精神安定剤を飲みながら 13

地図の街で目が覚めた時、俺は何処かの公園か道端で野宿しているんじゃないかと思った。目の前は夜明け前の暗い空で、首を少し動かせば街の端は薄く青白い空になりつつあった。でも、確かに俺は布団に包まれていて野外特有の寒さは感じることがなかったし、近くには同じように寝息を立てているこの家の老人が同じように横たわっていた。
確かにここは家の中で透明だから壁は見えないけれど、家としての要素というのはあるみたいだ。地図の街の事を考えると、どういう仕組みで動いているのか、今でも分からなくなる時があるが、こうやって話していけば分かっていくのかもしれない。
家の中から見る日の出というのは、普段家の窓から見る日の出とは違って不思議な感じだった。キャンピングでみるような開放的な感じとも違う。そもそもキャンピングはわざわざ外に行って自然と触れ合うために行くようなものだからな。自然の中の日の出というのは、その中の一つのイベントでしかない。何というか、当たり前のことを当たり前に体験している感じがするんだ。
地図の街の中とは言え、俺は家の中にいる。家の中に居れば分かると思うが、時間を忘れて作業していると、気が付けば夜、気が付けば朝、なんてことはよくあることだと思う。そういう時、俺たちはいつだって窓やドアから、その状況を把握していたんだな。
窓やドアというのは太陽や風や人を通すかわりに、人の視線や声を遮ったりするような、そんな単純なものだと思っていたんだが、こうして壁や窓やドアもない透明な家の中から朝を迎えて気づいたことがある。
自然、いや一日、というのは本当に強制的にやって来るものなんだな。前日に何があっても、眠っていても眠っていなくても、時間が来れば新しい朝がやってきてしまうということが、この世界の自然なんだ。家の中に居てもそれは例外じゃない、自然からは人間は逃げられないという事なのだろうか。
それは別に時計があるからとか、守るべき約束があるからとかじゃなく、単に太陽が出るから、仕方なく一日が始まったということでしかないんだな。一日が始まれば、人はそれぞれにやることがあって、そして、その為に日が落ちるまでし続けるんだろう。
なんというか陳腐な話で、海外旅行で人生観が変わったという人間みたいな、鼻で笑われるようなしょうもない話だとは思うんだが、人が生きているということは自然の中に入っているということなんだ。
今までは自分で決められることっていうのは今まで受けていた経験や資産やいろいろな制約から選んでいくものだと思ったんだが、しかし実際はその自然に存在する時間から、自分のできることを一つずつ選んで進めていくんだなと、透明な家の中から見る朝日を見ながらなんとなくだけど思ったんだよ。
そして、それを本当に痛感するような出来事が、この日に起きるんだ。いいか、大事なのは人間は時間の中で決められたことをしなければならない。どんなことを選んでもいいし、それは自分にとって何かしらの物にはなるだろう、しかしそれよりも自然が生み出す時間は元には戻らないということだ。


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