2024/04/23

そのままカネゴンは、ついつい「三体3 死神永生」をポチって最後まで一気読みしてしまいましたとさ【マーケに負けたおれカネゴン】

読後の衝撃が破れ鐘のようにカネゴンの中でぐわんぐわんと鳴り響いて止まりません【最後はカウベルおれカネゴン】

この衝撃は、カネゴンが幼虫(幼稚園)のときにマンションのお隣さんちに入り浸って本棚にあった手塚治虫「火の鳥」1〜3巻を読んでしまったときの衝撃に匹敵します【あたりを困らすおれカネゴン】

ついでながら、死神永生上巻の真ん中あたりでカネゴンつい泣いてしまいました

これまたついでながら、死神永生下巻冒頭の創作おとぎ話を見たとき、浦沢直樹「モンスター」のような思わせぶりなおとぎ話が混入したのかとつい身構えてしまいましたが、まったくもって無用な心配でした

これまたついでながら、Kindle版「三体」全話を通して誤植は今のところ5つでした【ネチネチ探すおれカネゴン】

というわけで、三体と関係ありそうで関係なさそうでやっぱり関係ないことを書いてしまいます【ネタバレ安心おれカネゴン】


三体三部作は、主にアシモフ「ファウンデーション」シリーズになぞらえているらしいというお話をそこかしこで目にし、その「ファウンデーション」シリーズはギボン「ローマ帝国衰亡史」になぞらえているんだそうです【どちらも読まぬおれカネゴン】

しかしカネゴンにしてみれば、むしろ三体三部作は、結果的にあの無敗のラスボスである「旧約聖書」に知らないうちにデスマッチを挑み、そうと知らぬまま血で血を洗う死闘を繰り広げた結果、ほぼ史上初めて旧約聖書に鮮やかな関節技を極めてマットに深々と沈めた偉大な著作としてカネゴンの中に黒光りする特大のモノリスを打ち立てました【リングサイドにおれカネゴン】

モノリスの青写真を描くにとどまった色川武大も、今頃草葉の陰で嫉妬に身を焦がしていることでございましょう

私も、以前から、こういう形の歴史小説を書いてみたいと思っていたのです。力不足でまだ手がつかないんですが、まず、天災だとか疫病の流行があって、人口が減ってしまう。すると、産めよ増やせよ、というスローガンで、人間が生産される。そのうちに、人口が増えすぎて、間引きが奨励される。ところが、また天災だとか戦争だとかがあって、産めよ増やせよ、という逆のスローガン。
増えすぎると間引き、減りすぎると増産、この反復が性懲りもなく、というより必然的に長く続いている、これも歴史というもののひとつの現わし方だと思うのですが、ただ、そのアイディアだけでは、なんにもなりません。
作品として完成させるためには、一言ですむアイディアでなく、本来の歴史が持っている恐ろしいほどの長い反復性を延々と記述しなければ、歴史の存在の重みが出てきません。旧約を読むたびに、溜息が出るほど感心するのは、その記述の内容もさることながら、呆れかえるほど続くその反復性なんです。

色川武大. 私の旧約聖書 (中公文庫) . Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.

現段階で「三体」に唯一不足しているものがあるとすれば、このあきれるほどの「反復性」であり、旧約聖書が今後リターンマッチで逆転するときのためにパンツの中に大量に隠し持っている必殺技のひとつでもあるのですが、そのあたりはほっといてもクトゥルー神話のごとく他の人がざくざく同人創作して公式に追加されたりするので何とかなるでしょう


「三体」全体を貫く大きな特徴かつ勝因は、西の方で相も変わらずぶいぶい言わせている「神」という概念にこれっぽっちも毒されていないことです

それが中国文化圏の底力なのか著者の力量なのか単に機が熟したのかはカネゴンにはわかりませんが、きっとどれも正しいのでしょう

西の方の「神」という概念の人類に対するコンタミ能力は危険なまでに強くしぶとく、「神」という概念に逆らったりぶっつぶそうとしたり乗り越えようとしても、ことごとく絡め取られて単なるアンチもしくは愛情の裏返しもしくはせいぜい悪あがきの文化大革命・大躍進政策で終わってしまいます【死屍とルンルンおれカネゴン】

旧約聖書を三次元空間のベクトルとしたとき、それと無関係なベクトルはいくらでも三次元空間で取れるにもかかわらず、チャレンジャーたちはことごとく旧約聖書と同じまたは向きのみ異なるベクトルに誘い込まれてしまい、基底ベクトルに変じた旧約聖書によって3つの次元を1つずつ念入りにつぶされ、行列式を封じられて他のベクトルへ変換不可能になってしまいます

あの「火の鳥」や「幼年期の終わり」、果てはニーチェですら旧約聖書のコンタミから逃れられていないことを思えば手ごわさがわかるというもの、真っ向からがっぷり四つに組むのは何としても避けるべきです【セコンド気取りのおれカネゴン】

西の方の「神」という概念の最も厄介なコンタミは、「神は何かとても深遠なことを考えているに違いなく、それは人間には想像もつかない」という思い込みと恐れを百発百中で人間に埋め込むことなのですが、「三体」は明らかにそうした思い込みから自由です

科学とテクノロジーが極端に進歩した三体人であろうと、それを軽々と上回る名も無い無数の別星系人たちであろうと、そんな深いことなどこれっぽっちも考えておらず、そして彼らといえども物理法則・自然の法則には決して勝てません

何しろ自然の最もシンプルかつ冷酷な法則である「どんなことにも終りがある」という法則ひとつ、三体人たちは覆せないのですから

神っぽいしぐさかと思えたものは、実はことごとくコミュニケーションエラーかプロトコルの不一致に過ぎませんでした


「三体」に登場するおびただしいキャラクターたちは泣いたり笑ったり怒ったり凄んだり落ち込んだり命を狙ったり狙われたり自ら命を絶ったり壮大にやらかしたり愛が成就したりしなかったり反乱したり漂流したり一瞬で気化蒸発したり120Gで押しつぶされたり脳ひとつで宇宙にぶっとばされたり日本刀を振り回して粛清したり四次元に出入りしたりおとぎ話にメッセージを隠したり鼻歌交じりで紙切れを投げつけたりとそれはもう大忙しです

なおカネゴン的には元軍人で悪徳警官である対テロ専門家の史強(シー・チァン)が俗っぽくて頼もしくて好みでしたが、惜しくも死神永生には登場していません

科学っぽいものが大好きなカネゴンにとって、「三体」で最新の科学の知見が惜しげもなくふんだんに料理されて実にそれっぽい嘘に仕上がっているのもたまらない点でございます

しかしそれらはいずれも「三体」という小説の解像度を高めるための道具立てにすぎず、真の主役は冷酷な自然の法則に加えて名も無い「民衆」たちであり、手のひらを何度返しても永遠に悪びることのない大衆だとカネゴン勝手に思っています

このあとで、紅海の水が左右にわかれ、イスラエルの人々が陸地と化した海の中を通ったあと、追いすがるエジプト軍は、元の状態に戻った海の中で全滅してしまいます。
イスラエルの人々は海辺で死んでいるエジプト人たちを見て、一転して神を謳歌するのです。

>我イェホバを歌ひ頌(ほめ)ん彼は高らかに高くいますなり彼は馬とその乗者(のりて)を海に投げうちたまへり
>わが力はわが歌はイェホバなり彼はわが救ひとなりたまへり彼はわが神なり我これを頌美(たたへ)ん彼はわが父の神なり我これを崇(あが)めん
(〝出エジプト記〟第一〜第二節)

実にどうも、記述が実際的で、人々というものをこんなに具体的に表現している書物を他に知りません。

色川武大. 私の旧約聖書 (中公文庫) . Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.

ついでながら、「三体」では三体人たちの具体的な姿形は最後まで一瞬たりとも描写されませんので安心してお読みいただけます【ネタはさらせどおれカネゴン】

当初カネゴンは「めぞん一刻」で惣一郎さんの顔が最後まで描かれないみたいなテクニックなのかなとも思いましたが、これは「2001年宇宙の旅」でキューブリックが苦悶の末に異星人の描写を公開寸前にばっさり切り捨てたことに倣うしかなかったとカネゴン思うことにしています

何しろ異星人の姿形をたとえ影であっても描写したら最後、どれほど心を込めて形容しようと地上最強の絵師を連れてこようと一発で安っぽくなってしまいます【怪獣映画とおれカネゴン】

結果だけ見ればこれは世のメジャーな宗教が偶像崇拝を禁止しているのと同じかもしれませんが、神への恐れも気遣いも無用無縁な「三体」といえども異星人の描写ばかりはかなわないという点がカネゴン的には楽しいポイントのひとつでございます

神には真っ向からガチンコ勝負を挑むのではなく、すれ違いざまについうっかり関節技を深々と極めて一気呵成にねじ伏せるのが有利であるとカネゴン学ばせていただきました【不審者情報おれカネゴン】


昔のブログから引用します

明け方の漫画喫茶で山下和美不思議な少年」と田中圭一鬼堂龍太郎・その生き様」をあるだけ読む【五巻続刊おれカネゴン】。

色川武大がもし生きていれば、無駄なコマがただの一つもない、全ページこれ有効打撃のような本書を一読してたちまちのうちに青白き嫉妬の炎に身を焼くであろうことを確信【裏付けようにもおれカネゴン】。

それより何より、カネゴンは生まれてこのかたこれほど巨大な野望を目にしたことがない。

世の文学を極真空手界にたとえると、その頂点に君臨する館長こと大山倍達に相当するのが旧約聖書であるということはカネゴンの中でだけ確かなのだけど、世の文学のほとんどが館長からの免許皆伝と師範代として各地における道場の建設を無難に目指す中、本書は間違いなく館長である旧約聖書の命を狙い、自らがそれに取って代わろうとしている。

血なまぐさい場面が多いのも、旧約聖書という最大の強敵を相手に総力戦を仕掛けている以上避けては通れないだけで、そうした殺戮描写を本心では好んでいないこともありありと看て取れる。

そういうことなので、本書のどの話が何かの話に似ているとか似ていないなどと議論することにはまったく意味がなかったりする。この漫画は、むしろそういう話の土台またはベースクラスに自らがなってしまおうという途方もない野望に満ち満ちている。何から何まで実に男らしい本書は、世にあまたある小説を顔色なからしめるなどというレベルの生易しいものとはカネゴンには思えない。

絵が流麗で無駄なパンチを一度も繰り出さないので、もしかすると作者の存命中は誰一人その野望の巨大さに気付かずに地味に終わってしまうかもしれないのだけど、ガンダムが再放送で甦った例もあることであり、いきなりブームになってその後忘れ去られるよりも、長い目で見ればその方が世のため人のためだったりするのだろうか【ためにならないおれカネゴン】。

さてカネゴンが上記で「本書」と呼んでいたのはどちらの本でしょうか【右や左のおれカネゴン】。

https://aketekure.hatenablog.com/entry/20080418/p3

あれから15年、あのときを遥かに上回る野望が成就した瞬間を目にすることができてカネゴン幸せです【お安くあがるおれカネゴン】

続きます

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