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瀬村みき、裸足の若者ホームレスと会う②

瀬村みきから裸足でいる理由を問われ、路上生活者の男はしどろもどろになった。耳が真っ赤になっている。無理もない。艶やかでシャンプーの香りのする髪、染み一つない白い肌、品の良い眼鏡の奥から覗く知的なまなざし、控えめな淡いピンク色をした唇。この優しく美しい女性を前にして、生まれてからずっと貧困の中に育ち、童貞として三十路を迎えた裸足の男は、初めて自分が裸足であり、不潔にしていることを恥ずかしく思ったのだから。

 男は、羞恥のために震えながら、空手着のズボンの裾から覗く足裏を前蹴りのような格好で瀬村みきに突きだした。少しでも自分を格好よく見せようとしたのだ。彼女は、都市のあらゆる汚れが堆積した分厚い足裏をじっと見つめている。男は自分の足裏を指差し、言った。

「ずっと裸足だったから。物心ついた頃からずっと…」

 瀬村みきは微笑んだ。男はその笑顔を可愛いと思ったが、恥ずかしくて見ていられず、顔を伏せた。

「O君、だよね?」

 男は黙っている。

「やっぱり。右の足裏の中指の付け根に、ほくろがある。わたし、瀬村みき、覚えてる?小学校のとき一緒だった」

「うん」

 男は俯きながら小さくうなづいた。

「O君、あの頃から変わらないね」

 その瞬間、男の口から堰を切ったように言葉があふれだした。

「僕は小学校のとき、母と二人暮らしで食べるのも苦労するくらい困窮していた。上履きを買う余裕がなく、校内では裸足で過ごしていた。入学式から卒業式まで裸足だった。皆は上履きと靴下やタイツを履いていて、内心うらやましかった。僕は貧乏で裸足で不潔だったから皆からいじめられた。そんな中、みき、君だけは僕の味方だった。もちろん君は、清潔な上履きと靴下を履いていたけど、いつも裸足の僕を心配してくれた。ときどき君は僕の足を上履きで踏んだよね。痛かったよ。わざとのときもあっただろうし、わざとじゃないときもあった。でも、悪い気はしなかった。君の上履きに裸足を踏まれると、僕は心臓がばくばくしたんだ」

「わたしもなの。O君の裸足を見ると、なんだかドキドキしちゃって。埃やごみで真っ黒になったきったない足なんだけど、見てはいけないものを見てしまったような感じ。あと、たまたま上履きでO君の裸足を踏んでしまったことがあって、そのときの靴底を通して伝わった感触がね、やみつきになっちゃったのよ。わたし、いけないことしてる…と頭ではわかっていながら無防備な裸足を上履きで踏むことの背徳感よね」

 "みき、この都会で僕を見つけてくれてありがとう"

 僕と瀬村みきは、夜遅くまで路上で小学校時代の思い出を語り合った。ふと、僕はみきが心配になり、

「こんな遅くまでここにいて、大丈夫なの?」

「大丈夫よ。旦那さんは単身赴任で遠い外国に行っているから。わたしたちには子どももいないし、わたしは広い家で一人暮らしなの」

「結婚、してたんだ」

「まあね。わたしたちは夫婦別姓だから、わたしの名字は小学生から変わっていないの」

「・・・・・」

「ねえ、O君、今夜もここで眠るの?」

「うん。まだ9月。夜風に当たると気持ちがよくて、身体の疲れもあるから、すぐに眠れるよ」

「よかったら、わたしの家に来ない?余っている部屋はたくさんあるのよ。居心地が良くなければ出ていって構わないから。やっぱり、路上で寝るのは良くないわ」

 僕は何も持っていないので、身一つで瀬村みきについて行った。駅前の駐車場に停めてある彼女の車の前まで来て、怖じ気づいた。瀬村みきの車は、華奢でおとなしい女性が運転するには似つかわしくない、車高が高くて白いピカピカの車だった。見たことがないマークが付いていたので、おそらく外国産の新車だろう。

「かっこいいね。何ていう車なの?」

「ポルシェよ」

「へー、聞いたことある」

「さあ、どうぞ乗って」

 僕は自分の足裏をまじまじと見つめた。こんな汚い裸足で、彼女の高級な新車に乗るのはさすがに気が引けた。そんな僕の心中を察してみきは、シルクの靴下に履いたゴツいスニーカーの靴底を僕に見せながら

「ほら、わたしの靴底もこんなに汚いよ。街を歩いたんですもの。靴も裸足も一緒ね」

 と言った。僕は嬉しくなり、車の助手席に乗り込んだ。クーラーが効いていて涼しい。そしていつも路上で過ごしている疲れた身体には、シートは最高に心地よかった。瀬村みきは運転しながら車の窓ガラスを開けた。せっかく涼しかったのに、かすかにコンクリートの匂いのする都会の熱せられた温い夜風が入ってきた。

「どうしたの?クーラーの方が涼しいのに」

 思わず僕はみきに聞いた。みきは眉間に皺を寄せ、顔をしかめ、左手で鼻と口を覆っていた。

「こんなこと言うべきじゃないって思うんだけど…O君が傷ついたらと思うと言えなかったんだけど…あの、本当に申し訳ないんだけど、O君、かなり臭うんだ。なんか酸っぱいのと納豆みたいのが混ざったような臭い。わたし、ちょっとくらくらしちゃって」

「ごめん。ずっと空手やって汗だくでさ、このシャツも空手着のズボンも一着しかなくて、洗濯できていないんだ。一応、夜中に公園の水呑場で裸になって身体を洗っているんだけど、やっぱり臭うよね」

 瀬村みきは車内では一言も喋らなかった。やがて車はやや坂道を上り、閑静な住宅街に入った。そして車がスピードを落とし、ライトが前方に照らし出したのが瀬村みきの邸宅だった。コンクリート打ちっぱなしのガレージと白樺を思わせる上品な白っぽい二階建ての家。庭には白い柵があり、ハーブやバラ、色とりどりの花が植えられていた。まるでおとぎ話に出てきそうな少女が夢見るお家だった。

 僕は、車から降りると、彼女の家の玄関に続くレンガの敷石をおそるおそる裸足で踏んだ。足裏に伝わる感触は冷たく、ざらざらしていた。OLのパンプスで踏まれてできた足裏のヒール痕がひりひり痛む。ヒール痕のできた箇所は皮膚が破れ肉が割れている。出血し、まだ瘡蓋にならないので、乾いたレンガの敷石に血痕をつけた。歩くたび、ヤスリのようなレンガの敷石の表面に足裏の角質が削り取られるような心地がした。家の主の瀬村みきは慣れた足取りでスタスタ、長いレースのスカートからのぞくシルクの靴下を履いた華奢な足首をしっかり守るゴツいスニーカーで闊歩した。その後ろを恐縮しながら、爪先が真っ黒に汚れた裸足でヒタヒタ歩く僕。とても惨めだった。瀬村みきに淡い恋心を抱いていた自分が恥ずかしい。僕は靴も買えずに裸足で過ごし、仕事も住まいもなく、路上で生活している。今まで異性を愛したことも愛されたこともない。三十路を過ぎて未だに童貞だ。一方、瀬村みきは結婚していて、美しくて清潔で靴と靴下を履いていて、素敵な家に住んでいて車も持っている…僕は胸が締め付けられるように苦しくなり、狂おしくなった。

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