トンビにパンをさらわれる(「いきもんら」収録)
銀閣寺近くの疏水沿いでパンをさらわれて、今はその犯人であるトンビを追っている。銀閣寺、というのが盲点だった。鴨川沿いだったら絶対に油断しなかったのに。
そもそもの話をすればわたしはライターだ。地域のおしゃれスポットや映える名所とかを毎号テーマごとに特集する情報誌の仕事を月一でもらっている。メンバーはいつも一緒。発注元の編集さんと、デザイナーさんと、外注のカメラマンと、外注でライターのわたし。今回は春、桜の下でパンを食べよう! って感じの号の取材。取材の時は桜咲いてないけど。めちゃ冬だけど。
盗まれたのが厄介で、生食パン一本で店を出すタイプの高級店の、一日五本しか出ない食パンだ。ふわっふわで香ばしく、空気より軽いと評判を集めている。こういう食べ物の撮影って基本協力という形でただで提供してもらうことが多いんだけど、そのことでひと悶着あった。パン職人さんからしたらなんで素材も焼き方もこだわって利益度外視でつくってるパンを持ってかれなくちゃいけないのかという話で、正論だと思う。でも実際問題、ただで提供してもらうことが多い。取材メンバーがお礼がてら何か買ったりもするけどそれはあくまで自分用だ。高級店だと自腹でおさめるにしろメンバーの懐事情的に厳しいこともある。けっきょくどうにもこうにもならなくなったところでオーナーが登場し、職人さんをとりなしてくれて生食パンが手に入った。一同ほっとした。
ところが銀閣寺近くの疏水沿いだ。あちこち歩きまわっていい具合のベンチを見つけ、撮影準備に取り掛かっていた時だった。ベンチに何か茶色い大きなものが降ってきたかと思うと、すぐに姿を消した。食パンも姿を消していた。見上げると桜の木の上でトンビが食パンを押さえつけていた。まさか一斤まるまる盗むとは。トンビのサイズからするとかなりの大きさだが、さすが空気より軽いだけのことはある。取材メンバーはもちろん凍りついた。カメラマンさんだけが即座に反応して何枚も写真を撮っていた。犯行の証拠写真だ。話し合いがはじまった。もっとも穏便な方法は、素直にさっきのパン屋さんに謝って、もう一本提供してもらうことだった。しかしこれは分が悪いとのことで意見が一致した。次にわたしから「残念だけど、あのパンは諦めて他のお店のパンで構成しましょう」と提案した。編集さんとデザイナーさんが、口をそろえて「あれは今号の目玉なんです」と言った。取材拒否ばかりしていたパン屋さんで、今号でうちがはじめて特集するんです。気まずい雰囲気が流れた。誰が悪いともいえなかった。全員がトンビというリスクファクターを見落としていたのだから。やがて編集さんが重い口を開き、「高瀬さん……取り戻してくれませんか」と言った。取り戻す? 「つまりそのなんとかして、トンビからパンを取り戻すんです」と編集さんは言った。「そうですね、高瀬さんが取り戻す間、私たちはほかのアイテムを撮影しておきますから」デザイナーさんが加勢した。今この瞬間、私たちという群体からわたし個人が排除されたのだった。切り捨てられたのだ。「で、でも、トンビがさらったパンですよ。ボロボロですよ」「それは一面でもきれいな部分があればなんとかします」カメラマンがぴしゃりと言った。「撮影はカメラマンさんにしか無理ですし、私たちもディレクションがあります。高瀬さんには、あとでコピー元となる資料をお渡しします」
話し合いはそれで終わりだった。この瞬間からわたしはライターを一時的にやめ、トンビ追い人となった。トンビ追い人はトンビを追う。どこまでも追う。手始めにトンビがパンを貪っている桜の樹に足をかけのぼり始めたが、トンビは異常を察知して生食パンを掴みふわりと飛び立った。電柱へ。電柱のてっぺんでは一斤の生食パンなど到底落ち着いて食べられないので、ふたたび桜の樹へ。そしてまた電柱へ。わたしは翻弄された。翻弄されるうち、少しずつ人里から離れ始めた。トンビは夜山で眠るらしかった。双眼鏡を買った。巣を突き止めて寝込みを襲うしかない。しかしトンビは大文字山にあるいっとう背の高いクヌギの樹を根城にしているのだった。それだって突き止めるのに二日かかった。何度も木に登り、転げ落ちた。走るのに邪魔なパンプスは捨てた。心なしか双眼鏡をのぞいて見える生食パンが小さくなっているようだったがそれは比較的どうでもよかった。なぜなら撮影のプロたるカメラマンが言ったのだ。一面でも無傷な部分があれば大丈夫だと。極論を言えば、薄さ一マイクロメートルのパンの耳が無傷ならそれでいい。ひたすらにトンビを追いかけていつしかわたしの足の裏は鋼のように固く、それでいてあらゆる衝撃を吸収するクッション性を備えていた。腕、脚、背中にふさふさとした体毛が茂った。環境的に除毛ができなくなったこともあるが、夜の寒さや擦り傷から体表を守るためだった。爪がするどく伸び、骨すら断ち切る牙が伸びた。親指の脇からもう一本の子親指とでも言うべき新たな指が生え、うんていのように枝を飛び移る際の体重移動を支えてくれた。すべてはトンビからパンを取り戻す、その日のために。
(了)
この短編は、2020/09/06 文学フリマ大阪で頒布した「いきもんら」に収録されています。
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朗読:2020/10/14 犬と街灯とラジオ#23 後編26:15~(通信障害で聞きづらい)
【前編】
【後編】
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