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川上弘美さんの話

以前noteに書いた「乾くるみさんと道尾秀介さんの話」に次いで(?)作家さんの話第二弾。

1月16日にnoteでこんなつぶやきをしました。

私にとって数少ない「作家買いしてしまう作家」かつ「推理小説家ではない小説家」である川上弘美さん、最初の出会いはなんだったかしら……と考えたら、一時期自宅に届いていた○RBISの会報誌にあったエッセイではないかという気がしてきた。

川上弘美さんの小説やエッセイが好きです。本屋で本を見たとき「もうこの人が書いたのなら買っちゃおうかなっっ」と手に取りたくなる小説家のツートップはアガサ・クリスティと川上弘美さんです。
アガサ・クリスティと川上弘美さん以外にも「この人の作品好きかも」という小説家がいないわけではないですが、あらすじを吟味するのもそこそこに「買っちゃおう!」という気持ちになるのは、今のところアガサ・クリスティと川上弘美さんぐらいでしょう(といいつつ、どちらの作品も世に出回っている分すべて購入しているわけではないのですが)。

子どもの頃から《パスワードシリーズ》や《名探偵夢水清志郎事件ノート》に慣れ親しんだ結果、推理小説に興味を持ち、アガサ・クリスティに手を出すのは、なんとなく自分でもわかります。通っていた小学校の図書室、偕成社文庫のクリスティが充実してましたし。
けれど、推理小説家ではない川上弘美さんにずぶずぶハマり始めたきっかけは何だろう……と考えると、先日のつぶやきにもあった「○RBISの会報誌にあったエッセイ」がきっかけだったと思います。私の記憶が確かなら、会報誌のエッセイを見て「あ、この人の文章、好きかも」というところからスタートして、どんどんその世界観にハマっていったのでしょう。多分。

ただ、改めてじっくり記憶を遡ってみると「川上弘美さんが書いた文章」に出会った本当に本当の最初は「○RBISの会報誌にあったエッセイ」ではありませんでした。

「川上弘美さんが書いた文章」に出会った最初の最初は、高校時代。現代文の勉強中でした。

もはや「高校時代」と呼ばれる時代が遥か彼方(なにせ、乾さんや道尾さんの作品と出会った「就活生時代」すら昔なので)ではありますが。その遥か彼方にある朧げな記憶をたどると、現代文の教科書だか参考書だか問題集だかで、川上弘美さんの「境目」と「婆」が出題されておりました。そのふたつが川上弘美さんが書いた文章との最初の出会いだったと思います。
同じような方がたくさんいる思いますが、私は「国語の教科書が配布されると、すぐに読破する」タイプの生徒ではありました。けれど当時の私にとって、教科書に掲載された小説や随筆やあくまで「現代文の勉強のために読む文章」であり「娯楽のために読む文章」とは完全に切り離されたものでした。そのため、教科書(もしくは参考書、もしくは問題集)で川上弘美さんの文章を見ても、私にとっては現代文の教材以上でも以下でもなく、それきりになってしまいました。

それが大人になって(○RBISの会報がきっかけで)川上弘美さんにハマり。『あるようなないような』の文庫本を購入して「境目」の「わたしはあなたではなく、あなたは彼ではない」の一文を読んだとき。もしくは『物語が、始まる』を購入して、収録されている「婆」に出てくる「鰺夫」という名前を見たとき。「あっ、これ、高校時代に現代文勉強してるときに見た!!!」と、高校時代の記憶が蘇ったのです。

私の中で完全に別物として扱われていた「現代文の勉強のために読む文章」と「娯楽のために読む文章」を初めて一致させた小説家。それが川上弘美さんでした。

『あるようなないような』と『物語が、始まる』のどちらを先に読んだのかはもう覚えていません。ただ、大人になってから川上弘美さんの文章を読み、その文章を以前、現代文の教材で読んだことを思い出したとき「現代文の小説・随筆で使われている文章って、別に現代文の教材として使うために書かれたものじゃなかったんだ……」と(今考えてみれば当たり前の事実に)驚愕し、なんだか感動したことは今も覚えています。

今の私はもう現代文の教科書や参考書に使われる文章に「教材」以外の本来の目的があることをちゃんと知っています。そもそも、受験生でもなんでもない身なので、この先「教材」として小説や随筆を読むことは多分ありません。そう思うと生まれて初めて「『教材』として出会った文章と、大人になってから『娯楽』として再会した」ときに感じた、あの驚きと感動を味わうことは、ほぼないでしょう。

あのときの驚きと感動を味わわせてくれた川上弘美さんは、私にとってやっぱり特別な小説家なんだと思います。

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