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「私のなかの編集者」を、悲しませない文章を書く。

私は文章を書くのが、本当に遅い。指先に亀の生き霊でも憑いとるんかというくらい、遅い。

昔、ライターのお仕事をさせてもらったこともあるけれど、納期中に記事を完成させることが無理ゲーすぎて、諦めた。

自分の筆が遅い理由はハッキリしている。言葉選びで「妥協」ができないのだ。
こう書くと何だか職人気質で格好良くも聞こえますが、要は頑固なんです。ええ。

何度か、自分の融通がきかない部分をほぐそうとしてみた。例えば、思いつくままに言葉にすると決めて書いたり。日記や、ジャーナリングというやつだ。

けれどいざペンを執ると、目を皿のようにした「編集者の人格」が、私のなかに現れる。
その人格が校閲しているものはほぼ一つ、「言葉が、書き起こしたい感情や情景どおりになっているか」

編集者にとって「伝えたいこと」と「実際に伝わること」の間に齟齬があることは、この上なく耐え難い。多分。

編集者の人格が一度現れてしまったら、それを私のなかから追い払うことは、困難を極める。無視しようとするほど、存在感を増すのだ。
脳内校閲は、外向けに出す文章を書いてるときに限らず、私しか見ない日記やジャーナリングノートを書いているときも、例外なく発動する。

彼女に去ってもらう方法は、二つだけ。文章を書くことを諦めるか、完成させるか、である。

でも、私は知っている。
おなじ「編集者の暇(いとま)」であっても、筆を折ることで彼女が立ち去ることと、仕事をやり遂げた上でお役御免になることには、天と地ほどの差があることを。

・・・・・

私はプロの作家でも何でもない。ときおり、こんなにうんうんと唸りながら一体何をやっているのだろう、と虚無感に苛まれることもある。

けれど、「私のなかの編集者」を悲しませることはあってはならない、という矜持めいたものだけは消えずに残っている。

この編集者は、「心」「言葉」という、柔らかくて繊細な部分を扱う、最後の砦のような存在なのだ。
しかも、分離した人格ではない。執筆者のバックグラウンドも、筆のクセも、ぜーんぶ余すところなく知っている。その上で、ペン入れをする。

書き手の人格にとって、「編集者としての私」は神様のようでもあり、友人のようでもある、と言えるだろう。

その点「書く自分」は、もはや発散できればそれで良い人格では居られなくなってしまった。
編集者の自分を連れてくる。私の脳内のあれこれと、出てきた言葉を照らし合わせる。それで「思いがただしく形を持ったね」と確認する。

こうしてようやく、編集者としての自分も、執筆者としての自分も満たされる。

言葉は記録だ。書いて終わりじゃない。
起こった出来事、生まれた感情、そのなるべく多くを、いつ私が見ても「書いてよかった」と思えるような文章を書きたい。それは我儘なのだろうか。


ああもう、この際エゴでもいいや。
どんな主張が持て囃されようとも、私が悲しむ文章だけは書いちゃならないと思うのだ。

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