精神安定剤を飲みながら 12

その老人はもう何年もこの地図の街に住んでいるという男だった。この街の外れまで来る人間は珍しいと言っていたが、物や人で溢れかえっていた街の中心以外は真っ白な平面だったし、夜になっていくとはいえ目を凝らせば遠くには街の中心にあるいくつもの光が見えているんだから、ここも街の中心の様な気がしないでもなかった。しかし、長年住んでいれば、そのような気持ちにもなるのかもしれないな。
老人の家は出会ってから歩いて十数分ぐらいだっただろうか。老人の家に着くまで、老人が何をしていたのかを聞いた。どうやら老人の家の近くに畑があって、先ほどまでそこで畑いじりをしていたらしい。そういうものは朝方から行うものだろうと思っていたが、老人は家庭菜園の様なものだから気になったときにちょくちょく畑を見に行っているのさ、と言っていた。
老人の家というのは、古い田舎で見られる広い室内に囲炉裏があるような古民家だったのだろう。だったのだろうとしか言えないのは、もちろん、老人の家も透明だったからだ。だから古民家の内装だけがはっきりと見えていた。
その近くには寝室があって、それは布団が近くに畳まれていたからすぐに分かった。風呂もあることにはあったし、トイレもあったんだが、それは何故かこちらからでは見えないようになっていた。家に入ってから、老人にトイレの場所を尋ねたら、老人が指で示した方にポツンとそれが置かれていた。恥ずかしいと思って使っていたが、老人は用を足している俺には何の興味も示さなかったよ。
あれも地図の街の特有の不思議さなんだが、トイレや風呂といった個人的なものに関しては上手く見えないようになっているんだな。なんとも都合がいいというか、それとも意識させないような訓練をしているのか、それともやっぱりそういう高度な技術力によって、人から見えないように隠されているのか分からないが、その現象は翌日も起きていた。
そういう下の話もあんたには興味をそそる話の一つだとは思うんだが、俺は今そういう話はしたくない。あの地図の街は、そんな部分で興味を引かれるような所じゃないんだ。それよりももっと不思議な街なんだ。
飯と風呂をごちそうになった後、老人にこの街はどういう街なのかを聞いた。なぜ地図の様な平面の街であり、全ての建物が透明になっているのか。住んでいる人たちは、何故それが気にならないのか。
帰って来た答えはとても単純だった。「昔からそうだったからだ」
では、どうやって人々は自分の生活を営んでいるのか。そもそも、老人はどうしてここに住んでいるのか、あの黒い線は一体何なのか。いろいろ聞いてみたんだが、それも「昔からそういうものだった」としか答えてくれなかった。
結局、地図の街の由来については何も分からなかった俺は、老人に一泊の感謝の言葉を伝えてから、近くにあった布団にもぐって眠ることにした。

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