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ブルームーンの夜

 仕事を終えてドックを出ようとした時、誰かが出し抜けに裏口の戸を叩いた。こんな静かな真夜中になんの音も立てず、つまり甲殻機にもローバーにも乗らずに野良ガニひしめく湿地帯を突っ切って整備工場を訪れるような輩は到底まともじゃない。幽霊か、野盗か、農場の下働きに嫌気がさした脱走者か。頼むから春の陽気にあてられた小型の陸棲甲殻機――たとえばオカヤドカリ――が交尾の拍子に立てた物音であってくれと念じながら映像を確認すると、男が一人立っていた。幽霊ではないらしい。
「俺だ、ヤンだ。ヤン・コメリン」
 いかにも古くからの開拓民という体格だった。何度もあたりを見回して落ち着きがない。薬物でもやっているのだろうか。思い当たる節がなく沈黙しているとガサガサ音がして、男の頭の後ろに巨大なはさみが浮かび上がった。「ああ! カニが!」と男はうめき、早く開けろと怒鳴って戸を蹴りつけた。思ったより切迫した状況らしい。
 戸を開けると男がなだれ込んできた。「なんですぐ開けない」と睨みつけてくる目の周りはどす黒く、日焼けで赤茶けた髪のはりつく額には大粒の脂汗が浮かんでいる。「夜は色々と物騒なもんで」と、レーザーカッターにさり気なく手を置いて答えた。男は、自分はここの常連客で、しょっちゅう点検に立ち寄っているし、厄介な修理のお礼にコーヒーを差し入れたことさえあると主張した。人の名前や顔を覚えるのが極端に不得手なので思い出せないが、そんなこともあったのかもしれない。
「それで、あんた医者だったよな」と男は部屋の片隅にかけてある埃まみれの免状を指さした。
「整備士兼殻医だ。悪いが人間は診られない」
「それでいい。すぐ来てくれ」
 なぜ、どこに? と尋ねたかったが叶わなかった。男が昏倒して膝から崩れ落ちたからだ。人間の医者を呼ぶべきかと考えたが、二、三発頬を叩くと少し意識が戻った。体がうまく動かないらしく、右手で左手首を持ち上げ、こちらに押しつけてくる。左手の甲に汚い文字で二つの数字が書きつけてあった。座標らしかった。
 受注履歴に打ち込んでみると、ヤン・コメリンの名前はたしかにあった。四十キロほど離れた場所に個人農場を持つ<ご近所さん>で、機体は農業土木兼戦闘用のヤシガニ。一月か二月に一度点検に来ている。一機しか所有していないようだし、こちらは武器類のカスタマイズや大掛かりな修理でないと儲けにならないので、この程度で常連面されるのは不愉快だ。だが嘘はついていないらしい。
 面倒くささにうめきながらローバーを出し、訪問診療用の医療セットを積み込んだ。物置にしまいこんでいた外箱はどこもかしこも油と埃でべとついている。ヤンに肩を貸して助手席に乗せ、ローバーを発進させた。ヤンはぶるぶる震えていたが、じき大人しくなった。
 春先とはいえ夜は冷える。座標はヤンの農場とは反対方向を示していた。川沿いに二十七キロ行った先に広がる深い森の中だ。ローバーならすぐだが、この距離を日が暮れる中走って来たのだとすれば、常軌を逸しているという他ない。特に野生の甲殻機たちが縄張り争いと交尾に明け暮れる今の季節は危険が大きい。この男をここまで駆り立てるものはなんだろうと少しだけ興味が湧いた。助手席の男は今、頭を垂れるようにして寝入っている。気絶しているのかもしれない。運転しながら頭の中を整理した。甲殻機を自由にカスタマイズするほどの金はないようだが、受注歴からすると戦闘を繰り返してもめったに自機を傷つけないだけの腕があるのだろう。にもかかわらず大規模農場の吸収合併 ともぐい が進む今でも個人農場をやっている。変わり者は嫌いではないが、支払いの方は少々心配だ。
 橙色の月光の中、前方に赤黒い行列が見えてブレーキをかけた。野良サワガニどもの行進だ。右手の橋を渡っているらしく、ライトで左右を照らしても切れ目が見えなかった。下手に突っ込めば寄ってたかってバラされてしまうだろう。「何もこんな時に」とつぶやいてUターンすると、ヤンが一瞬目を覚まし、寝ぼけ声を出した。
「おい、逆だ! 遠ざかってる」
 暗いのに妙に勘がいい。サワガニが邪魔だから一旦河原に降りて橋をくぐるのだと説明してやると、ほっとしたのかまた眠ってしまった。到着するまでに事情を聞きたかったが、起こすのも気が引けた。なるべく急いで、しかし揺らさないように気をつけて走った。
 
 
「ブルー! 医者を連れてきた!」
 目的地に到着した途端、ヤンは勝手にヘッドランプと医療セットを引きずり出し、洞窟の中に駆け込んでいった。さっきまでの困憊ぶりが嘘のようだ。ブルー、ブルーと呼びかける声に導かれて奥へ歩いていくと、目の前に崖がそびえていた。ヤンは荷物を背負って両足と右手一本を器用に使い、よじ登っていくところだ。やはり左腕が悪いらしい。あわててヘルメットのライトを点灯し、後を追いかけた。ロッククライミングをさせられると聞いていたら来なかっただろう。
 ようやく崖の上に這い上がると、ライトがつくる丸い円の中にどす黒い赤と鮮やかな青の小山が浮かび上がった。はじめは赤の甲殻機と青の甲殻機がぐちゃぐちゃに取っ組みあい、交尾か戦闘のあとで力尽きているように見えたが、すぐに目の錯覚だと気づいた。高い洞窟の天井に届かんばかりの巨大なヤシガニが一機横たわっているのだ。脚を力なく投げ出し、腹部に取り付けた袋虫コックピットは大きく傾いていた。安全に脱皮するために、ヤシガニの高い登攀能力で他種の大型甲殻機を寄せ付けない場所に逃げてきたのだろう。
「脱皮不全か……」
 その巨体には覚えがあった。ブルームーン号だ。以前、ある客が整備工場にやってきてその機体名を告げた時、物腰に似合わず風流な男だなと感じたことも思い出した。この星の衛星は緋色から黄褐色の間を往き来して、決して青にならない。ブルームーンといえば当然地球の月を意味していた。
 その殻乗りは今、こちらに背を向け、ブルーの頭の側で膝を突いている。というよりは、脱力して座りこんでいるのだった。目の前にはヤシガニの特徴にして最大の武器であるぼってりとした鋏脚の左側が無惨にちぎれ、地面にめり込んでいる。脱皮が半ばまで進んだところで自切が起きたらしく、青い殻の根元から赤々とした柔らかな身がはみ出し、早くも極小のヤドカリ類たちが群がりはじめていた。ヤンはニメートルほどもある鋏脚にそっと手をあてた。
「死んではいない」赤と青の小山のまわりを一周し、所見を述べた。「ただ、このままでは衰弱死する可能性が高い」
 ヤンはこちらを振り返った。「治療は?」
「殻医としては治療よりも乗り換えを提案する。整備士としても」
 ヤンが立ち上がり、こちらに詰め寄ってきた。あわてて理由を付け足した。
「理由は二つある。第一に脱皮への介入は成功率が低い。脱皮は鰓や消化器とも関連する複雑なもので、障害部位の特定が難しいからだ。第二に、これは整備士としての意見だが、この機体はすでに適正サイズを超えている。この先使い勝手は悪くなる一方だ。大きすぎると取り回しが悪いし、維持費はかさむし、小型甲殻機との対集団戦では特に不利になる。そのへんはあなたの方が詳しいだろう」
「乗り換えはない。絶対にない」
 押し殺したような声が答えた。
「どうして? 費用が心配なら下取りもできる。その点今回はラッキーだよ。ソフトシェルクラブは食べたことある? 唐揚げがうまいんだが、美食家連中にすごい値段で売れるから……」
 胸ぐらをつかまれて、相手が怒っていることに気づいた。とても怒っている。そして背後は崖だ。
「胸糞の悪い話は今すぐやめろ」
「わかった、人的介入の方向で考えよう。ただ過度な期待はしないでくれ」そう答えるとようやくヤンは手を放した。
 甲殻機に愛着を寄せる殻乗りもいなくはないが、ここまで思い入れるのは珍しい。古くなった靴を履き替えるように、乗りつぶしたら乗り換える者がほとんどだ。どんな結果で終わるにしろ早く解放されたい。部位ごとに診断した結果、第二脚から第五脚のうち三本の脚と前甲の一部、そして腹部の全体で脱皮が停滞しているとわかった。内臓の損傷状態は不明だ。脱皮の予兆を認めて洞窟に入ったのが六日前だというから、これ以上放置しても進展は望めそうにない。
 ヤンにも手伝ってもらい、介入しやすい部位から脱皮殻を除去することにした。たとえば前甲は防護手袋をつければ比較的容易に剥がせる。もちろん、脱皮したばかりの機体は手の跡がつきかねないほど柔らかいから注意が必要だ。高い登攀能力と分厚い甲殻、強力なはさみを誇るヤシガニだが、脱皮から硬化まではこの星でもっとも弱い生き物に成り果てる。ヤンはゼリーのように力なくふるえる身にショックを受けているのか、時々苦しげな声を漏らした。
「脱皮は何度も経験してるが、こんなのは初めてだ」前甲の除去を終え、処置すべき脚を順に伸展しながらヤンは言った。
「原因はなんだろう。必須微量元素の不足ってとこかな。心当たりは?」
ヤンは手を動かしつつ、半年前からブルーの飼料づくりを兼ねている芋畑の肥料を変えたこと、例年より雨が少なかったこと、最近上流にできた工場の排水が気になることをぽつぽつと話した。結局原因ははっきりしなかったが、その口調からはヤンが見た目より細やかな人間であるらしいことが伝わってきた。
 歩脚の細かい部分となるといよいよ手では間に合わなくなる。油と埃にまみれた医療セットを開けると、カニ爪を模した甲殻カッターが懐かしい銀色の光を放っていた。こまごまとした道具たち――通称カニスプーンやカニフォークなど――もまったく変わらない姿でそこにあった。情熱らしきものが残っていた若い頃、殻医こそはこの星に移り住んだ人類と原生種である甲殻機たちの共存に貢献できる仕事だと意気込んでいた。十年間で情勢は大きく変わり、甲殻機養殖と人工袋虫による寄生技術が確立された今、修理の範囲を超えて甲殻機を治療しようという物好きは滅多にいない。ふたたび出会うことはないだろうとさえ思っていた。器具がこぼす銀の輝きに、この日初めて仕事への意欲を感じつつあった。使命感と呼ぶのはまだ照れくさかった。「歩脚を支えてくれ」と頼み、カッターを構えた。
 左腕を傷めているにもかかわらず、ヤンは優れた助手だった。軟部組織の状態を見極め、どこまでの負荷に耐えられるかをいち早く察知できた。ブルーの機体をよほど知り尽くしているらしい。おかげで腐って溶け始めていた右第四歩脚の指節を失った以外は無傷で脱皮が完了した。
「あとは腹部だけだ」
 二人の間に沈黙が降りた。脱皮の難易度は、消化器系統を含む腹部において頂点に達する。ヤシガニの尾部は前へ突き出すように丸く折りたたまれている。その内側が腹部だ。腹部に抱きとめられるような形でコックピットである袋虫が取り付けられ、組織内部に深く根を張っていることも複雑さを高めている。
「腹部への人的介入は賭けみたいなものだ。すでに胃や腸が傷ついていたらどうしようもない」
「それなんだが」とヤンは言い淀んだ。「おれが手助けできるかもしれない」
「どういうことだ?」
 ヤンは袋虫のハッチを開けた。初めて目にするその狭い空間は、これまで見てきたどの袋虫の内部よりも異様だった。内壁はボロボロに剥げて黒ずみ、片側にはびっしりと古い写真が張られている。操縦席には毛布や衣服やコップが雑然と詰め込まれ、床には擦り切れた人形や駄菓子の景品が地層のように積もっていた。裏返った内臓、という印象が頭をかすめた。
「おれはブルーの考えてることがわかる。感じてることも」静かな声が洞窟に響いた。
「ヤン、あなたは」その言葉を発する前に一呼吸おいた。わずかでも声音に好奇心や揶揄が混じっていると取られたくなかった。「殻っ子なのか?」
 ヤンは操縦席に乗り込み、うなずいた。その存在を耳にしたことはある。開拓最初期の混乱期に両親を失った子どもたちは多かったが、社会福祉が未発達だったためにその一部は自活を余儀なくされた。甲殻機をゆりかごとして育った子どもたちが<殻っ子>だ。一日のほとんどを袋虫の中で過ごす彼女ら彼らにはその後”症状”が現れた。甲殻機からの分離不安や対人不安、そしてとりわけ特異な現象が甲殻機との感覚共有だ。甲殻機の痛覚や嗅覚を自分のものとして感じるその現象の機序は、未だ解明されていない。神経症と一蹴する者もいたし、殻乗りが目指すべき人殻一体の境地だとする者、袋虫が何らかの神経作用をおよぼしていると考える者までさまざまだった。ドックでの奇妙な憔悴、だらりと垂れた左腕、苦しげなうめき声。記憶の中でこれまでのヤンの行動の一つ一つが、横たわるブルーと紐づいていった。
「やっとわかった。ブルームーン号はあなたにとって仕事道具で、家で、家族で、恋人なんだな」
「そうだ。それに棺桶でもある」冗談を言ったのかと思ったが、ヤンの口ぶりは至って真面目だった。「ブルーの消化器は今のところ傷ついていない。おれが指示する。あんたが剥がせ」
 
 肩までをカバーできる防護手袋を装着し、ブルーの腹部の前に立った。ヤンは操縦席に乗ったまま袋虫のハッチを閉めた。なぜ閉じるのか尋ねると「内臓をかきまわされるってのに他人にツラをさらせるか。おれは殻っ子なんだよ」と怒鳴った。なんだかやけくそだ。
 本来、腹部の脱皮では腸内部の皮が排泄腔の付近で剥がれ落ち、胃の奥に残った皮はその後排泄される。その境目を見つけて外してやるのがミッションだ。ブルーの腹は陸上での長い脱皮期間に耐られるよう、呼吸のための水分を蓄えてしっとりと湿っていた。丸い腹先に割れ目を見つけると、そっと手首を挿しこんだ。獣医が牛の直腸検査のために腕を突っ込むことがあるが、あれに似ている。ただし変温動物である甲殻機の内部はひどく冷たい。骨に氷が突き刺さるようだった。ヤンに大丈夫かと声をかけたが、しばらくは異常絞扼反射を繰り返していた。いわゆるえずく、というやつだ。もう一度声をかけると「続けろ」とくぐもった声が返ってきた。
 脱皮時の常としてブルーは死んだように動かない。だが、こうして内部に腕を突っ込んでいるとわずかなうねりを感じた。生きている。そして感触でしか分からないが、脱皮殻が中で幾重にも折りたたまれているように思えた。
「それだ」とヤンがうめいた。「なにか嫌な塊がある」
 手で撫でて形を把握した。どうやら、剥がれ落ちてきた脱皮殻が適当に脱ぎ捨てた作業着のように丸まって、詰まっているらしい。しばらく触れたが掴むべき端緒が見つからない。「ヤン、どうも片手じゃ無理だ。両腕を使ってもいいか?」しかしこの提案は言葉にならない罵倒で拒否された。
 殻のもつれをほどくには長い時間がかかった。占い師の託宣を頼りに、目をつぶって知恵の輪を解くような作業だった。しかも片腕でだ。ヤンの案内は「もっと先の方だ、いやつまり奥だ」とか「頼むからもっと生まれたての雛を掴むくらいの力でやってくれ」とか「そこには二度と触れるな、クソ野郎」などと言って、要領を得なかった。夜が明ける頃、とうとうヤンの特大の悲鳴と一緒に腸内の脱皮殻が引き抜かれた。長時間酷使していた右腕は冷たさでとっくに麻痺し、痛みさえ感じなくなっていた。
 ハッチが開き、涙と汗と唾で顔中をべしょべしょにしたヤンが転がり出てきた。腰を抜かしながらも頭部に這い寄り、「ブルー、もう大丈夫だ」と励ます姿に、気づくと柄にもなく涙ぐんでいた。極度の疲労と寝不足で情緒がおかしくなっていたのかもしれない。われわれは微笑み合って握手をした。お互い何も言わなかったが、固く締まった手のひらからは、深い安堵や疲れやブルーを喪うことへの恐れ、そしてたっぷりとした敬意が流れ込んできた。不思議な心地だった。殻っ子というのは他者の感覚にも影響を与えるのだろうか? ヤンはまだ右腕しか動かず、こちらは左腕しか使いものにならなかったから、それは傍から見ればすごく奇妙な握手だった。
 
「とんでもない。払えない。あんなに手伝ったじゃないか。高すぎる」
 ローバーの中で懸念した通りだった。ヤンは請求書を見た途端に文句を言い始めた。整備に比べて治療は桁違いに金がかかる。それも甲殻機医療が衰退した理由の一つだった。いくら説明しても折れる気配がないので、こう切り出さざるを得なかった。
「じゃあ、あのはさみをくれるなら割り引いてもいい」
 ちぎれてしまったブルーの左鋏脚を示して言った。殻からのぞく肉にはまだみずみずしい張りがあり、新鮮そうだ。ヤンはちょっと怪訝な顔をしたがやがて天を仰ぎ、手のひらで顔を覆ったかと思うと、指を突きつけ食ってかかってきた。
「ふざけるな。ブルーはおれの分身だ。食うなんてさせないぞ、このとんでもない……」しかし罵るうちに経験豊かな個人農場経営者としての面が顔を出したらしく、罵倒は尻すぼみになって空へと消えた。ヤンは呆れたようにとうとう言った。
「持っていけ」
「ありがとう。武装用カスタマイズのクーポンも付けるよ」
 はさみをローバーの保冷庫に押し込んでいる間もヤンはまだぶつぶつ言った。
「信じられん。このご時世に殻医になるくらいだから、無愛想だがちょっとはいい奴だと思ったのに。あんた、こいつらが好きで医者になったんじゃないのか?」
「好きだからだよ」と答えた。心の底からの返事だった。
 
 三週間のうちに春はいってしまって、日光にするどさが混じり始めた。まぶしくてくさくて湿った夏がやってくるのだ。午前中の作業を切り上げて昼食を作ろうと立ち上がった時、ヤンからメッセージが届いた。午後早くにいつもの整備とカスタマイズの相談で寄りたいが時間に空きはあるかという内容だったので、大丈夫だと手短に返信した。
 ヤンから連絡がくるのはあの洞窟での夜以来初めてだった。きっと脱皮後のダウンタイムが終わって、ブルーが動けるようになったのだろう。相談というのは、再生するまでしばらく不自由になる左鋏脚につける武器のことに違いない。頭の中で手持ちのストックや最近眺めたカタログをさらいつつキッチンに立った。冷蔵庫を開け、前夜から解凍しておいた身を取り出す。薄べったく半分透きとおった殻に包まれたそれは、偶然にも最後の一切れだった。
 ぶつ切りにして塩胡椒をふり、粉をはたいた。温めた油の鍋にそっと落とすと、細かい泡を振りまきながらしゅわしゅわというやさしい音を発した。ソフトシェルクラブは結局のところシンプルな揚げ物が一番うまいのだ。固くなりすぎないうちに引き上げて皿に盛り、炭酸水のボトルを持ってドックの屋上に出た。
 ぬるい風が肌をさらっていった。勤務中でなければ飲み物にはアルコールが入っていてほしいところだ。炭酸水を一口飲むために顔を上げると、ずっと遠くの方に砂塵が立っているのに気がついた。晴れが数日続いた時には珍しいことではない。けれど砂埃の中に影が見えた。物干し台にかけっぱなしの双眼鏡を手に取って目に当てた。
 二機の甲殻機が戦闘していた。一つは大型のオカヤドカリだ。最近どこかの農場から脱走したらしく噂になっている個体だった。背負った強化ヤド貝が時々チカチカと光るのは、どうやら銃器で敵を射撃しているらしい。巨大な鋏を盾にしてその弾丸を弾いているのは、ブルームーン号だった。
 ブルーは射撃をやり過ごすと相手の脚をなぎ払うように右鋏脚を叩きつけ、オカヤドカリがバランスを崩したところへまともにはさみを食らわせて動きを封じた。さらに重たい機体でのしかかると、右一本を素早く使って敵の脚をむしり始めた。プレゼントを待ちきれない子どもが包装を乱暴にひきはがすような仕草だった。厄介者のオカヤドカリは三分もしないうちにばらばらになってしまった。明日までに小型の甲殻機たちが後片付けをするだろう。
 炭酸水を飲み、ソフトシェルクラブの唐揚げをかじりながらブルーの仕事を眺めているのは楽しかった。清々しいが、少し気がとがめるような気がした。戦闘を終えたブルーはちょっとこちらに向き直ると、先のちぎれた左鋏脚を掲げて大きく振った。見えているかはわからないが手を振り返した。初夏の陽光を浴びて水面を浅く光らせる湿地帯を横切り、ブルームーン号はこちらに向かって歩き始めた。

(了)

【補記】
こちらの作品は、暴力と破滅の運び手さんが審査委員長を務める「 エッチな小説を読ませてもらいま賞」に応募し、次点に選ばれた同名短編の加筆バージョンです。応募規定に4,000字の上限がありましたが、エッチな小説を書くのが楽しすぎて気づけば6,000字を大きく超えてしまい、泣く泣く削って応募しました。エッチな小説のエッチさに豊かな細部は欠かせないと思いますので、自分でも気に入っている長いバージョンにさらに加筆して公開します。結果として規定文字数の2倍を超える約8,200字の短編になりました。応募作そのものでないことにご留意ください。
楽しい賞を企画してくださった審査員の皆様、ありがとうございました。受賞作品はアンソロジーとして発行されるとのことで、とても楽しみです。

賞の詳細については下記公式サイトをご覧ください(ハートが舞い散ってて最高です)


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