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ちかつうろ

 あなたは地面にもぐっていく階段の一番上の段に立っています。階段はとても古く、砕けたコンクリートの間から草がぼそぼそと生えているのが見えます。外の明るさで、降りていく先は暗く沈んでいる。それは水のような暗闇です。一段ごとにひんやりと湿った空気が足先からのぼってくるところも、水の中を思わせる。ここの温度はいつも一定なのです。夏は涼しく冬は生暖かい。今の季節は春で、だからここの空気はひんやりしています。それはけして心地よいものではない。どちらかというと、不快です。少し冷たすぎる。少し湿っぽすぎる……あなたは肺が苦しくなり、止めていた息をはやくも吐き出してしまう。まだ、階段を降りきったばかりなのに。ふたたび地上に出るまで、呼吸を止めていようと思っていたのに。人間は鯨ではないから、息を吐きたくない場所でも息を吐かなければならないし、吸いたくない空気も時には吸わなければならない。あなたは息を吸いこみます。我慢していたぶんだけ、ふつうより深く。しぼんだ肺に湿った空気がなだれこんでくる。鼻の粘膜に、淀んだ水と、湿った土と、溶けた石と、苔と黴と菌類、それらの粒子がぶつかって跳ねまわる。地下に降りてからあなたが感じるはじめての香りです。あまりにも湿度が高いので、おぼれるのではないかとおびえてしまう。でも大丈夫。落ち着いて呼吸すれば大丈夫。通路には灯りがひとつもありません。とても暗いところ。ずっと向こうに小さな白い光が見える。向こう側に出る階段から差してくるのでしょう。今は自分の靴すら見えないけれど、転ばないようにひと足ひと足、右と左を順番に動かしていけばいい。天井は低くて、背伸びをしたらつっかえてしまいそうです。壁の向こうをちょろちょろと水が流れている。足音が反響してまるで何人もいるみたいに聞こえる。でもひとりです。ひとりだから、安心です。はじめの水っぽい香りをかきわけるようにして小便の匂いが登場します。こんにちは。こんなところで何をしているのですか? ここは地下通路。排泄をするところではありません。でもかぎ慣れたその匂いは間違えようがない。鼠でしょうか、それとも酔っぱらいでしょうか。地上の空気との温度差で思わずもよおしたのでしょうか。この場所はいつもこうなのです。二番目のこの匂いが消えることはありません。空気が淀んでいるせいで、ずっと昔の立ち小便の匂いがいつまでもこだましているのかもしれません。足音みたいに。天井からしみだした水滴が頭の上に落ちて、あなたは冷たさに首をすくめる。水滴は体温でぬるみながらつむじ、側頭部、耳の裏を通って首元に流れる。古くなった水の匂い。それから、あなた自身の皮脂の匂い。これが三番目の香りです。ふと顔を上げると、前から誰かが歩いてきています。誰なのかはわかりません。顔も、性別も、年齢も、すべては階段から伸びる光が作り出す影に呑まれています。真っ黒な粘土のようです。向こうから見ればあなたもそうでしょう。ふたつの足音が反響して、音だけを聞けばもう大通りのようです。通り過ぎる時に一瞬だけ煙草の香りがします。あなたは煙草を吸いません。だからその人はあなたではありません。それだけは確かなことです。煙草の香りに少し意識がはっきりしたあなたは、この四番目の香りを杖にして足をすすめます。もう半分を過ぎました。あたりは少し明るさを取り戻し、ざらざらの壁には刺青のような色とりどりのグラフィティが浮かびあがっています。空気は少し乾いたみたい。さっき階段を降りはじめた時はあんなに湿っぽく感じたのに、不思議です。きっと知らないうちにもっと暗くて、じめじめしていて、匂いの強い場所を通ってきたせいなのでしょう。あなたは階段の一番下にたどりつきます。まぶしくて目が痛い。階段をのぼるごとに空気の味が変わっていきます。風の味、植物の味、排気ガスの味。とうとう地上にたどりついたあなたは深呼吸をします。おめでとう。おかえりなさい。

 わたしは長い説明を読み終わると「購入」のボタンをクリックした。カートのアイコンに丸に囲まれた「1」の数字が浮かぶのを確認して、アイコンをクリックし、必要な情報をひとつずつ打ちこむと、「購入が完了しました。ありがとうございました。」というメッセージが出た。わたしは伸びをひとつした。パンの香りの香水や、ビニールの香りの香水があるのは聞いたことがあったけれど、まさか地下通路の香りの香水が本当にあるなんて検索するまで考えてもみなかった。毎日夢に出てくる地下通路には地上への階段がない。光が近づいてくることはなく、目が覚めるまでいつまでも暗くてじめじめした通路を歩き続ける。はやく香水が来てほしい。来週の頭には届くはずだ。

(了)

初出:2020/10/21 犬と街灯とラジオ#24 41:55~


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