精神安定剤を飲みながら 17

地図の街が一夜にして変化し、駅から電車に乗っては帰れなくなってしまったという継ぎの男の話を聞きながら、私はフライドポテトを箸で一本ずつ掴みながら食べていた。フライドポテトをゆっくりと食べるならこの方法で食べた方がいい。手を油でべたべたにすることもない。
地図の街の話はようやく大きな動きを見せて、継ぎの男が何をそこまで困り果てていたのか、そしてどう困惑していたのかについて、ごく僅かであるが知ることが出来た。いや、案外、困っていた理由の全てが、単にそれだけなのかもしれないが、継ぎの男の気持ちなど詳しく聞いても分かるはずはない。
フライドポテトについて考える。フライドポテトの大きさには決まりが無い。店ごとにカットの方法や油の揚げ方、塩の振り方、ケチャップの有無など、決まりはあるのかもしれないが、それはそれぞれの店によって決めたことである。食べる人が自由に決められる部分は少ない。加工方法が少なければ少ないほど、選択肢は少なくなる。
しかし、ジャガイモを油で揚げるということだけは、フライドポテトの純粋な部分であり、それをジャガイモという素材や油揚げという調理方法にまで選択肢に含めてしまうと、もはやフライドポテトではなく別の料理になってしまう。
ということは、どのような形であれ、どのような揚げ方、味付けであれ、それらはフライドポテトを構成している部分ではないということも言えるのではないか。ジャガイモを油で揚げる、以外の部分は実は個々人にとっては些細な話なのだ。そしてこれを読んでいる貴方にとってもどうでもいい話だろうと思って書いている。
居酒屋で出されたフライドポテトは、世界中で有名なハンバーガー店で出されているような四角い断面をした細長いものだった。継ぎの男の話を聞きながら箸で適当に次に食べるポテトを適当に探っていた。時折、私が思った以上に長いフライドポテトを掴んでしまい、そのフライドポテトの重心とは違う所で持ち上げてしまった為に、箸から落としてしまうという事もあった。
こうして文章を書きながら、あの時何を考えていたのか、今振り返ってみると、その山盛りのフライドポテトは継ぎの男が話している地図の街の道のようなものなのか、という事だったろう。
地図の街は、その街の道が定期的に決められてしまう。そしてそれは地図の街に住んでいる人たちには、地図がやって来るまで分からない。今、私がしているような箸でフライドポテトを掴んでは口の中に入れたり、或いはうっかり落としたりすることによって、生まれるそのフライドポテトの山の形状が、そのままこれからの街の形になってしまう。
地図の街が地図の街として純粋を保つためには、地図の街は道を純粋さとして絶対的なものとして置き、道自体が常に新しく生まれ続けなければならないと地図の街が考えているのであれば、そこに居る人々や、生き方、物は単に個々人が抱えている些細な話でしかなく、そして継ぎの男はその些細な話の一部になったものの話として続いていくのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?