自分にとって正しい「はやさ」で、

「運転の練習をするなら、ぜったい島だよ」と、上五島の友人たちが言ってたなあ。
道路はほとんど一本道だし、東京のような複雑な分岐も少ない。
これ以上ドライブが簡単な地域は、東京23区には無いと思う。

わたしは気付けば、ペラッペラのペーパードライバーのまま、見事に金色の免許保持者になってしまった。なので島にいる間は、運転の練習を兼ねて、家からパートナーの職場までの道を送迎しているのだ。

速度メーターの示す数字は、一番大きくても時速50キロ。それでも怒る人はいない。なんなら、わたしが車を降りて走ったほうが早いんじゃないか、というスピードで、スクーターを動かしているおじいちゃんもいる。
そう言えば、威嚇の意味合いのクラクションを島で聴いたことも、これまでの滞在で一度もないなあ。

きっと、スピードの早いものが、怖いんだと思う。

けれど、自分が今いる社会は、少なからず「速さ・早さ」に価値を置いている。そのことは一丁前に理解していたつもり。

即レス至上主義はいまだ健在だし。
何かを納品したとき「遅いですね!」と褒められることは無くても、「早いですね!」と褒められることは、きっと多くの人が経験しているはずだし。

特に欲しい物を手に入れたいとき、早いよりも遅いほうが良い、なんて人はあんまりいないんじゃないかなあ。
Amazonでモノを届けてもらうときだって、翌営業日に配達してくれるか確認した経験は、一度や二度じゃない。
ある程度の市民権を得ているもの、それが「速さ・早さ」なんだと思う。

けれど、この若干スピード狂の香りがする概念は、ときに少し乱暴さをはらんでいる気がする。
「明日までに」「◯時間後までに」という枕詞の後には、たいてい具体的なゴールが在るんだ。「△△さんに連絡します」「プレゼン資料を完成させます」といったもの。
速く・早く生活を送るということは、粒度のこまかい、具体的なタスクを団子状態につなげた上を、駆け抜けるようなものなんじゃないかしらん。

脇目もふらず、レーシングカーのようなスピードで常に爆進できる人も、そりゃいるだろうな。わたしも何度も、それにトライしようとした記憶があるし。
でもたいてい、具体性にまみれた道を進む途中で、心や自分の言葉といった、大事なものを道端に落としていた。そんな気がしている。

ところで。具体の反対は、抽象だ。人間関係や価値観といったものは、これに含まれると言えると思う。
そして抽象は、レーシングカーのような速さ・早さとは、あまり相性が良くない気がしてるんだ。

言葉にしづらく、共通意識を持ちづらい「抽象的なもの」は、厳しい時間軸のなかで生み出すには、余りにも無理があるんじゃないかな。

でも抽象は、そうした定量的な枠組みから少しだけはみだしてみると、途端に生き生きとしだすことがあるのも、また事実。
仕事から一時的に離れ、あてどもなく歩いて見つけたカフェに入り、コーヒーを啜る、そのうちに人間関係の悩みが少し軽くなったりするのも、きっとそういうこと。

今となっては、レーシングカーを走らせるばかりが人生じゃないなあ、と思う。

島で運転する車だって、後部ドアの取っ手が全部もげていて、急な坂道ではエンストしてしまうようなオンボロ車。
けれど、たまに乗り回すには、悪くないと思ってる。そのオンボロ具合で車の乗り主に気づいた知人が、運転席から手を振ってくれたりするんだ。
それはきっと、レーシングカーだったら見逃してしまった景色なんだよな。

4月。区切りの季節。
私も、それなりにたくさんの「区切り」を迎えた。

まず、職場が変わった。新しい会社はテキストベースの対話文化があるところで、絶え間なく掛かってくる電話に引っ張りまわされていた自分には、とてもよい環境だったなあ。
自分の思考のペースでやり取りできるって、すばらしいこと。

それに、今のパートナーと付き合って、半年が過ぎた。
数年前の自分は「話し合いが出来るようなパートナーシップがいいわあ」なんて言っていた気がしてる。今となってはパートナーに「理由なんて言葉で説明できないけど無理なもんは無理」とか、一方的に泣いて訴えることだってあるのに。

けれど、パートナーはそれを笑って受け止め、どうするか一緒に考えてくれる。逆に、相手がふとこぼした言葉に、わたしが向き合うこともある。

自分が想像していたパートナーシップは、理性や具体に根ざしたものだったはず。
ただ、ロジカルな説明が仮になくても、まずは受容してくれる、そういう相手の関係性が、こんなにも救いがあるものだとは思っていなかった。

そして、コーチングやライティングを勉強しだした。
正直、学んだことたちをそのまま使って食べていくイメージは、あまり浮かんでない。
それに、1年後の未来すらあやふやな時代だ。3年後、できるようになったことを活かして何をしているのか、まったく想像がつかないままだ。
けれど、「きっとこれらは自分を生かしてくれる」という、不思議な確信がある。

最後に。
家族は、それぞれが、それぞれに大変だ。

ハードワークに忙殺されている父、クレーマー対応で精神的につかれてしまった母、新社会人になった真ん中の妹、就活中の末妹、そして転職したわたし(長姉)。5人一家族というどんぶりに、トピックがてんこ盛り。

それでも各々が具体的なタスクや抽象的な問いと向き合い、何かを考えて行動して、また家族の家に戻ってくる。
血の繋がりとはまた別のところから生まれる、何にも代えがたい安心感がある。
わたしは、それがあれば一旦生きていけるんじゃないかな。

仕事。人間関係。学び。
きっとまたそれぞれの場所で、今からは全く予想がつかないようなことが怒るんだろうな。
それらのなかを猛スピードで駆け抜けるのもいいけど、たまには自分にとって正解な速さ・早さで、進んでみたい。今は、そんなふうに思っている。

二度と見られない景色を見逃さないために。
あやふやで曖昧なことたちと、対話するために。

読んでくださりありがとうございます!いただいたサポートは、わたしの心や言葉を形作るものたちのために、ありがたく使わせていただきます。 スキを押すと、イチオシの喫茶店情報が出てくるかも。