えていた。専門学校に通おうかと悩んだが、大学で語学を学び、服の輸入などの仕事に就きたいと考えるようになっていた。
 

その頃は、電話でもやり取りできるようになっていたので、私も色々とアドバイスをした。試験にも無事に受かり、京都市内にある大学に、亮純は進学した。

後に亮純は、私に、
「京都の大学に進学したのは、やっぱりおかんが京都にいたからだと思う」
といった内容の手紙をくれた。幼い頃は甘えん坊で、私にべったりだった亮純だ。私はその手紙をもらって涙が出そうになった。今も大切にその手紙を大切に残している。
 

京都で一人暮らしを始めた亮純とは、亮純から連絡が来る場合もあったし、私から連絡する場合もあったが、私たちは月に一度ほど、会って食事をしたり、お茶を飲んだりと、楽しい時を過ごした。節子の家に亮純が来て、一緒に食事をすることもあった。節子は、とても楽しそうだった。
 

会えないだけでなく、連絡も取れなかった日々があったことを思えば、夢のようだった私は幸せをかみしめた。そして、隆道への感謝の思いを抱いた。
 

亮純は、スペイン料理の店でアルバイトを始めた。そしてお金を貯めて、大学を卒業してから、アジア、ヨーロッパ、アフリカへと一人旅に出た。旅先のインドには、大智も行って、二人でインドを旅した。かけがえのない経験を積んだ亮純。
 

旅から帰って来てからは、私のアパートにも来てくれた。友達をたくさん連れてきたので、少しびっくりしたが、元気で、そして、逞しく成長した亮純の姿を見られてうれしかった。
 

亮純は旅先で書き溜めたスケッチや、写真を集めた個展を開いた。とても良い個展だった。亮純の個展には、私の友人や、中学校の時の恩師の先生も来てくれた。一つずつ、夢を形にしていく亮純。そんな彼をとても誇りに思う。

大智が、
「音楽を続けたい」
と、言ったために。寺の跡取りになることになった亮純。今は、僧侶になるための道を頑張って歩んでいる。幼い時に、母親が、精神疾患になって、入退院を繰り返したことは、彼にとっては、辛い体験だと思う。でも、その分、人の痛みに寄り添うことができるようになったのではないかと思う。修行を積んで、立派な僧侶になってくれることを願っている。



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