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線維筋痛症の宙ぶらりん、という話

この記事は私個人の症状をベースに、自分の環境についての目線で書いています。ほかの患者の状況に当てはまらない内容や、不快と感じる可能性のある内容があります。

さて本題。

どんな病気かだって、書きつくしていたか記憶がさだかではありません。

ざっくりいえば「どこに起こるかわからないし、痛みの種類も豊富な、激痛もぐらたたき。痛みでも朦朧としたり、痛みのショックで覚醒状態になったり」「体が自分の物とは思い難い、こわばったり、うまく操作ができない」と自分は感じてます。

なんで自分はというかといえば、人によってあまりに違うから。

たとえば「冷やしたほうが楽」というひとと「あたためると楽になる」というひとがいるように(これについては今度書く予定です。忘れそうなので、下書きをしておきます。

症状が二本立てですね。「痛み」「身体の不自由」これが私の障壁です。

大変だからといって難病ではない、え、はい。

「難病ってやつですよね、大丈夫なんですか?」

と、よく言われるのですが、難儀な病気であっても難病とはいえないのです。というのも、難病というものが表現ではなく明確な基準を持ったものだからですね。「難病指定」

線維筋痛症がニュースになるときは、だいたい、有名人が告白するか「指定難病」(どの病気が難病なのか)というものにならなかったという話題です。

ネックになるのは、患者がけっこう多いというところ。

どれだけ症状が重くても、患者が多ければそれは難病ではないのです。

いえ、わかるのです。医療や福祉も限られたリソースのなかでおこなわれるものなので、特別な手を出す相手は、より救いのないところになるのです。

いやな言い方をしていますね私。いえ、つまり、自分が特別扱いされたかったのかよおといういやな声が心に浮かんだからです。自分への反吐が言葉にでてます、すみません。

しかし、特別扱いといういやらしい言い方ではなく、福祉の手は必要です。

いっぽう、患者が少ないということは研究自体がどこまでできているかも不明で、施設などもかぎられてくる、そんな特定の病気のかたこそが限られた労力をさく相手でしょう。線維筋痛症のほかの患者についてはしりませんが、少なくとも私はその手をのばしてもらう相手ではないの、です。

と、いいながら、どうしてこうもひっかかっているかというと、やっぱりめちゃくちゃきついんです。ふと落ち込んでるときに、やっぱりそういう基準はさておいて「難儀じゃないよ、大したことじゃないでしょ」と言われてるような変な気持ちになります。

人数がネックなんてしらなければ、シンプルに「そんなに酷いことではない」「なのに大げさに痛がっていて、だるそうにしてて、なまけ病ですね」ってことに、なってしまいそうで。

だったら「身体障害者手帳」はどうだって話。

実は2013年から苦しんでいるのに、以前逃げていた、障害者手帳の申請をしました。2020年(令和2年)春に認定を受けました。

私は何も変わりませんが、書類上は障害者となりました。なんだかおかしなことですね。

これ、先ほど二本立てといった「体がうまく動かせない」の部分です。

肢体の不自由ということになります。線維筋痛症や、慢性疲労症候群のかたは、だいたいこれになるかと思います。

しかしこれも、厄介なものです。私は私の場合しか知らないのですが「症状の波が激しい」ということ。

それから、自分の意思で操作ができないが機能は損なわれてないということ。それはいいことなんですよ実際。私が体を操作することがより下手になっただけなんで、うまく繋がったら元の体に戻るはずですから。

ただこれ何が厄介かというと、認定です。

認定は、本人の申告と理学療法士さんのチェックをまとめて、指定の医師が診断書をまとめて、市に提出します。

余談ですが、あらかじめ指定のフォーマットがあるのです。以前の私は自分で調べた時の知識が間違ってました。「診断書が必要なのか」と診断書を取ってから保健所に相談に行ったので、さらにとりなおすとなるとご予算的に無理よ…となってですね、はい。

ということで、話を戻します。理学療法士さんが「足首の可動域」「股関節の可動域」「腕の可動域」…と調べていくと、案外と動くんですよ。自分で逆に感激しました。なによ私、まだ動けるじゃないか。うん。よかった。

よくないの。いやいや、いいことなんだけど、要するにどれだけ不自由か=どれだけサポートが必要かの指標なので、私が埋没させている機能ではなくいまの…うーん、文章が散らかってまいりましたね、はい。これは私の甘えのハナシなのです。

でも大事なことなんですよね、「ダメです無理です」って言ったもの勝ちで、嘘をつき放題ではいけないのです。えぇ。いますよ、よその例で、杖をついてよろよろということで高い認定をとって、一歩外に出たとたんスタスタ~なんてひと、世間にはそれでもたくさんいます。

私は正しい医師がかかりつけで、またそのかかりつけが指定医でよかった。

ということで私は、ベストコンディションの日に「一番良い日でも機能としてこのぐらいはダメですよ」が数字で表現されたのです。変な感じです。

さしてサポートのない低い等級ですが、ないよりは。

ただ、ただ、一番苦しんでいる痛みのつらさを表現するものではなく、また、その助けにはならないことは事実なのですよ。わがままを言うようですが、そこが懸念点です。どうしてそこにこだわっているか、悲劇のヒロイン気取りのみっともないおばさんと思われるかもしれませんが、理由がありまして。

それは、仕事との兼ね合いです。

…その話に行く前に、等級が低い理由の一つに「就労できてるから」というのがあります。「仕事もままならないが生活できる」「仕事どころか生活もままならない」この尺度。

え、日常生活ができてないけど仕事をするし、それでも無理な日があるからフルタイムの契約だけど実際は半分もいない。これは、働けてるのか、よくわかりません。なんなら、いつ、健康上の理由で解雇になるか分からない。

本当にひどい人はこの程度ではないから、私ごときが働けないぶるなよ怠け者、と、普段は思っていますが、症状が濃い日は「なんだかな」って、なります。

固執した理由、弊社も多様性とはいうものの?な話。

もともと、なんで今回ずっと抵抗のあった手帳を取ったかというと、大きな理由が会社です。

どんな病気なのか診断書をといわれ、何通出したか。なんなら、それをつかったトラウマが残る出来事もあったのですが、

そもそも弊社は個人情報の取り扱いが厳しすぎて入社後も上司がしるのは顔と名前だけで、経歴や年齢などは一切しりません。あとは自己紹介など自分で言える範囲でいえばいいという仕組み。そういうところなので、持病について診断書を出して解決済みといってもいや、何度でも別の人が提出をもとめてくる

いやいや、そういう個人情報保護の方針なら逆にホイホイ求めるなといたいし、言ってるし、というか時間と費用の罰ゲームですかと笑いが止まりませんな。

で、もう限界なので、少なくとも体の不自由については手帳に証明してもらおうと思ったわけです。さすがに手帳を出しても同じように「証明せよ証明せよ」になったら、そのときは本社に相談(しても無駄だろうなぁ)

そんな会社もうやめてしまえよって思う日もありますが、私がそこそこの年齢であることや、福利厚生というか設備の充実度などをみると、よそに行くのはもったいないというところもあるのです。

完全にわがまま。だって私の性格ですから、どこにいっても最低限のストレスはあるし、どこだって理不尽な人事なんかはあるわけで、だったら設備なんかですこしでもまともなところを選ぶしかない。

というのも一つの考え方ですからね。

証明さえできたらかなり自由な会社だったと記憶してますが、今回省略した、診断書絡みのいや~な出来事があったので、やっぱり弊社の多様性ってどのレベルなんでしょうか。

半分も休んでるのに偉そうでしょう、ええ、これも仕事量でひとつ証明してるからです。

男性の産休と同じ、仕組みとして会社が用意してても運用しきれてないのと同じだなぁ(させない人がいたり、しようと思えない環境になってたり)

話が今日も散らかりました、そして長い。お粗末様でした。













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