統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol6

7 房恵・直樹との出逢い

中学2年生の冬に、泊まりに来ていた常夫が、
「葉月、孝也、秋田にスキーに行こう!」
と、言った。その頃、盛岡での仕事が軌道に乘っていた常夫は、秋田に支社を出していた。その秋田にスキーに行こうと、私たちを誘った。
「行く!行く!スキーに行く!」
孝也は、大はしゃぎだった。スキーはやったことがない。私も行ってみたくなった。

冬休みになってから、常夫は私たちを京都まで迎えに来てくれて、私たちは飛行機で秋田に向かった。

空港には、父より少し若い齢くらいの女性が、車で迎えに来てくれていた。きれいな女性だった。後部座席には、小学校1、2年生くらいの男の子が、ちょこんと座っていた。女性は常夫を「社長」と呼んだ。
(会社の人か)
と、私は思った。
「直樹、挨拶しなさい!」と、その女性は言った。
「房恵さん、いいから、いいから」
と、常夫が取りなした。
(ふさえって名前なのだ)
と、私は思った。
(お父さんと、どういう関係なのだろう?)
私は、それが気になった。

房恵の運転する車で、私たちはスキー場へと向かった。初めは照れくさがっていた孝也と直樹だったが、スキー場に着くまでにはすっかり打ち解けて、後部座席でじゃれ合っていた。
(ふさえさんとお父さんは、どんな関係なのだろう?)
と、私はそればかり思った。
 
スキーは思っていた以上に楽しかった。孝也と、直樹と私は一日スキースクールに入り、三人とも滑れるようになっていた。リフトにも乗れるようになった。

直樹は、私と幸也を「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」と呼んでなついた。その夜は、スキー場の近くの温泉に泊まった。孝也と直樹が寝入り、房恵が風呂に行った時、ブランデーの入ったグラスを傾けながら、不意に父は私に向き直って言った。
「葉月、直樹君、可愛いやろう?」
「うん」
「房恵さんもええ人やろう?お父さんなあ、今、房恵さんとお付き合いしてるんや」
(やっぱり!だから私たちをスキーに誘ったのだ!)
私は、少し腹が立った。
「房恵さんならなあ、葉月と孝也のいいお母さんになってくれると思うねん。どうや?」
何と答えていいかわからなかった。
(お母さんって言われても・・・)
何と答えたらいいのかわからなかった私は、
「もう寝るから!」
と、ちょっと不貞腐れて言って、布団にもぐり込んだ。
 
房恵が和歌山のクラブのママだということは、後で知った。接待で房恵のクラブに連れて行ってもらった常夫は、房恵に惚れ込んでしまい、秋田から足しげく和歌山の房恵のクラブまで通って、房恵を口説き落としたのだ。房恵もまた離婚していて、直樹を一人で育てていたのだった。そんな房恵に、常夫は、大原の三千院で、
「子供たちの母親になってくれないか?」
と、プロポーズしたのだった。房恵がそれを受けて、二人は結ばれたのだ。

 
8 時子の家へ・そして一人暮らし

スキーから帰ってきてからの日々は慌ただしかった。房恵はクラブを閉めて、直樹を連れて、秋田で常夫と暮らし始めた。そして、二人は籍を入れた。常夫と房恵は結婚の報告と、孝也を秋田に引き取りたいと告げるために、京都の節子の家に来た。直樹も一緒だった。
「そんなどこの馬の骨ともわからん人に、葉月ちゃんと孝ちゃんを預けられへん!」
節子は怒っていた。二人が、挨拶もなく入籍したからだった。

「孝也だけを引き取りたいんや。葉月は今まで通りこの家に置いてやって欲しい。せっかく同志社に通ってるんや。学校は続けさせてやりたいんや」
常夫は頭を下げた。
「孝ちゃんを連れて行くなら、葉月ちゃんも連れて出て。家ではよう見いひんわ!」
頑固な節子は、怒って言葉を投げつけた。

「わかったわ!葉月は、時子のところに預けるわ!」
常夫も怒って言った。
「好きなようにし!さっさと連れて行ってんか!」
節子は怒鳴った。

その晩は、私たちは旅館に泊まった。父の妹の時子と夫の洋平、いとこの香織と陽太も一緒に泊まった。時子と洋平が、房恵に会うのは初めてだった。でも、話し上手な房恵を二人は気に入り、時子は、
「良かったなあ、常ちゃん」
と、しきりに言った。
常夫と房恵は、時子たちに私を預かってくれるように頼んだ。
(香織たちと一緒に暮らすのは楽しいだろうな)
と、私は思った。

 次の日、節子の家に行き私と孝也の荷物を整理して、秋田と時子の家に送る手続きをしに、節子たちの家に行った。節子は口をきいてくれなかった。そして私は、時子たちの家へ、孝也は常夫たちと一緒に秋田へと向かった。
(楽しいだろうな)
と、思っていた香織たちとの生活だったが、時子の家に行ったのは、失敗だった。香織は私の一つ下で、陽太は二つ下だった。同年代の子供がいる家に下宿するのは、難しい。それに加えて、時子はとても口うるさくて、細かかった。
「葉月は、トイレットペーパーをよく使う」
「食べ方が汚い」
「服装がだらしない」
などと、いちいち常夫と房恵に電話をかける。常夫たちは仕事ができない。そして、度々常夫たちに金を無心した。

私は、時子の家に居たくなくて、塾に通った。塾では、英語と数学と、そして英会話を学んだ。塾の先生は、
「葉月さんの英語は素晴らしい。京大にだって行けますよ」
と言ってくれた。

ひっきりなしにかかってくる時子からの電話を常夫と房恵は、半年間は我慢したが、限界だった。常夫と房恵は、私を時子の家から、常夫の友人が経営する下宿に預ける段取りをしに京都に来た。常夫は私に同志社に通い続けて欲しいと思い、私もまた、同志社に通い続けたかった。

下宿は女子大生向けで、台所と風呂とトイレが共用だった。電子レンジやテレビ、炊飯器など必要な電化製品を買い、学校の事務所で住所変更の手続きなどをした。房恵は私に、大急ぎで米の研ぎ方と、炊き方を教えてくれた。そして、二人は、仕事のために秋田に帰って行った。

こうして私の一人暮らしが始まった。私は15歳だった。常夫と房恵は、2週間に1回ほど、週末に飛行機に乗って、京都に来てくれた。今思えば、すごい額のお金を常夫と房恵は使ったと思う。
 
私が下宿での一人暮らしを始めたと聞いたやよいの母は、やよいのお弁当と一緒に、週に3回、私のお弁当も作ってくれた。節子や時子の事もあって、「大人不信」になっていた私にとって、やよいの母は、唯一の信頼できる大人だった。

やよいの母とは、今でも交流がある。毎年、母の日に、ささやかだが、プレゼントを贈ったりしている。本当に素敵な人だ。私は、やよいの母から受けた恩を生涯忘れないだろう。


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