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父との記憶

今からちょうど一年前
2022年4月21日に父は他界しました。

一般的には親が亡くなることに対して
大きく感情が揺れ動き、しばらく気持ちが沈むものだと思ってましたが、
我が家は純粋に悲しむには多くのことがありすぎて
長い重荷がやっと解放されたかのような安堵感が大きかったです。
願わくば純粋に悲しみ故人を想いたかったですが、
それができない自分が非情だとどこかで罪悪感を秘めています。


とはいえ、これまで私の人生の中で感じる
言葉にし難い生きづらさは親からの影響を占める割合は大きく、

我が家は再婚家庭、姉と兄は母の連れ子、父にも子どもがいる(らしい)、年の差婚(12歳)、宗教への盲信、借金、自己破産、父の癌、虚言癖、また借金、実家への仕送り、父の介護‥

挙げたらキリがなく、愚痴を漏らそうものなら
一晩中かかってもエピソードを語れ、
姉や兄のエピソードも追加すれば一冊の本が完成してしまいます。

今日この記事を残したのは
ふと過去の日記を見返した時に出てきた
父と私が子どもの頃の記憶でした。

ちょうど10年前に書いたもので、
今ではすっかり忘れていた
小さな頃の私と「偉大な父」とのたわいもないエピソードがリアルに残っていたのです。

それが、過去の自分の文章ながらもとても胸をついて、
不器用な父でも愛溢れる幸せな瞬間があったということを思い出しました。

いつもは自分の中だけで完結させがちですが、
この一周忌の節目に誰かの目に留めてもらいたいと感じ、思い切って公開することにしました。

以下、2013年の日記をそのまま手を加えず転記します。

一周忌は正直何もしてませんでしたが‥.
死を想うことで故人に捧げたいと思います。


私の居場所


あの頃は父のいる”隙間”が私の居場所だった。



毎晩 私は転がってゲームボーイをしながら、その時間を待っている。
父は遅めの夕食を終え、一杯ですっかり赤くなった身体を横にしてテレビを見る。

ひじを支えに片手で頭を乗せ、貧乏揺すり。それがいつものスタイル。

お茶を沸かすやかんの音と食器がカチャカチャと音を立て本日の労を労う。
私の目の前には分厚くて広い背中と太い腕。
頭を乗せている手はどんなものでも掴んでしまいそうで、
その頭と腕の中に私は入り込みたい。

その隙間に入ったら私は世界で一番安心な場所を手に入るに違いない。

その場所で明日を過ごせるなら、きっと明日の足取りは軽いだろう。


しかし現実は、私の頭が大きすぎてその思惑は叶わなかった。



父は不機嫌そうに私の名前を呼んで、”頭突き”を撥ね除けたらまたテレビに意識はいく。

遠くで知らない芸人が、不自然に私を笑い飛ばす。

今度は横になる父の上側の腕を持ち上げて、私の首の上にくぐらす作戦だ。

ちょっと苦しいけど、さっきの隙間の代わりとしてはまぁまぁの居心地かもしれない。



しかし、またもや父はその腕をよけ、横になるのをやめて座り直してしまうもんだから、私の居場所はあっけなくなくなってしまったのだ。

煎れたてのお茶が湯気をあげてため息が零れる。
テーブルの上に3つ、お茶が貧乏揺すりに合わせてクスクス笑う。

しかしそんなものでは諦めきれなくて。

父の寄りかかっているソファとその隙間、その隙間こそが私の入り込めると居場所だと確信した。

私はさっきよりはちょっと暗がりなその”洞窟”の中へ手を滑り込ませてみるが、やっぱり頭がつっかえてしまった。

父は鬱陶しそうに私に一瞥して寄りかかっていた背中を起こすが、

私がその僅かな開閉のお陰で見事洞窟に突入することができたのだ。

思わず笑みが零れる。息切れだ。
父も諦めて背中は戻さず、そのままテレビに向き直す。



私の居場所が完成した。

僅かに伝わる振動が一定のリズムで刻まれて、それが心臓のように一体化する。
洞窟から眺める父の背中は高く、大きくそびえ立っていた。
私の居場所は世界で一番偉大であった。
このまま一生ここで過ごせたなら。

そう思った矢先、その秩序はあっけなく乱された。

突然大きな爆発音と共に、激しい臭いが洞窟を襲ったのだ。

私は即座にその洞窟から逃げ出して、母の隣へと避難した。



母がくさい、くさい、と言いながら新聞をパタパタと扇ぐ。

父もくさいと言って、その爆発現場から立ち去って行った。



忽然と消え去った私の居場所は余韻だけを残して、忘れていたゲームボーイがぽつんと残されていた。
バタンとトイレの扉の閉まる音を聞いて、早く臭いが去ることを思いながら、

そのままにしてたセーブデータを確認しながら、
また父が戦場から戻ってくるのを待ち遠しく思いながら、私の小さな居場所を想像している。



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