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女神の壊れた天秤15~自転車事故 裁判の行方~

法は些事にこだわらず

第一回の口頭弁論は、静かに、つつがなく、短時間で終了しました。

次に自分がやることは、相手が出してきた答弁書(訴状に対する反論)に
対して、それを事実でない部分は証拠をつけて覆し、
また自分の正当性を(同じく証拠を添付し)主張するのです。

法廷では何も言えない(いう機会がない)ため、
この書面でできるだけ確実に、裁判官に主張を伝えなくてはいけません。

しかし…

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横断歩道前で、信号待ちからの発進であると、
事故後に提出した書類にはもちろん書いてあります。

相手の新しい答弁書には「直進していた私が直角に曲がった」!
というような記載がありましたが、そもそも自転車を運転する人は、
ハンドルを90度近く曲げて曲がろうとすることなどあり得ません。
(転倒の可能性もありますし)

そのほか衝突した位置も事故報告書と異なっていました。
何より、私が直進していたという証拠は何一つ添付されていません。

だいたい一回目の主張はなんだったのでしょう。

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民事訴訟は、本来はお互いが常識的な判断をし、
「話し合い」を持って解決できる事案も含まれています。
(その”常識的な判断”が出来ない人間が、いかに多いかということか)

いつもの自分だったら、和解こそ望む解決でした。
しかし今回の一番の目的は「本当の過失割合を知ること」です。
それがあやふやになったり、譲り合うことを要求されたら…と
私は不安でいっぱいでした。

相手の新しい反論も、どのくらい裁判官に有効と思われているのか
それもまったく読めない状況でした。

「法は些事にこだわらず 」とありますが、
素人の私は、相手のどんな小さな主張にもひどく動揺してしまいます。
この意味不明な理論が、のちのち大きく結果に関わってくるのではないかと
戦々恐々してしまうのです。

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裁判官も司法委員も、相手の主張はまったく認めてはいませんでした。
(今回の反論も本当に些事扱いでした)

道路交通法として、相手の運転は数多くの違反をしており、
逆に私に不正はないという認識を持ってくれていたのです。
(そして道路交通法的に、やはり0:10はあり得ないため
 私にその譲歩?が出来るか確認されたのでした)

つとめて冷静に事を運んできたつもりでしたが、
法に基づいてしっかりとした判定を聞くことが出来、
やっと安堵することができ、涙があふれてしまいました。

それまでの数か月、怒りや不安で真夜中眠れないこともありました。
何より理由もはっきりしないまま、事故の相手と保険会社に
「お前が加害者なんだから謝れ」と言われ続けるストレスは
半端なものではありません。
(たいていの人は、早くそれを終わらせたくて
 裁判を諦め、加害者として交渉を終わらせてしまうそうです)

相手の弁護士は、譲れないという事故の相手の意向を示しました。
(そうおっしゃられていました…とのことでした)

次回、「正義は与えられるものじゃない」

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