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日本社会は信頼のコストが高い

被害を訴える加害者


モラハラ被害者の口が悪すぎる、と言うツイートがプチバズっていた。

リプライ欄を見ると賛同する人が多い。モラハラとは違うが、私もつい先日似たような経験をした。
とあるフリマサイトを利用しているのだが、私が出品した商品の購入者が終始喧嘩腰だった。「なんだこの人?」と思いながら、相手の機嫌を損ねないように丁重にメッセージのやりとりしていた。
取引が終わって私の評価を見ると「◯◯様(私の名前)がずっと煽ってきたり馬鹿にしてきたりして腹が立ちました」と書かれていたのだ。
「いやいや、それはお前だろ」と思い私も腹が立った。おそらく私のちょっとした言い方(といってもメッセージの事務的なやりとりでしかないが)が気に入らなかったのだろうが、それにしても被害妄想が強過ぎる人だった。

「加害的な人ほど他者からの被害を訴える」という傾向はあるのだろう。自己肯定感が低く「私は他者から承認されていない」「私は嫌われ者である」という思い込みが強いため、他者のちょっとした振る舞いに自分への加害的な要素を見出してしまうのだ。本人の主観では「他者から被害を受けたからやり返しているだけ」ということになる。客観的には口が悪く他人に対して常に攻撃的な人にしか見えない。

いうなれば「他者への信頼の低さ」に起因していると言えるのかもしれない。「他者への信頼の低さ」で思い出すのは東野圭吾の『白夜行』だ。この作品では幼少期のトラウマから他者への信頼を失い、犯罪行為を繰り返す男女の二人組が描かれていた。作中ではこの男女二人を猫に喩えて「幼い頃に人間にいじめられた猫は人間を警戒する」のと同じようなものだと説明されていた。

『白夜行』では過去のトラウマに原因があり、それは結局のところ不運な個人がいたという話でしかない。しかし、私が上記のフリマアプリで体験したことは、実は日本人がビジネスシーンで毎日遭遇していることではないかと思うのである。つまり、マナーを過剰に要求する日本のビジネス文化である。

日本の過剰なビジネスマナー


しばしば日本のビジネスマナーは過剰であると評される。銀行員の”お辞儀ハンコ”などは典型だろう。

こういった日本の過剰なビジネスマナーに対して辟易している人も少なくない。

過剰にマナーが要求されるビジネスシーンとは、被害/加害の判定が毎秒繰り返される超ストレスフルな場であるとも言える。相手の目線、表情、口調、声色、メールでの言葉遣いなど一挙手一投足を観察し「こいつは失礼なやつかどうか」判定が行われるのである。

ビジネスマナーとは言い換えれば「加害性のある言動だと思われる可能性を限りなくゼロに近づける」ものである。私たち自身に加害の意図があるかどうかは関係ない。相手から加害的だと受け取られる可能性が少しでもあるなら、そのような言動はマナー違反として潰していく。普段あまり意識はしないだろうが、私たちはビジネスシーンにおいて相手を「些細なことでこちらに難癖つけてくるめちゃくちゃ度量の狭いやつ」だと想定している。そのような想定がなければ過剰なビジネスマナーは生まれないはずだ。

ビジネスマナーが過剰に要求されるということは、それだけ相手を信頼するためのコストが高いということを意味している。私たちの社会は"信頼"のコストが他の国よりも高い。そして信頼のコストが高いことは、生産性にも影響しているだろう。ビジネスマナーが過剰であるほど時間的・労力的な無駄が生じるからだ。

では、信頼のコストが高いことに良い面はないのだろうか。私は思い付かない。ひたすら私たちを疲弊させるだけのように思える。労働意欲を減退させ、「そこまでして働きたくない」という人を増やすだけのように思える。ランスタッド社の国際調査によると、日本は仕事の満足度が世界で最も低く半数近くの労働者がお金の問題がなければあえて働かないと回答している。

他人から信頼してもらうためのコストが高くなれば、労働にも必要以上に負荷がかかることになる。特にホワイトカラー職では仕事で成果を出すための労力よりも、他者との信頼関係を築くことの方により多くの労力を費やす必要すらあるだろう。信頼関係とはあくまでも仕事を円滑に進めるための二次的なコストでしかないにもかかわらずである。二次的なコストが本来の債務の履行を圧迫する。まるでリボ払いのようだ。利息の支払いだけで毎月の返済が終わってしまう。日本の労働者はリボ払いのような労働によって日々疲弊している。


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