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リンゴの美味しい食べ方を、わたしは忘れたくなくて

日曜日の朝。まだ人気のない神保町の街を、とぼとぼと歩く。

目指すのは、大通り沿いにある、一棟の雑居ビル。
エレベーターに乗り込み、「3」のボタンを押す。

降りた先には、「無用之用」と書かれた看板が立てかけられていた。
木箱に入った無数の古本たちが、わたしを出迎える。

ぽつねんと入り口付近に佇むわたしに、いつもの店主さんが無言で会釈をする。
わたしは深々とお辞儀を返し、それから、本の海の中を彷徨い出した。

・・・・・

友人からその知らせが入ったのは、土曜の夕方のことだった。
とても辛い知らせだった。できることなら聞きたくなかった。

なんの前触れもなく、ある日唐突に、それまであったものや人が消えてしまう。それがこんなに残酷なことだと、わたしは知らなかった。知った気でいただけだった。

近々この出来事が起こるだろう、と予知することが叶うのであれば、話は違う。いつかそのXデーが訪れたときのために、「正しく悲しむための準備」を粛々と進めることができる。傷が致命傷にならないように、悲しみすぎなくて済むように。

でも、今回のそれは、いささか突然すぎた。
急に現れて、驚くよりも前に大切なものをかっさらって、見えないどこかへ行ってしまった。

アクション漫画で、敵に切られたことに(攻撃があまりにも突然で)気づかず、時間差でダメージを食らう、みたいな描写をよく見かける。
あれはフィクションじゃなかったんだなあ、と、いつものようには働かない頭で、ぼんやりと考えた。

既に大切なものは奪われてしまったというのに、その予感すら追いついてこない。
理屈では、悲しむべきことだと頭で分かっているのに、その「悲しいこと」が本当に起こったのかどうかすら、信じがたい。だから、悲しめない。

心の中を占めるのは「わからない」「なぜ」「どうして」。はてなマークがギュウギュウ詰めになって、感情の入る余地を残さない。

いろんなものに置いてけぼりを食らったまま、わたしは立ち尽くした。

・・・・・

翌朝。窓の外は曇っていた。ちょっとでも空を突っつけば、雨でも降りそうな天気だ。
けれど、わたしは長靴を引っ掛け、外に出た。そうでもしないと、気が変になりそうだった。

半蔵門線に乗り換え、いつもの古本街に行く。

電車に揺られながら、わたしはある言葉を思い返していた。

「無用の用」
これから向かう古本屋さんの、店名にもなっている言葉だ。

意味は、役に立たないもの、つまらないもの。

「それでも、」
古本屋の店主さんは言った。
「そのような、一見無益なものこそ、後からじわじわと効いてくるんです」

・・・・・

お目当ての店に着いて20分後。
わたしは十数冊の本を抱きしめて、レジの前に立っていた。

旅行記。心理学の学術書。高校の大先輩が書いたエッセイ集。クラシック音楽に関する本。
ジャンルは見事にばらばら、共通しているのは実用書ではないということだけ。

ショッパーに入り切らない数の本を携えてきたわたしを見て、店主さんは笑い、店の奥に引っ込んだ。
「これしかなくてごめんなさいね」と言いながら戻ってきた彼の手には、バウムクーヘン屋さんの大きな紙袋があった。

バウムクーヘンの代わりに、本を紙袋へ詰め込んだあと、彼はわたしにリンゴを3つ、手渡した。

「初物ですよ。皮ごと食べられます。冷蔵庫で新聞紙にくるんで2時間冷やしたら、洗って、横に輪切りにしてください。この切り方、おすすめです。芯の部分以外、全部食べられます。洗うのは冷やした後ですよ。そうしないと、皮から水分を吸って、水っぽくなっちゃうので。」

とても丁寧に、リンゴの美味しい食べ方を教えてくれた。

必ず実践します、ありがとうございます。
わたしはそう言って、お店の入り口でもう一度、深々とお辞儀をした。

・・・・・

リンゴを美味しく食べる方法は、おそらくわたしの仕事の役には立たない。
失ってしまったものや人を、呼び戻す力もない。
それこそ、無用の用だ。

でも、新聞紙にくるんでよく冷やした後に、丁寧に洗って輪切りにしたリンゴは、瑞々しくて美味しかった。
だからどうということはない。どうということはないから、良い。

「なぜ」「知りたい」「分かった自分でいたい」という思いが、今でもしょっちゅう首をもたげる。それらは、知的好奇心とかキラキラしたものではなく、もっと下心とか、理屈とか、硬くて粘度のあるものから生まれたものだという自覚がある。

時折冷たく非情にも感じる日常を、どうにか生き抜くために、わたしは知的で、物事の分別がつく人間でいようとする。

でも、分別すらつかない状態の自分を救ってくれるのは、明日から役立つ実用書よりも、誰かが書いた旅行記と、美味しいリンゴの食べ方かもしれない。
そのことを、わたしは忘れずにいたい。

冷蔵庫の中にはまだあとひとつ、リンゴが残っている。
いろんなことを忘れたくなくて、わたしはまた明日、リンゴを買いに行く。


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