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【コトダマ019】「私たちがらいを病んでいたとしても・・・」

私たちがらいを病んでいたとしても、べつにふしぎはない。彼らが私たちに代って病んでいるのだ、といってもいいすぎではないのである。

神谷美恵子『生きがいについて』p.99

最初に言っておきますと、「らい」という言い方は、今はしません。「ハンセン病」と言います。ただ、この本が刊行された1966年には、まだ「らい」という呼び方も残っていました。

もっとも、アメリカでは1952年に「leprosy」が「Hansen's desease」へと呼称変更され、日本でも患者団体は1959年の時点で「ハンセン氏病」に改称しています。ただ、国(当時の厚生省)や専門学会は「らい」の名を使い続け、それは1996年の「らい予防法廃止」まで続きます。著者が「らい」の名称を使っているのは、患者側よりむしろ国や「専門家」側の立場に立っていたことを意味するのです。

たかが呼び方、と思われるかもしれませんが、この「らい」という言い方に、この本の問題点が象徴的に表れているように感じます。それ以外にも、著者が隔離政策を肯定的に捉え、その「主犯」である光田健輔に対しても肯定的な見方をしていること(当時、すでにハンセン病は隔離を要する病気ではなく、諸外国では隔離政策をやめるところが相次いでいました。にもかかわらず日本では1953年成立の「らい予防法」で医学的には根拠の乏しい隔離政策を続行し、それはなんと1996年の法廃止まで続きました)など、1966年の時点においても、かなり問題のある内容を含んでいるのです。

ただ、だからといって一方的に断罪するには、本書はあまりにも深く人間の「生」について考え、その内容はハンセン病に限らず、困難を抱えた多くの人に響くものとなっています。冒頭に掲げた一文もそのひとつ。この「らい」あるいは「病んでいる」という言葉は、病気や障害をあらわす様々な言葉に置き換えが可能です。

私がなっていてもおかしくないのに、なぜ私はそうではなく、あの人はそうなのか。そこには何の理由も、本来はありはしないのです。いや、障害や病気だけではありません。私たちは、ひょっとしたら虐待する親のもとに生まれていたかもしれないし、爆撃を受けるガザ地区で暮らしていたかもしれない。

そのことを言いかえると、神谷美恵子の言葉になるのです。彼らは私だったかもしれない。だから障害者も、難民も、被虐待児も、もちろんハンセン病も、他人事ではないんです。そんな大事なことを指摘してくれる本を、断罪できるわけがない。いやはや、本の評価というのは、ほんとうに難しいと思います。






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