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【短編小説】薄暮冥々

電車から降りると、からりと空気は乾いていた。終点駅の小さなコの字型のホームでは、黄色い電車止めに陽があたっている。古びた白いベンチの隣には、色あせて傾いた酒饅頭の看板。がらんとしたホームに降りたのは僕だけだった。もうすぐ夕方になるのか、同じくコの字型をしたホームの屋根の隙間からは、空っぽになったような青い空が、薄い色に変わっていこうとしているのが見えた。

しばらくは乗ってきた電車を眺めていた。二両編成の小ぶりな車両。この電車に乗って、僕は何度も祖母の家に泊まりに来たのだった。家の近くの商業高校前からバスに乗り、まずは福島駅へ。そこからは飯坂線に乗って終点、温泉駅。温泉駅からは十綱橋を渡り交差点を右に折れ、途中酒屋の裏手の砂利道を抜けて、郵便局の前を通ってから、かつては雑貨屋をやっていた空き家の角を右に折れると、そこが祖母の家だった。

祖母の家にしきりに来たのは、僕の食い意地のせいだった。男兄弟が三人、小さなころには研究者だった父に職のない時期もあった。貧しくなくとも豊かではない家庭では、毎日の夕食が主菜の取り合いとなり、満足いくまで食べられることは少なかった。野菜炒めなら肉の枚数までを数えて分け合い、麻婆豆腐でさえひき肉の量を気にした。それでもだれかしらがその大きさや量に不満を持つので争いになり、じゃんけんをして決めることになるのだが、それは一見公平なようでも、実のところ兄たちは末っ子の僕がたいがいパーを出すことをわかっていた。

祖母の家なら好きなだけ食べることができた。そうしてそれが、僕が祖母の家に泊まりに行くほとんど唯一の目的だった。祖母の家ではいつでもぼくの好物が出された。古くて黒光りするテーブルには、とんかつや刺身のほか、卵焼きやいくら、味付海苔などが並べられた。もう中学生になっていた兄たちが一緒に来ることはなく、だからそこでは取り合いもない。祖母の家ならいくら食べてもいいのだとわかっていたが、習慣づいているのでどうしても気が引けてしまう。一度、まぐろの刺身を見た僕がつい、何枚食べていいの、と聞くと、祖母がなんとも言えない顔をして、そんなこと気にすんなぁ、と言ったのを覚えている。

電車がガタン、と身震いするように音を立ててホームから出ていった。線路は駅の少し先でゆるやかに左にカーブし、線路際に植えられた桃の木と、トタンを張った農家の物置小屋に隠れてすぐに見えなくなる。

電車が見えなくなると立ち上がって改札を抜けた。駅員はいない。電車が着いたときにだけ駅員が改札に出てくるというシステムは、むかしから変わっていないようだ。記念に取っておこうと、いまどき裏面の白い切符をズボンのポケットに入れる。きちんと終点まで切符を買ったのだから、これでも無賃乗車にはならないのだろう。

改札を抜け、広い階段を登って駅を出た。駅前の広場では、むかしから変わらずある松尾芭蕉の銅像がこちらにはそっぽを向き、駅から十綱町へと登る坂を見上げるようにして立っている。その足元では小さな噴水が、水量少なくなんだか汚い音をたてていて、その周りの花壇でも赤いサルビアが雑草に埋もれるようになっている。

交差点を挟んで駅の正面、あのパチンコ屋ができたのはいつだっただろうか。ずっと以前からあったようでもあるし、僕が子供のころどこかの時点で建ったような気もする。かつては派手な電飾を光らせていたのが、十年よりも前のことだったか、化粧板を貼りつけた和風の外装に変わった。ちょうどそのころ交差点を挟んだ向かいには同じような外観の観光案内所ができ、その少し先にはまたなにか小さな演芸場のようなものもできて、それは観光客の誘致に力を入れていたのだろうが、と言ってまさしくそれはとってつけたようなもので、だからその前からさびれだしていた街の状況が変わることはなかった。

パチンコ屋を左手にして十綱橋を渡ると、橋からはくすんだ緑色をした摺上川を挟んで、上流に向かって旅館が建ち並んでいるのが見える。といって、その数はもうずいぶん減ってしまった。かつてはどの旅館も川岸ぎりぎりに、五、六階もあるビルを建て、それが隙間なく並んでいるさまは、まるで川の両岸に壁が建っているかのようだった。それが観光客の減少に伴って立地の悪い、施設の古い旅館から一軒、二軒となくなりはじめ、ついにはあるときそのなかでも大きかった旅館が火を出して全焼してしまった。

それからは街の衰退は一層加速したようだった。川岸の壁には隙間ができるようになり、それが広がり、増えていく。いまでは橋から見て一番目立つあたりに、違い棚のように空き地が居座り、その奥には共同浴場などを新設したりしているが、それでもその景色のさみしさはまぎらわされていない。一筋裏道に入れば廃業した旅館やスナック、定食屋が埃っぽい色をして置き去りにされているし、表通りの旅館でさえも壁が剥がれ、屋根がゆがんで、修繕もままならないでいる。これといって近場に観光地があるわけでもなく都会から近いわけでもない、もともと衰退する運命にあったような温泉街が、やはりいまその運命に従って落ちぶれた風景をしている。

橋上の狭い歩道に立ち、摺上川を子連れの鴨が上り下りしているのをしばらく眺めてから、橋を渡りきり、橋元館を横にして右手に進んでいく。名前のとおり橋のたもとにあるのが橋元館だが、近ごろは一層さびれて、建屋の修繕もおろそかにされている。川に面した窓手すりはさびて折れているのがそのままになっており、屋根はゆがんで、その一端が沈んできてしまっているのを最上階のベランダから竹竿をつっかえにして支えている。このごろはもっぱら学生合宿などを相手にしてなんとかやっているようで、いまも表には○○高校サッカー部ご一行様、という歓迎板がかけられている。

その隣にあるのが若松やで、これも状況はほとんど変わらない。玄関から覗いたロビーは薄暗く、こちらには歓迎版もかけられていないで、なかには人影もないようだ。この若松やには一度、義兄と入浴に来たことがあった。普段は温泉といえば導専の湯や鯖湖湯といった共同浴場にしか行かないところ、なんの気まぐれか、義兄に誘われてまだ小さかった甥を連れて入った。そうして地下室のようになんとなく息苦しい浴場で甥を洗い、湯につかって脱衣所に戻ると、中学生くらいの女の子がタオルと着替えを持って脱衣所に入ってきた。僕らを見ると、あ、と言ってすぐに踵を返したが、あれはおそらく旅館の娘だったのだろう。普段から客のいない間に家族もその温泉を使っているようで、帰り際、脱衣所の洗面台を見ると、カバーを外した電気シェーバーがコードにつながれたままで置かれていた。

ロビーに上がるともう義兄がくつろいでいた。それで「裕君、飲もうか」と生ビールをおごってもらう。僕はまだ大学の一回生だっただろうか、苦いのを我慢して、ちびちびと含むようにそれを飲んだのを覚えている。

若松やを過ぎ、阿部留商店も過ぎて、いまではもうなかなか見ないような街の電機屋、いつの間にかインスタント食品ばかりを売るようになった八百屋、それから酒屋と過ぎていく。元祖巻煎餅の文字を大きく掲げた中村屋のある角を右に曲がり、そこから左に緩やかにカーブする通りを進むと、今度は緑色の、かつてはAコープだったコンビニが見えてくる。

コンビニといっても、このあたりに品数をそろえた商店はほかになく、まさしくそれは周辺地域に欠かせないライフラインとなっている。野菜や精肉、鮮魚、下着から仏花までをそろえ、だからこのあたりの高齢者はほとんどの買い物をここですませようとするのだが、やはりそれでもいざというときになると、なにか肝心なものが売っていないということもあるようだ。

コンビニを横目にして、洋菓子店のいろは堂の角をまた右に折れる。そうして、その先の角を左に曲がると、いよいよ祖母の家が見えてくる。


  **

以前からそこにあった家を取り壊し、祖父の代に建てなおしたという二階建ての家はもうずいぶん古いはずだが、といって造りがしっかりとしているせいかそこまでの年季は感じさせない。一階には居間とダイニングのほかに三間、二階に二間と充分な構えで、なかは何度かリノベーションをしているので新しく、祖母の晩年にはバリアフリーにもした。

その祖母の家に、いまでは歳の離れたいとこが寝起きしている。かつて母も祖父も亡くなったあと、ここに祖母とふたりで暮らしていた父はもう仙台の兄のところに引き取られている。父の出たあとは空き家となっていたこの家に、その管理をするついでにと、しばらく前からいとこが暮らすようになった。ここから福島の市街に通勤していくようだが、車で三十分くらいであるし、静かな場所で家もしっかりとして、そのうえ温泉にも気の向くときに入れるというのだから言うことないだろう。庭ではかつて葱や白菜を育てていたが、いまではもう雑草が思うまま茂るだけになっている。その庭を横切り、倉庫を兼ねた車庫のなかを擦りガラス越しに覗くと、車はないようだからいとこは仕事に出ているのだろうか。

障子やカーテンが閉められて、家のなかは見えなくなっている。立ち寄るという用もないが、思えばもうずいぶん長らくこの家にも入っていない。懐かしい気分でふらっと家のなかを覗いてみたい気もしたが、とはいえ覗いたところでそこはもういとこの家となり、かつての面影はないはずだ。家具寝具類の位置は変わり、大量にあった食器類も捨てられて、客間の棚や窓際にたくさん並んでいたあの熊の木彫りやこけし、日本人形の類は倉庫に入れられてしまっているだろう。かわりにいとこが趣味にしているボウリングの道具がいくつも置かれ、彼のスーツや普段着をかけるハンガーラックが二つほど並んで―。

そうなってはもう、それは僕の知る祖母の家ではない。仏壇に手を合わせていくだけでも、とも考えたが、いや、これから墓に向かおうというのだ。そこでは亡くなった母にも、祖父や祖母にも会えるはずだ。

来た道を引き返し、またいろは堂の角に出ると、道路を横切り、物置のような精米所を右手にしてコンビニの駐車場に入っていった。そうして不相応に広い、停まっている車もない駐車場を横切り、コンビニを挟んだ先の道に出る。コンビニには時間帯のせいか、人が見えず、その正面を向いたこの道にも人通りはない。

両脇から家々が迫ってくるような狭い道をしばらく歩き、すし屋と精肉店に挟まれた交差点を過ぎると、西根神社の鳥居が左手に現れてくる。鳥居の隣には、石材店と廃業したガソリンスタンドが、狭い敷地に肩を寄せるようにして並んでいる。

いまでは大みそかに大変な人が訪れる西根神社だが、かつてはそれほど人が多くなかった。賑わうようになったのは、大みそかに景品つきのくじを出すようになってからのことで、家電までが当たるような高額景品のくじがされるようになると、途端に露店も多くなった。ともなって、市内でも一、二に人を集める神社となったのだが、神主の家族のことも知る祖父はその内実を見ていたからか、あるとき「神さまも商売だよなぁ」となんとも言えない調子で言ったのを覚えている。

その神社がかつてまだ地域の神社というだけで、大みそかでも賽銭箱の前だけが混雑する程度だったころには、がらんとした暗い境内の真ん中で焚火をしていた。そこに参拝者が不要なお札や人形を投げ入れていくのだが、夜が更けるほど焚火の周りにははらはらと人が集まり、暖をとるもの、なにかを枝の先につけて焼こうというもの、つぎつぎ拾った枝をくべていくものもいるので、その焚火がだんだんと大きくなり、年が変わろうというころには大人の背丈も超えるような高さとなる。炎がめらめらと、鋭く冷えた空に向かって立ち昇り、風に揺れて、ときにはちぎれてもまれるように舞う。その様子を眠い、しばしばする目で眺めるたび、なぜだか僕には、年の終わりが身に入るようにしみじみと感じられたものだった。

西根神社を左にして、Y字路を右に進むと、今度はすぐに稲荷神社が現れる。社も小さく神職もいない神社だが、それでも町の人には大事にされているらしい。いつでも境内はきれいに掃除されている。ここも大みそかには社を開き、町内の人々が集まって、酒やそばをふるまう。僕の家族はいつも、西根神社からこの稲荷神社へと初詣を“はしご”したものだった。お参りを終えてからここでそばを食べるのだが、思えば我が家の年越しそば必ずはこの神社のそばだった。

稲荷神社に隣り合うのが我が家の菩提寺で、山門の手前には大きな釣鐘があり、かつてはこの鐘はいつ誰が叩いても文句を言われることはなかった。小さなころには兄や僕、それから甥や姪も喜んで叩いたものだったが、ついに貼り紙がされるようになったのは数年前のことだっただろうか。生まれたタイミングが悪かったというのか、家族のなかでは娘だけがこの鐘を叩かないままになってしまった。

まだ小学生にもならないころだったが、一度兄にこの釣鐘のなかに入るように言われたことがあった。はじめは嫌がったが、四つ違いの兄にはかなわず押しこまれてしまう。おびえながらおとなしく入っていると、兄が思いきり釣鐘を叩き、瞬間、とてつもない音がすると思って身をすくめたが、なかでは案外、ずうんと小さな重い音がしただけだった。釣鐘のなかでは音波と音波が打ち消しあうというのを知ったのは後々のことだったが、兄だってそれを知らずにいたずらしたのだろう。泣き出すと思っていたところ、なかを覗くと僕が平然とした顔をしているので面白くなかったらしく、そのあとは拾った枝でつついたりして、しきりに僕にちょっかいをだした。

 山門をくぐると立派な本堂が現れる。本堂の手前の庭には人の背ほどもある大ぶりな地蔵が六体並び、その前掛けは目が覚めるように赤い。本堂を正面にして石畳に沿って庭を右手のほうに進み、墓地に入っていく。寺の本堂を半ば囲うようにして墓地は広がり、その敷地は相当に広いのだろうが、この一帯の家の墓はほとんどこの寺に置かれているらしく、だからこの狭い通路の両側には、墓が窮屈そうに寄り添って並んでいる。このあたりの墓はどれも長らくあるもののようで、墓石は最近新しくしているものもあるのでわかりにくいが、入っているお骨には相当に古いものもあるのだという。

Hを横にしたような形の墓地を、ちょうど書きはじめに向かうようにして奥へ進んでいく。途中いくつも宮本姓の墓を見かけるのは、このあたりには宮本姓が多いからで、我が家とも遠い親戚なのだというが、もうどの家ともつきあいはなくなっている。祖父は生前、うちがずっと本家なんだと言っていたが、本当のところはどうだろうか。一度仏壇のなかから黄ばんだ家系図を出して見せてくれたことがあったが、僕には教養がなく、そもそもどうやって本家だと判別するものなのかもわからなかった。

墓所の入り口からY字に分かれる道を右手に進み、さらに右手に折れたところにある古くて大きな墓の手前に、我が家の墓がある。奥まった場所でもなく、極端に狭い道を通るわけでもなく、この墓地のなかでもわりに良い立地なのだろう。とくに凝ったところもない、どこにでもありそうな墓だが、あたりの墓よりは広くスペースをとり、土を盛って高さを出して、入り口には三段ほどの階段もついている。墓には我が家の墓のほかに、もう一つの墓石が置かれている。それはかつて分家した家が途絶えてしまい、無縁仏になってしまったのを祖父が引き取ったのだという。それ以来、きちんと墓の管理をし、毎度掃除も行い、いまも我が家の墓と同様に花と水が供えられている。

この墓の前に立てば決まって母のことを考える。十歳にならないころだっただろうか。お盆の墓参りからの帰り道、どんな話をしていたのか、並んで歩いていた母がふと、

「宮本の墓には入りたくないの」と言った。

僕が、どうして、と聞くと、

「知らない宮本の人ばかりの墓に入りたくないじゃない」

そう言って母は苦いような顔をした。

母がどうしてそんな話をしたのかわからないが、まだ幼かった僕は単に、そういうものだろうか、と思うだけだった。そのときはふたりきりだったような気がするが、そんなことはないはずで、きっと父や兄もいただろうが、となると父や兄たちもやはりその話を聞いていたのだろうか。

僕が大学生になろうかというころ、母が癌になった。気づいたときにはすでにいろいろなところに転移していて、できる治療も限られていた。残りの時間もほとんど見えてしまっているような状況で、母もそれをわかっていたが、それでも母は真っ白な病室に入り、苦しい治療を懸命に受けた。

 あるとき母が家族を病室に集めて、死んでからのことを話します、と言った。

「葬儀はやらないで、仲の良い人を集めてお別れ会をしてほしい。それから、お骨は宮本の墓には入れずに、どこかに散骨してほしい」

放射線の治療で坊主頭になった母が、涙を浮かべてメモを読み上げ、父や兄や僕は、ただそれに頷くばかりだった。

 母はいよいよというときになって、家に帰りたいと言った。リビングには母のためにベッドが用意され、そのベッドから見える庭には母の好きな花や植木がいくつも植えられた。父や兄たちは献身的に、母が喜ぶことならほとんどなんでもやったが、それはどのくらいの期間だったのだろうか。しばらくして母は希望どおりに、家で父と兄たち、それから僕に看取られて亡くなった。

亡くなった晩のうちに遺体にはドライアイスが巻きつけられ、周りには花が飾られて線香がたかれた。あくる朝には何人もの人が線香をあげに訪れ、僕ら家族には息つく暇もなく通夜、告別式となって、目まぐるしく過ごすうちに気がつけばよく晴れた空の下、僕は火葬場で母を焼く煙を眺めていた。

煙が立ち昇るのを見ながら父には「お母さんはお墓に入れてほしくないって言ってたよ」と話したが、父はこちらも見ないで「そういうわけにもいかないだろう」と小さく言っただけだった。そうしてそのまま母の骨は宮本の墓に納められた。だからこの墓を見るたび、母はこの墓のなか、知らない宮本の人たちに囲まれて、いったいどうしているのだろうかと思う。

それから数年あとのことだが、祖父が亡くなった。地域の名士然として活動した祖父の葬儀にはわらわらと地域、親類の人たちが集まり、告別式まで何日も祖母の家は見知らぬ人たちであふれていた。葬儀委員の名前が並び書かれた半紙は、六畳の客間の一辺では足りないほど長く、その名前のだれかは必ずいることが決まりのようで、だから家のなかではいつもどこかに車座ができ話し合いが行われていた。おこわを持ってくるものあり、酒を持ってくるものあり、だれかはエビフライをたくさん揚げて持ち込んだが、それが置かれたダイニングテーブルの横では、叔母がなまぐさを除いた夕食を祖母のために作っていた。

葬儀委員の事務局長は、この寺の脇で石材店を営む親類だった。小柄な髪の毛のない中年男性で、気が付くと葬儀委員長を脇にして、その親類がいろいろと葬儀の段を取るようになっていた。あまりに彼が主導するので人によっては面白くないところもあったようだが、たしかに素人ではなく、祖母には助かるところもあったようだ。

その祖父の告別式は市内のホールで行われた。三百人以上が参列し、読経には四、五人も僧侶が出てくるという盛大なものになったが、それを終えて火葬場へ行くと、そこではほとんど家族だけになっていた。式が盛大だっただけに薄情な気もしたが、やっと数日ぶり、見知らぬ人たちから離れられたとも思った。

祖父を灰にして、そのお骨を父が抱いてよく揺れるバスに乗りこみ、やはりこの寺の墓に納めた。読経のあとにてきぱきとその石材屋が墓の蓋を開け、父から骨壺を受け取ると、手を合わせてからその骨壺のなかの灰をさらさらと墓のなかに流し込んだ。またよく晴れた、風のある日だったので、祖父の灰はもわもわとあたりに舞い、風下にいた何人かはくしゃみをした。

そういえば、妻の母方の祖母が亡くなったときのこと、納骨に行くとお骨を壺ごと墓に入れていたので驚いた。墓には遺灰を骨壺から出して入れることがあたりまえと思っていたので、そうでないところがあるとは知らなかった。そのことを妻の母に話すと「あらそれじゃ、骨が混ざっちゃうじゃない」と言ったが、たしかにその通りで、ともすると母はそのことが嫌で墓に入るのも嫌がっていたのかもしれない。

いまでは母と祖父のほかに、祖母もこの墓に入っている。自分は早くに死んでしまったが、それなりに知った家族がいて、だからなかに入っても居づらいということはないだろう。もうここまで来てしまって取返しもつかないが、妻と娘には申し訳ないことをした。こんなに早く死んでしまっては、娘はさみしい思いをするだろう。妻もこれからずいぶん苦労をするはずだ。いや、これまでだってたくさん苦労をかけてきたのだが。

あたりはもう暮れかけていた。相変わらず空っぽのような空は橙色に変わり、遠くには半分になった真っ赤な火球が見える一方で、自分の周りはひんやりするように薄暗い。そういえば電車を降りてからというもの、だれにも会うことがなかった。いくらさびれた町とはいえ、考えてみれば、温泉街にもコンビニにも人がいないというのは不自然なことだ。死んでしまってからはあちらから見えないとはわかっていたが、ともすると、こちらからも現世の人は見えないのだろうか。

 墓の蓋を開けるのは苦労するかと思ったが、やってみると案外に簡単なものだった。石でできた線香立てをよけると、蓋はそれなりに重かったが、すこしずらして小さな隙間をつくるだけで充分で、そこにするりと体を滑り込ませた。入るその瞬間には菊の花の香りが鼻を突き、これが現世では最後に嗅ぐ香りとなった。


  **

 墓のなかは狭いものだと思っていたが、入ってみるとちょっとした広さがあった。御影石の壁に四方を囲まれたなかには、古い日本家屋が建っている。瓦ぶきの広い屋根に、壁は板をはったもので、いまはちょうど雨戸が閉められ、なかが覗けなくなっている。雨戸の手前には庭があり、松ともみじの植木、左手にはやはりもみじや松の盆栽がいくつか並び、正面には小さな池に鯉が泳いでいる。

もうなかなか残っていないだろうというような古い、造りのしっかりした日本家屋だが、それが四方の石の壁や白っぽい砂地とミスマッチで異様な感じを覚えた。足元の砂地と思っていたものには、よく見ると遺灰が混ざっている。ちょうど腰骨だろうという形のものを見つけ、拾い上げると、まだほんのりと温かかった。

その遺灰と砂をシャリシャリと踏みしめて、庭に近づいて行った。植木も盆栽も小ぶりの形がいいもので、もみじは池の端を覆うようにして垂れていまちょうど紅く色づいている。

縁取りの岩に足をかけ池を覗くと、鯉はどれも黒か白で、錦鯉や緋鯉はいなかった。その一匹がこちらを見つけて口をパクパクと動かし、それから身をひるがえして腹を見せた。はたして、この鯉たちも僕のように死んでしまっているのだろうか。墓のなかに生きているものがいるとは思えないが、だとすれば死んでいるのにまだ食べようとするのが業深く憐れだ。この植木も盆栽も死んでいるはずだが、けれどそれにしてはどれも生き生きとしている。まるで、現世からそのまま連れてきたようで、それでもやはりちょっと浮世離れしたようなところを感じるのは、この場所のせいだろうか。

庭をぐるりと回り、右手のほうに行くとガラスをはめた引き戸の玄関になっていた。それをガラガラと音を立てて開くと、土間の玄関の右側には下駄箱が置かれ、その手前には格子、格子の横には靴が二足きれいにそろえて並べられている。靴を脱ぎ、その二足の靴の横に並べてから、なかへと入っていく。入ってすぐは突きありになっていて、そこを左に折れると二間がつづきになっていた。黒光りのする立派な柱が並び、雨戸が閉められた廊下の上では弱い暖色の電球が光っている。ふすまは閉められていてなかは見えなかったが、そのまま廊下を進み突き当りをまた折れるとトイレがあり、その先にはあとから建て増したのか、狭い場所に二階へ上がる急な階段があった。

誰もいない、いや、誰かいるはずだが―。

なにか唐突に怒りを感じて、どすどすと音を立てて廊下を戻った。そうして、えい、という気持ちでふすまを開ける。開けると六畳ほどの畳敷きの間で、そこに男女がちゃぶ台を挟んで向かいあって座っていた。

男は半そでの白いワイシャツを着て、女は浴衣を着ている。ふすまを開けた瞬間、ふたりははっとこちらを見て、それから女のほうが落ち着いた調子で「裕が来ましたよ」と言った。それがあまり落ち着いているので、僕のほうもつい「えぇ、来ました」と言ってしまう。

男も女も、僕と同年代くらいだろうか。ふたりともどこかで見たことのあるような、見たことのないような顔をしている。僕に似ているような、似ていないような顔。その顔はどうも掴みがたく、目を逸らせば、次の瞬間にはまた別の顔に変わってしまっているような気がした。

僕はちゃぶ台の前に正座する。そうして、まるで親に怒られるときのように緊張する。

なるほど、これがこの墓に入った人たちなのだ。宮本の人たちなのだ―。

墓に入れば母に久しぶりに会えると思っていたがそうではなかった。墓のなかでは灰はもうみんな混ざってしまっている。母の遺灰も混ざって、だから母はもうこの墓の人たちと混ざり合いひとつになってしまったのだろう。ときどき女のほうが母のような顔をする。男のほうは祖父のような顔をする。だけれどそれはすぐにまた別の顔になってしまう。テレビ画面のように目まぐるしく変わる顔に、僕は船酔いするようになる。

「お母さんはどこですか」

 なんとも、無意味な質問だった。

「ここじゃない」

 女がまた母のような顔をして微笑む。

「おじいちゃんにも会いたいんです」

「ここにいるべぇ」

 祖父の顔が現れる。

「違うんです。僕はお母さんだけに、会いたいんですよ」

 そう言うと、女が途端に悲しそうな顔をした。男はあからさまむっとした顔をする。

「こんな風にひとつになってしまっては誰かわかりませんよ。僕はお母さんに、おじいちゃんにまた会えると思って来たんです」

 部屋はがらんとして、ちゃぶ台のほかにはなにもない。僕は飛び出したいのを、畳のヘりを掴んで必死に我慢した。男はまだ険しい顔をしている。一方で女はますます優しい顔をする。

「だって、家族なら、一緒なのがあたり前でしょう」

 女が穏やかな顔をして、恐ろしいことを言った。

「だってお母さんは、そうなるのを嫌がっていたじゃないですか」

 母の顔が現れる。

「でもしょうがないのよ。家族だから、ひとつにならなきゃ」

「家族の前に、ひとりの人でしょう」

「それが違うのよ、家族になったら」

「家族としてあるようになるのよ。だんだんそれが自然になっていくから」

 そう言いながらも、母の顔はだんだんと母でなくなっていく。あぁなるほど、人というのはこうして本当に死んでしまうのか。こうして本当になくなってしまうのか。ふと、男を見るとまったく知らない顔をしている。

「違いますよ! あなたはいったい、誰ですか!」

 僕はふすまをガタンとあけ、廊下をまたどしどしと音を立てて歩いて戻った。玄関で靴を履いているところで、二人の声が聞こえる。

「あの歳になってまだあんな風だ、まるで子どもだ」

「まだ混乱しているんでしょう」

「そもそもあんな死に方をして迷惑をかけて―」

硝子戸をあけ庭に出ると、庭にはなにもなくなっていた。ただ骨の混じった白い砂地が、石の壁まで続いている。あぁ、ほんとうは庭はなかったのか、池はなかったのか。それならあの鯉は―。

僕は石の壁まで走った。息が切れ、動悸がして、僕はまるで生きているみたいじゃないか! 冷たい石の壁を叩くが、どこかに吸い込まれたように音がしない。

「だから家族は嫌なんだ、だから家族は嫌なんだ!」

 僕は叫んだが、その声もまるでなかったみたいにどこかに吸い込まれ、消えていく。うしろからは男と女が歩いてくるのが見えた。僕はうずくまる。そうして、僕は知らない、僕は知らない、とつぶやくが、その声さえもどこかに連れ去られ聞こえなかった。

(終わり)


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