「はい終わり。」もいいんだけど・・・・

 いや、別に良くはない。被害者を冒涜する気もないし、加害者を擁護する気もさらさらない。ただ、大型バイクが普通乗用車に煽られた末に追突されてしまう状況が、正直あまり飲み込めない。想像がつかない。

 早朝の吐息が白く見えなくなってしばらく経つ。縮こまって身震いもしなくなった頃、当時はまだ主流だったキャブ車のシートカバーを勢いよく剥ぎ取り、防犯アラームのスイッチをキャンセルした。
 サイドスタンドで“休め”の状態だったそれを、直立の“気を付け”の状態に起こし、特に調子が悪かったわけでもないがチョークを目いっぱい起こしセルスターターを押す。
 1秒ほどのセル音のあと、獅子の咆哮のような音でそれは目を覚ます。ハイネックのロングTシャツと革パン姿で玄関へ戻り、着慣れた革ジャンに袖を通す。フルフェイスのヘルメットを手に取りながらほんの数秒悩んだあと、革ジャンの上からもう一枚、ベストを羽織る。
 ベストの背には“チームカラー”と呼ばれる円形のエンブレムが縫い付けてある。車輪の輪郭に稲妻と矢印がデザインしてあるその刺繍は、当時若くして星になった発起人が知り合いのデザイナーに頼んで作ってもらったものだった。「チームカラー」が仕上がって、それぞれのメンバーがそれを手にして間もなく、神童的に速かった彼は星だったか風だったかに、なった。
 彼がこの世界からいなくなっても、共にあることを確認するようにそのベストをなるべく羽織るようにした。

 その鉄塊、排気量が1200CC。当時の言い方をすれば“カリカリチューン”というほどのカスタムじゃなかったが、キャブレターに「ドーバーキット」というパーツが組まれており、保安基準などとは程遠いストレート構造の公道使用不可のマフラーで吸排気のバランスを取ったせいで、シャーシーダイナモ上で160psという当時としてはふざけたパワーを叩き出していた。

 住んでいた場所は戸建て、集合住宅が密集する住宅地で、さすがに早朝の爆音は気が引けたので、ほとんどアイドリング状態でノロノロと大通りまで進んでいく。今になって思えば社会人に成りたてでありながら、まだ大人への反抗心が幾分残る、子供だったのか大人だったのかよくわからない自分自身だった。
 艶消しのフルスモークなフルフェイスの後頭部下から、当時ブリーチしただけの金髪の長髪を緩やかに靡かせながら大通りに突き当たる。水冷車である「それ」の冷却ファンが回り始めるかどうかのタイミングで信号が青に変わる。全身黒い革尽くめの、おおよそ穏やかとは言い難い風貌のやつが、律義に歩行者の巻き込みがないか確認しながらゆっくりと左折していく。
 浅めに倒し込んだ車体がゆっくりと左折を完了させ、直立する直前のところで一気にスロットルを開ける。
 ハイグリップタイヤを履いているとはいえ、早春の早朝、まだ路面とタイヤが温まっていない時間、大型車でのラフ過ぎるアクセルワークはいとも簡単にスリップダウンすることは分かりきっていた。後輪が派手にブレイクすることなく、且つフロントがむやみに浮き上がってこないところでのフル加速。法定速度など2秒で過去のものになる。

 そもそも普通に考えて、ガソリンと各種オイル類、冷却水フル装備とライダー自身が跨っても260Kg程度。これを馬160頭で押す、または引くわけだから、慣性Gは心躍るものになることぐらい、想像に容易い。逆輸入車特有のフルスケールメーターが時速200kmを指すのに8秒ほどだった。

 当時は今ほど防犯カメラの設置数がなく、所々でオービスがあるくらいでかなりの不運で早朝警ら中の機動隊員と遭遇しない限り路上のお遊びを咎められることはなかった。今でこそ当時より遥かに身近にネットがあり、SNSの浸透も相まってそんなことすればすぐ動画撮影され、晒し者になった挙句足が着いて検挙される。そんな若かりし頃を過ごした自分にとって、“車がバイクに追いつく”ことそのものがあまりにも非日常過ぎて、想像がつかない。ただ、あの頃自分達が後先考えずにはしゃいでた、はしゃぐことができた時代じゃもうないんだな・・・ということだけは理解できている。