2018年12月21日(金曜日) 日記21日目

 「日記」を書く人に憧れる。その人にとっては何気ない日常が文章にすることで違った世界になるのが面白い。誰にも意識されなかった世界が、文章によってクローズアップされて、もうそれだけが大事なものとしか見えなくなってしまう。
 常に議論を重ねて討論を重ねる人たちであるなら、それを視野狭窄だと思うかもしれない。しかし日記は書き手がどう見て、どう思ったのかだけがそこに残される。誰かに責められることも、批判されることもない。日記を覗き見るものが悪趣味なだけです。
 日記と言えば「アンネの日記」が有名なのでしょうか。お恥ずかしい話で読んだことはありませんが、彼女は自ら書き残した日記を清書していたそうです。Wikipediaに書いてありました。Wikipediaの情報はとても便利ですね。アンネの日記 - wikipedia
 別にアンネの日記の内容の話をしたいのではなく、そもそも日記というものが手を加えれば作品として昇華できる形態である。アンネの清書とその父の編集によって世界中に読まれることとなった「日記」は、その素材となる日記がなければ形にはならなかった。
 誰かにとっては退屈でしかない日常だとしても、書き残されると何かしらの意味を読み取ろうとしてしまうのは人間の想像力があるからでしょうか。そのように誰かが意味を読み取ろうとした結果作品になっていくのが、日記という形態なのだと思います。そして私はそのような何気ない日常を読み突然に感情を揺さぶられてしまうのです。
 しかしインターネット発達社会、誰でも自由に日常を書けるようになったわけですが、その中でも私が目にする日記というのは、やはり誰かに読まれるように意識して書かれているものが多いです。
 日記としての形を保ちつつ、個人情報を特定されないように書かれる「日記」ですから、既に客観的な目線が入っていることは否めません。しかし、それでもその個人情報が特定されないように書かれた「日記」は、どれも日常としては同じような日々のはずなのにそれぞれの目線や立場、筆の運びによって感じ方に違いが出てくるのです。
 日常であるという事が担保されているがゆえに初めから作品として書かれている「日記」もあります。銀河系から遠く離れた宇宙で書かれたある宇宙旅行者の「日記」や、大昔に書かれていた史実からはじき出されたものたちの「日記」などなど……。
 そのフェイクに染まった「日記」たちは、リアリティという部分を信じる者たちにとっては、粗を探す要因にはなってしまうのですが、私のような文章を読んで感情を揺さぶられているものにしてみれば、文章で書かれたものが全てとしか言いようがない。
 こちら側の目線ではなく、文章の奥からやってくる存在しない書き手の目線が作品になっているのです。だから別に今読んでいる「日記」が本当だろうか嘘だろうかは関係なく、そこには生活が存在して書き手の意識が見えるように工夫がされていればいい。
 説得力というか、描写力というか、世の中にはびこる「日記」の中で多くの人に読まれるものが存在するのは、そのような物事に対する客観的な描写と書き手の主観がきちんと含まているからなのかもしれない。
 日記と「日記」について考えをめぐらすのも面白いですが、一つ言えるのは人の日記を読むのはやっぱり悪趣味だという事です。そしてそれを理解したうえで日記を有料で販売する私も悪趣味だという事です。

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