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平熱は、ニヒリズムの真逆

突然だけれど、私の平熱は、だいたい36.2度だ。
これが0.5度上がるだけで、結構苦しくなる。呼吸が浅くなったり、少し動いただけで疲れてしまったり。

なので私は「できるだけ平熱で過ごしたい」という思いのもと、普段からあまり無理をしない生活をしている。
「平熱」という言葉は、自分の人生全体における比喩的なイメージとしても結構しっくりきているので、普段から「熱を上げすぎてオーバーヒートしない」ことを人並み以上に心がけている自負も、割とある。

さてさて、ここで今一度、自分に問いかけたい。
私は、平熱とニヒリズムを履き違えていないだろうか。

・・・・・

ニヒリズム。別名、冷笑主義。
なにかにつけて「まあ、それはそういうものだから、仕方がないよね」と片付ける姿勢のこと。

なんというか、自分がどうにもボルテージを上げられずにいるときに、温度の高い人のことをどうにもうっとおしく感じてしまうことが、ある。わたしももちろん、ある。
そういうときに、ニヒリズムが顔を出す。温度の低い側が高い側に、冷水を浴びせるような感じのものだと思う。

一方、平熱を保つというのは、これとまったく違う。
ニヒリズムが他者を巻き添えにするのに対して、「平熱であること」は自分ひとりで完結する。周りに温度の異なる人がいようと、私は私の36.2度を保つ、ということだ。他に35度台の人がいても、37度台の人が横に居たとしても、基本的に自分の体温までそちらに寄せる必要はない。
日常を生きる限りにおいて、私たちは恒温動物なのだ。

そして、自分の平熱を大切にするからこそ、可能なことがある。本当に必要なときのために、エネルギーを備蓄することができるのだ。

普段は、他者の冷笑や隣の青い芝生に惑わされず、自分の平熱を保つ。けれど「ここぞ!」というタイミングが訪れたときに、ぐぐっと体温を上げる。

このとき初めて、私たちは普段見せない「変温動物の片鱗」をあらわす。

アドレナリンが出てくる。血の巡りが速くなる。なんでもできそうな気がしてくる。体温が1度くらい、一気にあがるかもしれない。苦しい。息が浅い。けれど、この激情に駆られた自分だから、できることがある。

そして、変温動物としての自分は、永遠ではない。ウルトラマンの3分間ルールみたいなものだ。また、平熱に戻るときがやってくる。
いつもの36.2度を取り戻した私は、またなんてことのない日常を送りはじめる。

・・・・・

平熱がいい。高熱にうかされて、苦しくなるのは嫌だ。エネルギーを消耗する。
そう思っていた。今も割と、そう思っている。

けれど人生に数回くらい「高熱になる瞬間のために、平熱がある」と思えるようなタイミングがあっても良いんじゃないかと考えることがある。

もしそれが正しいのならば、平熱は紛れもなく、ニヒリズムの対局にあり、それを蹴っ飛ばしていくような存在なんじゃないだろうか。

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