精神安定剤を飲みながら 20

俺は地図の南側の端に行くための道を歩いていた。地図の街というのは、透明であるという事を除けば、それが一番難しいことではあるのだけれど、ごく普通の街であろうとしていることは変わりないのかもしれない。先ほどとは違う考え方を、この地図の街に対してするようになっていた。
そう思ったのは、そこに生きている人々の生き方に対する姿勢が、他の街に生きるそれらと変わりがないように見えたからだった。それは透明であればあるほど、否応なしに目に入り込んでくるのだ。仕事場や観光施設、そして自宅でも、他人の人生がすぐ隣にあることを意識させられる。
もしかしたら、そうやって生きていく他人の人生の現実を見せられることによって、自らも生きていくという諦観に近い、しかしそれは本能にも近い衝動を与えられているのかもしれない。
逆に考えれば、この街を出て行った人たちは、自らの人生をどのようにして得ているのだろうか。こうしてあんたと話をしている今でさえ、この居酒屋に居る以外の人の人生は分からない。誰が何をしているのか、そして誰が生きていて、誰が死んでいくのか。自分の人生を、自分で生きるというのは、どういう事なんだろうな。
そう考えながら、しばらく歩いていると、いつの間にか線路を横切るところまで歩いていた。今日は絶対電車が通らないとは言え、踏切の無い線路を越えるのは緊張するものがあった。踏切と遮断機があることによって、通れる時と通れない時のルール作られているわけで、今そのルールが無いというのはやはり無秩序の中を歩くようで、恐ろしいものがある。もしかしたら実はあの駅員が嘘をついていて、電車が来るかもしれない。俺は何度も左右を確認しながら速足で駆け抜けていったよ。
そういう細やかな不安を紛らわせてくれるようなものさえ、この地図の街は自らの理不尽さで消してしまう。まあ、そう考えれば俺たちがいる日常だって、そう変わらないのかもしれないな。
さっきから話が全然進んでいないな。俺はそういう一つの経験に対して、俺の考えを話してしまう癖みたいなものがあるんだ。話が長くなってすまないな。もう話を飛ばしても別にいいか。南側まで歩くというだけの事なんだから特に話すこともないしな。
地図の街の南側は街の中心から離れているから、道もそして民家を示すような枠も少なくなっていった。しかし、山道を歩いているとか谷を歩いているという感覚は無かった。地図の街はとにかく平らだから、高低差も無いんだな。いや、もしかしたら等高線もあったのかもしれないな。それでも道は続いていたから、とにかく地図の南側の端まで歩いて行ったんだ。
地図の街にはどうして車が無いのかとも思ったよ、結局、南側の端まで歩くためにまた一日が終わろうとしていたんだからな。

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