見出し画像

けんかうり

 生まれてこのかた殴り合いの喧嘩というものをしたことがない。ひとりっ子だったのできょうだい喧嘩はなかったし、幼稚園や小学校でこづいたこづかれた程度はあったかもしれないが、思い返す限り喧嘩で何か決着をつけた覚えはない。中学校に入ると拳で殴りあうような連中はひと握りで、年に一、二度河原で取っ組み合いの喧嘩があったという噂も聞いたが、体格的に恵まれなかったコンプレックスも相まって、ヤンキー漫画を鵜呑みにしたアホーなやつらと内心見下していたのでくわしくは聞かなかった。そうして喧嘩をしないまま大人になったけれど、喧嘩をするならあの頃に一回くらいやっておけばよかったと思う。
 最近になってそんな風に思うようになったのは、営業部の橋本が出張先の岡山で三人組の酔っぱらいにからまれて殴りあいの喧嘩になり、警察沙汰に発展して翌日会社を休んだ件がきっかけだった。正当防衛が認められて無罪放免になったそうだが、出社してきた橋本の目や口には痛々しい紫のあざが残っていて、大柄ではあるもののあの温厚な男が、とみんな驚いた。営業職にしては内気な橋本は、休んだことを謝るばかりで実際にどんなことがあったのか積極的に口にすることはなかったが、何か思うところあったらしい。キックボクシング教室に通いはじめてみるみる体型が引きしまり、なんとなく覇気のようなものも備わってきた。うらやましい、と率直に思った。やはり一度くらい修羅場をくぐっておいた方がいいのだろうか。本気で喧嘩をしたことがある人生と、喧嘩をしたことのない人生なら、前者の方が深みがあるというか、奥行きが違うような気がする。
 そうはいっても数少ない友人は自分と他人の区別がしっかりついていて、話せばわかるいいやつばかりだし、仮にわからなくても互いに互いを放っておける冷静さを備えているから喧嘩にはならない。下戸だから酔った勢いも使えない。かといって繁華街で誰かにからまれるのを待つのも骨とか折られそうでいやだ。冗談のつもりで通販で喧嘩が売られてないか検索してみたら、あっさり見つかったのでアホちゃうかと思った。思ったけれども、レンタル彼女とかレンタル家族などのサービスがあることは知っていたし、レンタル喧嘩相手がいてもまあおかしくはない。そのページを開いたら、理想の喧嘩シチュエーション無料診断というのがあって、喧嘩経験「なし」、格闘経験「なし」、相手の顔を殴りたいか否か「バツ」、身長体重年齢などを答えていたら、「あなたの理想の喧嘩シチュエーションは『見知らぬ相手のマナー違反をとがめたら喧嘩に発展』、理想の喧嘩相手は『ハルト』です」と、結果と二十五、六の男の顔写真が出てきて、そのまま申し込みフォームに飛ばされたのでつい依頼してしまった。すぐにハルト本人から丁寧な口調で返事があって、「当社の理念に反するため勝敗に関してやらせは一切できません」と言われ、喧嘩の流れについて打ち合わせたあと、怪我を負っても訴えませんとの同意書に電子サインをして、気づいたら一週間後の土曜深夜に喧嘩をすることになっていた。相手を間違えないように互いの顔写真を交換した。ハルトはおしゃれな今どきの若者といった雰囲気で肌が白く、茶色の巻毛で痩せていて、とても強そうには見えない。勝てるのでは、と思った。
 その日からユーチューブでひたすら合気道の動画を見た。高校の授業で柔道をやって以来、格闘技はやったことがなく、普通体型ではあるもののどちらかといえば非力だ。合気道しかない。腕のひねり方、足元のはらい方、羽交い締めにされた時の反撃の仕方などを家や会社のトイレで勉強した。
 一週間後はあっという間に来た。事前に指定された、駅から二十分ほど歩いたところにある路地裏を歩いていくと暗がりから男がひとりやってきた。すれ違いざま男は飲んでいたジュースの缶を放り投げ、それが建物の壁に跳ね返って、しぶきがこちらのズボンの裾を汚した。「おい、汚れたやろ」と声をかけると男が振り返った。写真で見たハルトだった。路地裏に差しこんでくる街灯の灯りの中で茶色っぽいパーマと色の白い頬が浮かびあがった。「おれのおごりや」と男は言った。それは合言葉で、殴りかかってもいいという合図だった。「なんやと」と声が少し裏返るのを自覚しながら左手で相手のパーカーの胸元をつかんで引き寄せ、右で殴ろうとすると、下から両腕でするどくはじかれた。めちゃくちゃ痛い。今まで見てきた動画を思い出した。重心も、関節も、フェイントも、ひねりも、威嚇も、なにひとつまともに使えない。そもそも相手の腕をひねるほどの筋力がないことに気がついた。ゆるやかにステップするはずの下半身は釘付けになり、やみくもに両腕を回転させて殴り続けていた。記憶のフタが開いた。おれ、喧嘩したことある。小学校二年生くらいの時、クラスのガキ大将に逆らおうとして。がら空きの顔面にジャブが入って鼻の中で変な鉄っぽい匂いがし、懐かしさにうずくまった。立てないのを見て「これ以上は殺し合いになる」とハルトが言って、それは喧嘩終了の合言葉だった。「次あったら殺したるからな」と合言葉を返した。鼻血がだらだら出て止まらなかった。
 立ち去ったかと思ったハルトがジュースを買ってきた。冷たいジュースの缶を鼻の根元にあてながら少し話をした。「なんで依頼してくれたんですか」とハルトが言うので、「なんか、喧嘩して仲良くなって、みたいなのに憧れがあったんかもしれないです」と答えた。スマホで依頼した時のページを見ながらいろんなオプションがあることについて聞いてみた。喧嘩にはS、M、Lサイズが設定されていて、今回はSサイズでの依頼だった。その他に大喧嘩という商品もある。「これ、喧嘩のLサイズと大喧嘩って、違うんですか?」「ああ、大喧嘩は恋人とやるやつっす。そういう需要もあるんで」そういうものかと思った。鼻血はぜんぜん止まらない。おれは大喧嘩をしたことがない。

(了)

初出:2020/07/08 犬と街灯とラジオ#9 9:40~


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?