(BL小説)旅の終着 第六話

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―熱いな―
 唇を吸われながら、他人事であるかのように詠心は思った。想像していた、ぬるりとした生ぬるい気持ち悪さは無い。ただ灼けるような熱さが唇から頬、そして脳にまで伝染していった。
 口づけの最中、輝信の手が詠心の胸元に滑り込む。その瞬間、詠心は反射的に輝信を突き飛ばした。しかしすぐさま我に返り、輝信に向き直る。
「も、申し訳ありませぬ! 驚いてしまっただけで御座います。決して貴方様を拒絶したわけでは……」
「そうかい。まあ、そうだよなあ」
 輝信はあからさまに落胆した。詠心はどうにか輝信の機嫌を取ろうと早口で言い訳を続ける。どうしてこんな事をしたのか、詠心自身も分からなかった。覚悟はできていたと思っていたのに、意思に反して身体が動いてしまったのだ。
「設楽様、あの、私は」
「いや、いい。言うな。あんたがまだ俺に抱かれたくねえのは分かった」
「そんな、そのような事は――」
 詠心が食い下がるのを輝信は手で制す。
「今日はもう十分だ。その代わり、あんたは誰のモンにもなるな。誰かのモンになるなら俺のだ」
「……畏まりました」
 詠心は申し訳ない気持ちでいっぱいのまま頭を下げた。輝信が嫌いなわけではない。頭では自分はもう輝信の物であると信じ込んで腹も括ったというのに、まだ身体が輝信との行為を拒絶した。だが、輝信が離れてほっとした気持ちもあった。

 あの落胆ぶりを見ればもう屋敷に呼ばれる事は無いかもしれないかと思っていたが、翌日も翌々日も屋敷に連れていかれた。この頃はもう、例の『白勢の鬼神』以外にも季節や天気を連想した曲、輝信が指定した雰囲気の曲を奏でるようになっている。詠心は以前と変わらず真剣に丁寧に曲を奏し、輝信は真っ直ぐに詠心を見ていた。

 そのうち桜が散り、芍薬が崩れ、木槿の季節となった。千里の件からかなりの時間が過ぎている。段々と輝信からの抱擁や口づけを避けられなくなってきた。同情や気の迷いでは誤魔化せない。輝信に対して詠心自身に隙ができたのだ。
―いっそ有無を言わさず全て奪ってくださればいいのに―
 どうにもできないもやもやとした感情を持て余した詠心は、自分の不甲斐なさと弱さを棚に上げながら心の中でそう思った。だが、本気でそんな事をされては二度と輝信に心を開けなくなるだろう。自暴自棄になって破滅していたかもしれない。詠心が心を寄せたのは、なんだかんだ言いながら最終的に詠心の気持ちを尊重してくれた輝信なのだ。前に肌を触れられた感触がいつまで経っても消えずに残っている。
 詠心は自分が輝信を好いてしまったのだと気付いた。輝信の想いに応えたい。もう詠心は輝信を拒む事ができなくなった。しかしそうなると、どうしても避けては通れない詠心自身の問題ができた。
 詠心自身は物心付いた時から質素な暮らしをしていた。母と乳母が常に側に居て、よく祖父などが遊びに来て、詠心はあまり外には出られない子だったがそれなりに幸せだった。だがそこに父親の存在は無い。自身は母を喪い、生まれた家を出ていくその日まで知らなかったし、恐らく輝信でも知らないだろう。今まで一切その気が無かった頃は全く気にしていなかったが、詠心は手放しで輝信に仕えるのは難しい立場だ。詠心がそれを意識するようになったのは、手元に届いた一通の手紙が原因である。どんな経路を辿ってきたのかは分からない。斎主からのものだ。この手紙が届き次第顔を見せに来るように、と書かれていた。
―行きたくはないが後々が面倒だ。設楽様を巻き込む前に片を付けねば―
 斎主に詠心を側に置く事に利益があるとは思わないが、自分を火種とした無意味な争いが起こる可能性が少しでもあれば早めに潰しておきたい。
 それ以前に、他人の陰謀に巻き込まれる前に逃げたいと言うのが本音だ。宮中になど居たくはないし、間者になれと命じられて政治や欲望の為に利用されたくはなかった。
 詠心は誰にも何も言わず、翌日のまだ朝日が昇る前に宿屋を出た。しかしすぐに向かうつもりはない。ささやかな抵抗と最後かもしれない自由な流れ者の旅路として、行ってみたい場所があった。

 やはり一度は輝信の故郷であり、治めていた国を見てくるべきだろう。そう思い、詠心は七瀬の海、比治の地を目指した。
「あんた、どこの人や? ここへは何しに来たん?」
 詠心よりも一回りくらい年上だろう女性が船から降りた詠心に声を掛けた。
「ただの流れ者です。とある御方の愛する故郷を見に来たのです」
「そうかい、じゃあ案内できるとこならしてやろうか?」
「有難う御座います。よろしくお願いします」
 詠心は女性に案内され、島のあちこちを歩き回り、代わる代わる住人が詠心に食材を押し付け、町だ海だと連れ回された。詠心はよく旅先で現地の人らと親しくなるが、比治は最も距離が近かった。陽気で気立ての良い者が多いようだ。
「いやァしかし、見た目はともかく良い男やな。男らしさは無いけどねえ、品があるし知性もあるし、度胸もある。多少の欠点くらい目を瞑ってやれるよ。ねえ」
 最初に声を掛けてきた女性が詠心をまじまじと見て言う。だが女性の隣にいた、彼女の姪だと名乗った少女はつんと返した。
「あら、あたしは嫌よ。男ならもっと豪快で逞しくないと」
「そりゃあ若いあんたはそうやろうよ。で、どうだい? あたしの旦那にならないかい?」
「いいえ、私には生涯を捧げると決めた御方がいますから」
「そりゃあ残念だ」
 女性は声を上げて笑った。愉快な人だと詠心は思う。物怖じせずあっけらかんとしてお喋りなこの人は、男性にはあまり理想的ではないだろうが、詠心は嫌いではない。勿論踏み込んだ関係になろうとは思わないが、良い友人になれるだろう。
「一つお聞きしたいのですが」
「あたしの歳なら教えないよ」
「いえ、設楽輝信様をご存知ですか?」
 女性は一瞬きょとんとしたが、再び声を上げて笑った。
「ご存知も何も、ここいらで頭を知らないのは赤子くらいのもんや。で、頭が何やって?」
「設楽様はどのような御方なのですか?」
「どのような、ってねえ?」
「何でも良いのです。印象、性格、貴女やここの皆様がどう思っているのか、あの御方がこの場所をどう思っているのか……何でも良いのです。お話しいただけませんか?」
 女性や先程口を挟んできた少女、そしてその近くにいた人々は口々に輝信の話をした。顔と名前だけしか知らぬ者も、共に漁に出た者も、たまたま出会った事がある者も、好き好きに詠心に語ってくれた。恨み言も含め、何だかんだと様々な話を聞いたが、比治の人々はみな輝信を愛しているようだ。
「ところで、何で頭の話を聞きたがるんだい?」
 詠心は輝信の伴侶になる事を話そうかと迷ったが、「設楽様の曲を奏でたいのです」とだけ答える。
「んじゃあ、やっぱり海見りゃいいよ。なんたって日ノ本一、海の似合う御方だろうからな!」
 詠心はその助言通り、浜へ行き海を見た。それから小船に乗せてもらい、景色を堪能する。天気が良いからか、波は穏やかに寄せては返しを繰り返していた。ここへ来るときにも思ったが、詠心の知る海よりも青い。鮮やかな海の青と泡立つ波の白色の対比が美しい。良い景色を見ると詠心の気分は高潮する。詠心はこの風景をかなり気に入った。
「これは良い。ずっと見ていられるな」
 七瀬は良い景色だと輝信に伝えようか、まだ暫くは会えぬゆえ、手紙を出してみようかと考えた。船を降りてから詠心は紙と墨を買い、筆と硯を借りる。何と書こうか、頭にいくつもの言葉を思い浮かべたが相応しい言葉は出てこない。代わりに以前、輝信に渡された書の写しに書かれた句を一首書いてみた。
『わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波 ―詠心―』
 手紙を送り、龍笛を取り出した。波の音を思い出しながら奏でる。輝信にはどんな音が似合うだろうか。試行錯誤を繰り返しながら数日の間、浜で笛を吹き続けた。

第七話は明日、7月14日午後公開予定です。


原作はこちら

『非天の華』著 : 葛城 惶


原作…葛城 惶さま(@1962nekomata)

表紙…松本コウさま(@oyakoukoudesu1)