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カムバック、夜のひとり時間

結婚してから、以前ほど夜更かしをしなくなって久しい。

元々、わたしは時間などお構いなしに延々と起きていたいタイプだった。だが、早寝早起き派のオットがすうすう気持ちよさそうに寝ているのを見ると(我が家は作業机から見える位置に寝床がある)誘惑されたような気持ちになり、そのまま就寝、ということが増えた。眠気って伝染しませんか。するよね。

お陰でツマは、健康的な時間に寝て起きられるようになってしまった。なってしまった、と書いたのには理由がある。本当は、健康的でない時間、いわば日付をまたぐ頃から深夜の3時位までの時間が、狂おしいほど好きだからだ。

どう考えても翌朝がしんどくなると分かっていて、それでもなお起き続けるとき、自分が無敵なように感じる。単に翌日の時間や元気を前借りしているだけなのだけれど、たとえ刹那的であったとしても「皆が寝静まった中で、自分は元気で起きている」ことには、ほかに代えがたい魅力があるように思えてならないのだ。

・・・・・

この間、わたしは大学時代の友人たちと飲んでいて、たぶんほぼ最終、みたいな電車に飛び乗った。こんなに遅くなるのは、けっこう珍しい。最寄り駅につく時間を把握するくらいの理性を残しつつ、自分と空気の境目がやわやわな状態で、ウットリとつり革を眺める。

ふと「もう少し夜を楽しみたい」という思いが湧き出てきた。夜に湧き出てくる誘惑は、どうしてこうも膨張するのだろうか。ちょうど、最寄り駅の一つ手前に着いたところだった。家の近くに行くには、あまりにも早すぎる気がした。電車から大股で飛び出し、足取り軽く、ぽん、ぽん、ぽん、とホームの階段を降りる。

一駅手前からだと、自宅まで歩いて約30分。なけなしの理性で、家にはちゃんと帰ろうと思った。通り沿いにあるファミマで、キンキンに冷えた600mlのジャスミン茶を買う。

目の覚めるような冷たさを頬にあててみたり、乾いた喉を潤したりしながら歩いているうちに、あっという間に駅前のにぎやかさは遠ざかっていく。目の前に広がるのは住宅街。ときおり自転車に乗った人や、深夜のランニングにいそしむ人が往来するのを眺めながら、わたしは一人で家路をたどる。

ひとりだ、とお酒でかすれた声で、口にしてみる。

ひとり。なんて甘美な響き。ひとりのわたしは、こんなに自分で選べて、自分で楽しめる。家族や友人といるときの自分も、きっと良いものをたくさん持っている。けれど、それらよりもずっと密やかで「わたしのものだ」と匿いたくなるような魅力が、夜の散歩には詰まっていた。

ああ、わたしは、夜が好きだったんじゃなくて、夜にひとりでいるのが好きだったんだなあ。夜風を身体でぴゅうぴゅうと切りながら、そんなことが頭をよぎった。
ひとりの夜は、つらいとか楽しいとかでは言い表せないような、逆にそれくらい懐の深い言葉にしか収まらないようなものたちを、たくさん教えてくれた。ひとりの夜に得られたものを、ほかの時間に穴埋めできるのだろうか。それはかなり無理難題な気がしている。「ひとり」と「夜」という舞台装置が果たす役割が大きすぎる。歩きながら、わたしは嬉しいような、愕然としたような気持ちになった。

家に着いたら、わたしの夜はひとりではなくなる。家に帰らなくたって、明日になれば、わたしは「数人のなかのひとり」として、働いたり暮らしたりする。

誰かが周りにいるということは、喜ばしいことだ。ひとりのつらさに触れたことのある人間として、心からそう感じている。
けれど「今日帰ったら、夜のひとり時間が月に一度ほしい、とオットに言ってみようかな」という思いが浮かんだ。きっと、深夜の12時頃にわたしだけで過ごす時間が、なにか大切なものを手繰り寄せてくれるはずだから。

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