人は人で磨かれる
もうほんと至言だと思う。これはクドカンのお父さんがよく仰っていたらしい。ファミリーヒストリーで見た。
私はよくエゴサならぬ「推しサ」をする。推しの名前でTwitter検索かけるんですね。そうすると推しの独演会等に行った方々の感想が読めるので。嬉しいやつにはイイね推したり、じゃなく押したりする。
でもそうすると気になる投稿も目に入る。推しについてじゃなくても、前座さんやほかの噺家さんを「うまくない」とか「◯◯の方がいい」とか書いてるもの。今時ジェンダー的にどうかと我ながら思うが、でもそういう投稿をしてるのは大体おじさんである。なぜか多くのアカウントがアイコンで顔出ししてるだけフェアと言うべきか…
最近、元AKBの女性が経営するラーメン屋さんを出禁になった評論家のおじさんがいた。多くの人はあまりに純粋ないわゆる「おじさん構文」に眩暈がして、最後まで読み通せなかったという例のブログ。私も読めなかったが、文末の(キッパリ)という言葉だけは妙に印象的だった。
この際“おじさん”という枠を外して考えたいが、そういう「一家言ある」というか「ひとこと言わねば収まらない」みたいなコミュニケーションて、本来誰がやっても嫌われるし疎まれるスタイルではなかろうか。なぜなら対象へのリスペクトがないから。いわゆる「余計なお世話」でありもっと短く言うと「何様」。罪作りなマンガ『美味しんぼ』はあくまでフィクションの世界である。書を捨てよ、街に出よう。
舞台ひとつ、高座ひとつ、ラーメン1杯、いずれにしてもクリエートする側は見えないところでものすごく努力している。そこに同業者でもない人間が一言申そうなんて、本来思い上がりもいいところである。100歩譲って言っていいとすれば「好きじゃなかった」だけであり、であれば離れていく(リピートしない・お金を落とさない)だけのことだ。生活全般を面倒見るパトロンでもないただのお客が、それ以上の存在であるはずがない。何においても、何かを創り出した人の方が批評家より偉いに決まっている。
冒頭の言葉に話を戻す。つまり、「そういうコミュニケーションスタイルは嫌われる」と分からない人は、平時の人との交わりが足りない可能性が高い。簡単に言えば「友達いますか?」ということである。どんな人間関係だって、トライ&エラー→謝罪&誠意の繰り返しである。うちの父もそうだが、謝れない大人は多い。見てると、一回ちゃんと謝っちゃえばめちゃくちゃ楽になるのにと思う。そういえばうちの父にも友達がいない。
批判グセのある人は今からでもやめたほうがいい。なぜなら全部自分に返ってくるから。きっと先々なにか新しいことに挑戦しようとする時、これまで自分が吐いてきた言葉に復讐される。ハードルが高く見え、怖気付くことになる。他人からのフィードバックを恐れ、成長できなくなる。
だから、ケチをつけたくなったら、頑張っていいところを見つけてほしい。褒めることは自分の負けを認めることでは全くない。褒めた分だけ徳を積むと思って練習してほしい。褒めるボキャブラリーがなければ、まずは「ありがとう」「ごちそうさま」あたりから始めて、少し上からだが「ナイストライ」とか思えるようになれば大きな変化だ。半年後、あなたの周りには新しい人間関係が築かれているはずである。
お読みいただきありがとうございました。今日が良い日でありますように。