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読み書きする人間としての、決意表明

実は、シーライクスでライティングを本格的に学ぶことに決めました。

一番最初に「ライティングを学ぶ理由」について書くように、というお題をいただいたので、ちょっと加筆修正したものを掲載します。

コロナ禍が、コミュニケーションの在り方を変えた

本格的なコロナ禍突入から、早くも一年が経つ。

三密、感染対策、などという概念はなく、対面での「言葉のやり取り」が当たり前だった頃。場の雰囲気や相手の表情など、手がかりにできる情報が多い会話は、とても容易だった。他愛もない挨拶から、仕事の話題、次回の打ち合わせの設定といったやり取りが、スルスルと滞りなく進む。それは、水が上流から下流へ流れるということくらい、当然であるはずだった。

ところが、言わずもがな、コミュニケーションの在り方は大きく様変わりした。ほとんどの打ち合わせがZOOMで済んでしまい、対面で誰かと話す機会は、月に数回あれば良い程度。口に出して話し、耳を通して聴くという行為が、一気にぎこちなくなる。口頭でのやり取りにおいて「わたし」と「あなた」の間に分厚い壁が生まれたのを、嫌でも自覚させられた。

「文字を書き、読む」ことの不変性

そんな、対話におけるやりづらさを痛切に感じる中で、わたしの支柱になってくれたものが「文字を書き、読むこと」だった。技術の発展によって、コミュニケーションの形が刻々と変わる中においても「書いて世に出せば、少なくともその場に残る」という、テキストベースの対話の在り方はそのまま残った。そうして、ブログサービスや書籍といった文字媒体は、激動の世の中において、粛々とその役目を果たし続けた。

手を動かして書き、目を使って読むという行為そのものは、コロナ禍を経ても何も変わらなかったのだ。その「変わらなさ」こそが、自分を対話におけるぎこちなさから救い出してくれた。文字を使って何らかの情報を伝えていくことは、これからも続いていくはずだし、何より自分も、その担い手でありたいと思う。

教養と責任感のある、書き手でありたい

昨今、特に多くの人が目にするインターネットの海において、文字情報の持つ意味がますます大きくなっている。そんな今、言葉を書き残すという行為には、確かな情報に裏打ちされた教養と、生半可な気持ちで言葉を放流しようとしない、ソリッドな責任感が必要なんじゃないだろうか。わたしがこれから書こうとしているのは、誰にも見せない秘密の日記帳ではない。責任ある個人、もしくは団体の一員として、大きな広場で声高に発する決意表明のようなものだ。

言葉を書き、読んで生きていく個人として、わたしは教養と責任感のある書き手でありたい。そう思い、意を決してライティングを学ぶことに決めた。

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