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オーロラ

 海の底から湧いたとしか思えなかった。
 世界のどの海域にも、過去のどんな本にも記録の見つからないこの発光クラゲたちは、わたしたちが十二歳の年の晩夏に北海岸の波打ち際を覆いつくした。子どもたちは声をあげてクラゲを踏んだり投げたり、大事に持ち帰ったりし、二日後には飽きた。数が多すぎたのだ。
 「オーロラ見にいかない?」と、よなちゃんが言った。
 わたしたちは夜の堤防を歩いた。変質者が出たらどうしよう、とよなちゃんが肘にしがみついてきたので、ふたりでいい方法を考えた。変質者が出たら、まずよなちゃんが、あっおまわりさん、と手を振って気をそらす。そのすきにわたしが股間を蹴りあげ、ふたりで走って逃げるのだ。手をつないだふたりの残像が向こうの街灯の下に走り出てきて、あっという間にこちらの横を通り過ぎて去った。夜の海辺は風が強い。
 よなちゃんが立ち止まった。わたしも立ち止まった。ここからは海岸がよく見下ろせた。見える限りの西の端から、見える限りの東の端まで、波打ち際がいろいろな色に発光している。すべてクラゲの列だった。呼吸をしているみたい。遠くでぽっと灯った青緑が数秒かけてゆっくりと走る。その後ろに黄緑、そのまた後ろに濃い緑。左から右へ。左から右へ。移動しているのではない。光を伝達しているのだ。
 「オーロラみたいだよね」よなちゃんの声の中に憎んでいるような、軽蔑しているような響きがあって、わたしはますます強く腕をからめあわせた。よなちゃんの家の仕事は海苔の養殖だ。おじいさんとおばあさんとお父さんとお母さんとお兄さんが毎日海苔の世話をしている。でも、もうだめだった。よなちゃんの家だけの話でもなかった。
 「そうだね、空じゃなくて海ってことに目をつぶればね」
 「あとここが日本だってことに目をつぶれば」
 「それじゃなんにも見えないじゃん」
 わたしたちはきゃっきゃっと笑った。あれなんだろう、とよなちゃんが東の砂浜を指差した。クラゲの列の中にひときわ濃く強く光を放っている部分がある。堤防伝いに歩いて、階段から砂浜に降りた。あたりは暗くて、向こうにクラゲの光があって、ぼそぼそと生えた植物の間を歩いていると夢みたいだった。ずっとたどり着かなければいいのにと思った。
 「マグロかな?」
 「マグロだね」
 マグロだった。友達の中では背の高いよなちゃんよりもまだ大きいマグロの死骸が横たわり、波が寄せては返すたびに少しずつ動いていた。そのまわりをたくさんのクラゲたちが取り囲んでいる。光のプールみたいだ。青と緑の間を行ったり来たり。ふたりとも照らされて肌が死人みたいに見えた。死んだ臭いに集まるのかな。餌になるプランクトンがまわりに多いのかも。これってもしかして大発見じゃない? 何を言っても答えはなかった。
 よなちゃんがズボンのポケットから平たい物を取り出した。クラゲで作ったプレートだ。先週小学校で大流行した。適当なザルに死んだクラゲを拾い集めて砂を洗い流し、天日にあてて乾燥させるとクラゲのプレートができる。死んだクラゲは光を出さないけれど、透明な体にごく薄い赤や青や緑、紫や黄色が散って虹のように見えるのだ。一年生から六年生、教頭先生までプレートを作った。わたしも持っていたけれど、クラゲがあまりにも多く、発生が収まる気配もまったくないせいで、プレートが急に上等な生ごみのように思えて捨ててしまった。ほとんどの子はそうした。
 よなちゃんは捨てなかった。今もマグロのまわりに集まる光の呼吸にプレートをかざしてゆっくりと動かし、虹が作りだす模様に見入っていた。足元で波がくだけて時々ふたりのサンダルを冷たく濡らした。
 「きれいだね」
 わたしが耳元でささやくとよなちゃんはびくんと体を強張らせた。世界中から隠そうとするみたいに合わせた両手を握りこみ、ぎゅっとおへそのあたりに押し当て、全身の力を込めてプレートをまっぷたつに引き裂いた。ひとつの断片をさらに小さく。もっと小さく。光に向かって破片をばらばらと投げ入れ、よなちゃんは腕に顔を押し当ててしゃがみこんだ。わたしもあわててしゃがみ、手のひらで背中を何度もさすった。マグロが生臭かった。
 背中に腕を回して抱きしめると、浅くて速い呼吸が伝わってきた。そこに時々しゃくりあげるような痙攣が混ざる。よなちゃんが憎んでいるのも、軽蔑しているのも、クラゲじゃないんだとその時わかった。クラゲはただ呼吸するみたいに光っているだけだ。光って、押し寄せて、この町をめちゃくちゃにした。荒い呼吸が波のように引いていくのを待ってから、ごめん、とわたしは言った。いいよ。よなちゃんが顔を上げずにつぶやいた。
 「よなちゃん、いい方法思いついた。ものすごく大きなザルでクラゲを濾すんだよ。そんでそのままお日様で乾かすの。きっとでっかいプレートができるよ」回した腕に背中のふるえを感じた。笑ってる。わたしは続けた。「でも波打ち際に集まるから無理かな?」
 「マグロでおびき寄せたらいいんだよ」よなちゃんは伏せていた顔を上げ、わたしに笑いかけた。青と緑の光が顔の半分と涙の跡を浮かび上がらせる。わたしもそんなふうに見えるに違いなかった。そっか、じゃあわたしマグロの漁師になるよ、とわたしは半分の顔で言った。

(了)

初出:https://twitter.com/katanane/status/1298089476388880385

2020/08/26 犬と街灯とラジオ #16  1:01:40〜

お題:さみしいなにかをかくための題 より

「蜂本さんはオーロラが見えた夜、くらげがいるという波打ち際であの子が教えてくれた画期的な掃除方法に関する話をしてください。」

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