見出し画像

しもばしら

 ひとりで住む家は寒い。冬になってようやく気づいた。あたりまえだが、自分のつけたところにしかストーブはついていない。あたりまえだが、体温を放つ生き物がひとりしかいないぶん、室温はより下がる。朝、あたたかい二階の寝室から一階に降りていくと、木の床の冷たさがもこもこスリッパと靴下を貫いて、つま先がびりっと痛む。昼間になると日光が当たるおもての庭の方があたたかいぐらい。去年までは人のいない部屋でストーブがつけっぱなしになっていると灯油代や一酸化炭素中毒が気になって仕方なく、聞こえるように独り言で文句を言いながら消してまわっていたけど、あれはあれで合理的だったのかもしれない。
 それにしても今年はとくに寒い。洗面所に直行して口をゆすぎ、顔を洗うと、冷たい水が奥歯や肌を刺してぎゃーっと叫びたくなる。でも、眠気がふっ飛んで気分がしゃんとする。ついでに体組成計で体重を測る。それから朝ごはんを食べる。メニューはクラッカーひと袋に作りおきのサラダ、フリーズドライのスープと目玉焼き、それからブラックコーヒー。わたしは朝にやることを決めている。朝食のメニューも全部決めている。その方が心が落ちつく。
 食べ終えて皿を片付けたら、裏庭で縄跳びをする。裏庭は日が当たらなくて寒いけど、三方が隣の空き家と、コンクリート塀と、藪に囲まれていて人目にはつきにくい。始めた頃はおもてでやっていたが、ごくたまに前を通りがかる人がいるのでやめた。大の大人がどすんどすんと地面を踏み鳴らして縄跳びをするさまは、見る側にも見られる側にも気まずい思いを与えるものらしい。
 裏口のドアにひっかけた縄跳びを取って裏庭に出る。と、妙な違和感をおぼえた。あたりがへんに明るいのだ。見ると、毎日の縄跳びでしっかりと踏み固められた地面から、さらに五歩ほど進んだ庭の奥が、何か白っぽいもので覆われている。近づいてしゃがみこんだ。地面から半透明の細い毛のようなものが固まって生え、薄暗い中でほのかに光っているように見えた。つつくとぽろぽろと崩れた。指が冷たい。霜柱だ。本物を見るのは初めてだった。いつかテレビの教育番組で見た粘菌の子実体か、映画で主人公の乗った車が落とされる崖に似ていた。大きく広げた両腕より少し余るほどの地面がそのようにして盛りあがり、霜柱のてっぺんには持ちあげられた土がココアパウダーのように散らばっている。これはよくない。縄跳びをそばに捨てて立ちあがり、スニーカーの右足でさっき崩れたあたりを踏みつけた。ざくざくざくざくっ。小気味良い音がした。はかない氷の柱は足の裏に対してつかの間健気な抵抗を見せ、次の瞬間にはもう砕け散っていた。その感触は音と同じくらい気持ちがよかった。左足でもう一度ゆっくりと踏み、また右足で味わうように踏み、そこから足が止められなくなった。ざくざくざくっ、ざくざくざくざくっ。無傷の霜柱がすっかりなくなるまで夢中で踏みつづけてから、ようやくぐちゃぐちゃに踏み荒らされた地面に立っている自分に気がついた。いつもなら縄跳びをとっくに終えてストレッチをしている頃だ。あわてて縄跳びを掴むと、スニーカーの靴底についた氷のかけらがばらばらとこぼれた。
 朝の日課が崩れたせいか、その日は一日調子がおかしかった。だからせっかく義理の母が来る日だったのにうまくもてなせなかった。いつもならふたりして涙をこぼし、すすり泣き、ティッシュで鼻をかんで、楽器のセッションをするみたいに過ごす。でもその日は義母がどんなに嗚咽しても涙が出なかった。こちらがにこにこしてマグカップのお茶を飲みつづけているので義母は不審に思ったらしく、「ねえ、もしかしてあの子から連絡あったんちがう? メールとか、手紙とか」と聞いてきた。「そんな……連絡あったら、わたし、まっさきにお義母さんに言いますよ」「そっか、そうよね、ごめんねえ」と義母はまた新しいティッシュを引き抜いて顔に押し当てた。「何考えてるのかちっともわかれへん。ええ歳して会社に迷惑かけて世界一周やなんて。小学校までは明るい子やったのに。生徒会長やったんよ」三十回は聞いたであろう話が始まって、ますます上の空になった。お茶を飲むふりをしたけれどマグカップはとっくに空っぽだった。
 次の日から霜柱を踏むことが朝のルーティンに加わった。日ごとに寒さは増していて、だから霜柱も毎日新しく生える。裏口の戸を開けて、庭の奥が白っぽくぼやけているのを見るたびに嬉しかった。ざくっ、という音とともにかかとが沈み、小さな骨そっくりの氷の柱が散らばる。あまりに体重をかけると生えてこなくなりそうで、そうっと歩き回るやり方も身につけた。踏めば踏んだだけ饒舌に音と感触で答えてくれる霜柱が愛おしかった。あまりにも夢中になったので、職場で単純作業に没頭している時や家で皿洗いをしている時、耳の中でざくざくっと音がする気がするくらいだ。誰かが裏庭に侵入して勝手に霜柱を踏んでいるのではないかと、寝る前に裏口からそっと庭をのぞいたことさえある。でもそれは気のせいで、すっかり暗くなった庭の奥に踏み荒らされた地面が横たわっているだけだった。夜中のうちに清らかで美しい霜柱が新しく生まれるのだ、わたしに朝踏まれるために。夢に現れることも珍しくなかった。気づくと夜明け前の裏庭に立っている。つけっぱなしの懐中電灯が転がっている。ざくざく、ざくざく、ざくざく。足の下で霜柱のくだける音がする。もっと聞きたいと思う。ざくざく、ざくざく、ざくざく。いつのまにか手にショベルを握っている。もっと深く掘らなければ。ざくざく、ざくざく、ざく。噴き出した汗に蚊が寄ってくる。腕がしびれるほどだるい。穴の底から見上げると、そばに転がした寝袋に懐中電灯の光がぶつかって真っ黒な影になり、とてつもなく大きく見える。こんなに大きな穴はぜったいに掘れない。起きて手伝ってくれればいいのに。いやだめだ、きっといつもみたいに目も見ないし、返事もしてくれない。どれだけ頼んでも、泣きわめいても。だったらあんまり変わらんな。ざくざく。
 目が覚めると体の下敷きになった腕がすっかりしびれていた。ベッドから降りてスリッパを履き、階段を降りて洗面所に行く。ぎゃーっと叫びそうになりながら口をゆすいで洗顔をし、体重を測る。それからいつもの朝ごはんを食べる。皿をさっと洗って裏庭に行き、縄跳びをする前に、霜柱を踏む。霜柱はなんだかいつもより水っぽくて弱々しい。もうすぐ春が来るのだろうか。少しさみしい。

(了)

初出:2020/08/12 犬と街灯とラジオ#14 34:50~


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?