統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol7

10 高校生活
 
中学卒業までその下宿にいて、高校に上がってからは、高校の斡旋する下宿に移った。地方出身者や、家の遠い人が下宿していた。その中に中学校の時から知っている一つ上の先輩の冴子もいた。冴子の実家は、東大阪だった。冴子は、私が下宿に入ったのをとても喜んでくれた。冴子の実家にも私は泊まりに行った。冴子の母が、手作りのドーナツを私たちに持たせてくれた。
 

高校でも私は、バスケ部に入部した。部活が終わった後も、クラブのメンバーと宝ヶ池を走りに行ったりした。今思えば、本当に元気だった。私は、勉強も頑張っていた。将来は作家か、弁護士になりたいと、思っていた。そして留学したいという夢も持っていた。高校2年生になっても、勉強と部活を両立させていた。

一年先輩の冴子は、私をかわいがってくれた。時々一緒にご飯を食べに行ったりした。とても面白い先輩だった。お金がなくて、二人で楽器屋に、ギターを売りに行ったこともある。そのお金で、二人で、たこ焼きを買って食べて、おいしさに涙が出そうになったこともある。

バスケ部の部活も頑張っていったし、勉強も頑張っていた。常夫と房恵は、時々京都に来てくれた。常夫は、私に、
「葉月、これからは農業や。京大の農学部に言ったらどうや?」と、よく言った。今に一生懸命で、私は、先の事など考えていなかった。
(京大か。農学部か)
と、私はぼんやりと、自分の進路の事を考えた。
 

あんなに頑張っていた、バスケ部。でも、高校2年の秋に、私はバスケ部を退部してしまった。顧問の先生からも、チームメイトからも、
「今辞めるなんて、もったいない!」
と。さんざん引き留められた。でも辞めてしまった。冴子たちと、夜遊びをするようになり、それが楽しくて、バスケ部への情熱が冷めてしまったためである。


私は付き合う友達も変わり、その当時全盛だったMAHARAJYA などのディスコに行ったりして夜遊びをするようになった。学校から帰ると、服を着替えて。化粧をして、夜の街に繰り出した。世はバブル経済、真っただ中だった。夜の街は華やかだった。

私のいた下宿には門限があった。門限は10時だった。もちろんそんな時間には帰って来られない。私は下宿の後輩に、トイレから外に出られる扉の鍵をこっそり開けておいてもらった。夜中を過ぎてから、そこから下宿に、足音を忍ばせて入る。そして少し寝てから、学校に行くといった暮らしをした。

変わってしまった私に、やよいは、
「今の葉月を見たら、ママが悲しむわ」
と悲しそうに言った。私は、うつむいて、そんなやよいの言葉を聞いた、
 

11 会社の倒産、大学進学

その頃、常夫の会社は危機を迎えていた。中国産の安い製品に押され、軍手などの売上が激減していた。常夫も房恵も資金繰りに追われていた。二人は懸命に頑張ったが、事態は好転せず、二回目の不当たり手形を出してしまった。会社は倒産した。
 

常夫の会社の倒産は、私にかなりのショックを私に与えた。大学に入ったら、海外、できればアメリカで、英語を学びたいという夢を私は持っていたのだが、経済的に、とてもその夢を叶えられるとは思えなくなった。その前に、大学に進学できるかどうかもわからなかった。

私は、高校の勉強に身が入らなくなって、成績は急降下した。法学部か、英文科に入学したいと思っていたのだが、私の成績では、どちらも無理だった。いっそうの事、手に職をつけようと思った私は、会社の残務処理に追われる中、京都に来てくれていた常夫と房恵に、
「鍼灸治療師になれる学校に行きたい」
という思いを告げた。房恵は賛成してくれたのだが、常夫は、
「鍼灸治療師なんて、目の見えへん人のする仕事や!大学へ行け!」
と一方的で、取り付くシマもなかった。

常夫自身が、大学進学を経済的な理由であきらめざるを得なかったこともあり、大学に対する特別な思い入れがあったのだ。
「金の事は心配するな。そのぐらいは何とかしてやる。だから、大学に行け!」
と常夫は言った。

常夫たちが秋田に帰った後、私は進路希望の紙を前に悩んだ。夢の一つだった、弁護士になるための法学部に行くには成績が足りない。英文科も無理だ。いっそうのこと夜間の法学部に進学しようかと思った。学費も安いし、一年上の冴子が夜間の法学部に通っていた。私は、もう一度、大学のパンフレットをよく読んだ。私の好きな作家の筒井康隆氏のインタビュー記事が載っていた。
「作家になる」
それは、もう一つの私の夢だった。

私は、進路希望表に私は筒井氏の卒業した、文化学科の美学及び芸術学専攻志望と書き込んだ。そして、次の日に提出した。


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