見出し画像

私は泣いたことがない

飾りじゃないのよ涙は〜ハッハー♪と続けられる人とはいいお友達になれそうです。

冗談はさておき、子供のころ、少なくとも小学校6年生くらいになるまで、私は「何かに感動して泣く」ということがほとんどなかった。泣くことは当然あったが、それは「転んで膝を擦りむいて痛い」や「鉄棒が自分だけできなくて恥ずかしくて悔しい」というフィジカル寄りなものばかりだった。あとは単純に親に怒られて泣くとか。その母は「フランダースの犬を読むと絶対泣いちゃう」と言っていた。私は「村の人が冷たすぎる」といつも思っていた。

1番キョトンとしたのは、小学校高学年のころに友達が「絶対泣けるから!」と貸してくれた、今でいう“ラノベ”だった。イケメンの主人公が余命わずかで、彼に恋するヒロインがその秘密を知って彼が心を開き、でも最後は…みたいな流れの話し。友達曰く、イケメンが「俺の分まで生きてほしい…」とか言いながら手持ち花火の火を移してくれる場面が「めちゃくちゃ感動する!」とのことだったが、既に親の本棚から内田康夫ミステリーを抜き取って読んでいた私には、残念ながらクサすぎた。「ごめん泣けなかった」と言って返却したら、変人扱いされた。

あとは『火垂るの墓』や、道徳の時間に学校で見た「米軍の飛行機が民家に墜落し母子が亡くなってしまった」というビデオ。周りには「かわいそう」と言って泣きじゃくっている子もいたのに、理不尽さや怒りは覚えても涙が出てこなかった。私は本当に何か変なのかもしれないと真面目に思っていた。

人のエピソードや映画で泣くようになったのは、ごく最近のことのような気がする。最近といってもここ10年くらいか。大学生のころ流行っていたセカチューとか黄泉がえりは全然泣けなかったから、やはり社会人になってからのことだと思う。

単純に、それまで私はいわゆる「苦労知らずのお嬢さん」だったのだと思う。大きな挫折を味わったことはなく、病魔に襲われたこともなく、家族は健康で、人の恩を知らず、感謝することもなく、なんとなく生きていれば、あるいは少し小手先の努力すれば、望むものが大概手に入る・与えられると小さな温室の中で無意識に思い込んでいた。それはそれでまぁ幸せなことだと思うが、当時の自分のままでいたいか?と問われれば全くそんなことはない。少なくとも大学卒業したてのころの私より、今の自分の方が好きだ。

今は友だちの子供同士が遊んでる様子を見ただけで、その光景の尊さに勝手に涙している。『魔女の宅急便』など観ようものなら、パパがキキを抱き上げ「いつの間にこんなに大きくなって…!」と言う序盤のシーンで号泣している。昨年行ったディズニーランドでは『イッツアスモールワールド』のクライマックスでその歌詞の深さに泣き、『ソアリン』で地球生命の美しさ・人類の営みの壮大さに胸打たれて泣いた。最近は富士山がきれいに見えるだけでも泣く。一体どのライフイベントが私の涙腺をこじ開けたのか分からないが、世のおばあちゃん達が「年取ると涙もろくってねぇ」と口を揃えて言うことを思えば、これも多分大人の階段の一環なのだろうと思う。

お読みいただきありがとうございました。今日が良い日でありますように。