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そらりうむ

 受付を済ませて入室すると、紫外線が肌にぶつかり、ぱちぱちと跳ね回る感覚に全身が襲われて思わずため息が出た。太陽は少し傾いている。今日こそ早めに来ようと思ったのに、仕事が長引いたせいでまた夕方だ。お気に入りの席が空いていたのでそこに寝そべった。リクライニングタイプの席は六台しかないからよく取り合いになる。ゴーグルをはめていつものカリフォルニアモードを選ぶと、先日までの風景とはがらりと変わっていた。受付の人が「今日から夏なんですよー」って嬉しそうに言っていた通りだ。並木道の緑が濃くなり、雑草の背が高くなり、小鳥のさえずりが聞こえてくる。よく知らないが夏に鳴く鳥なのだろう。通行人たちはみんなTシャツやタンクトップを着て、サングラスをかけている。
 ここのソラリウムにしてよかった、とあらためて思った。あちこち見学して決めた甲斐があった。高級なところは室内庭園付きで、再現率九十九パーセントだという太陽光と本物の植物に囲まれて日光浴できるらしいけど、月額料が高すぎる。かといって公営のソラリウムは設備が古すぎ、固い椅子に座ってぼんやり壁から出る光を浴びるだけで、そっけない。その点ここは太陽光のクオリティは高めだが、環境面はVRでまかなうという潔さが好きだ。本当は壁に太陽が映されていて椅子が並んでいるだけの白っぽい部屋だけど、ゴーグルをかぶれば世界中どこにでも行ける。自分の出身地とかエベレストとか南極とか、いろんなところを毎回見る人も多いらしいけど、初めて来た去年の冬、適当にカリフォルニアの公園の風景を選んで、それからなんとなく同じモードを選びつづけている。白っぽい空をバックに赤や黄色の葉をつけた並木道を見て、これから春を迎えるところを見たいと思った。本物の記録映像が使われていて、二週間ごとに季節に合わせて移り変わる。まだ防護服なしでも外を歩けていた時代の映像。顔や腕をむきだしにして、太陽の下をうろうろしている人たちを見ると、当時はこれが普通だったのだとわかっていても少し背中がひやっとする。
 ウエストポーチから端末を取り出して、本の続きを読み始めた。読書みたいなまどろっこしい趣味は、こういう時間でもないとなかなかやる気がおきない。自分でひと文字ひと文字拾って意味を組み立てていくのはくたびれるけど、ページをめくるときここまで読み進めたのだという達成感がある。今は大昔の小説を読んでいる。ローニンというはぐれものがサムライという悪の騎士を次々殺していくスプラッターコメディだ。よくわからないところが多いので注釈が充実しているものを買った。知らない単語をタップするとその意味や当時の時代背景を教えてくれる。この時代の人たちは何かというとすぐ「お天道様にもわかるまい」とか「お天道様に誓って」とか言うのがおもしろい。お天道様というのは太陽のことだ。あと、「とうとう日の目を見た」みたいなことも言う。どんだけ大事にしているのか、と思う。いや、日光浴は大事。それだからこうしてあちこちにソラリウムがあるわけだけど、でもそれは精神衛生の向上やビタミンDの合成に太陽光が不可欠だからで、それを様を付けてえらい人のように言うのがおもしろい。そういえばこないだ読んだ古い本にも「お日様みたいな人」というのが出てきた。よくわからない。そういう言い回しを気にしていると、読書が得意な体質ではあるもののすぐ読めなくなる。
 ふと顔をあげると、向かい側のベンチに背の高い男の人が座っていた。ベンチの上を木の影が覆っていて、そよそよと揺れている。そこに左右を見渡してから座って、手首を見た。巻き付いているのはたしかそう、腕時計だ。時間を知るためのもの。前に読んだ本に出てきた。男の人はもう一度あたりを見回したあと、尻のあたりをごそごそ探って何か取り出し、左右に開いた。紙の本だ。男の人は片側をぐっと裏に折り込み、片手で束ねて読み始めた。ものすごく乱暴だ。学校では、紙の本は貴重なものだから、両手で片側ずつつまんで読みなさいと教わった。もう自分の本を読みすすめる気になれなくて、じっとその人を見ていた。男の人もあんまり集中できていないみたいだった。右膝をせわしくなくゆすっているし、しょっちゅう顔を上げてきょろきょろして、腕時計を見て、また本に目を落とす。そのくり返し。誰か待っているのかな。十分たち、二十分たったけれど誰も来なかった。金色の毛をつやつや光らせた犬が飼い主と一緒に通った。男の人はだんだん顔を上げなくなった。そうしているうちに空が紫にかすみはじめた。日暮れだ。なんとなく空気が肌寒いものに変わっていた。ベンチを覆っていた木陰がいつのまにか移動して、夕日が真横から我々を照らした。ふたつのベンチの間を通って、恋人たちや親子連れがみな同じ方向に引き上げていく。今はみんな百歳超えのおじいさんやおばあさんになっているか、もうこの世にいないだろう。ベンチの男の人がふいにうつむき、額のあたりを手のひらで隠した。涙がひと粒本に落ちたのがはっきり見えた。

(了)

初出:2020/09/16 犬と街灯とラジオ#19 59:30~


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