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世界初の0.2mmシャープペンシルを巡る小さな論争について

世界で最初の0.2mmシャープペンシルを巡る小さな論争について考察をしてみたいと思います。私は、かつて存在したニューマンという文具メーカーを創業した、皆川辰三の孫です。

世界で最初の0.2mmシャープペンシル ニューマン「スーパー2」

2020年に文具王こと高畑正幸さんが、ニューマンが世界で初めて0.2mmシャープペンシル「スーパー2」を販売したと証明する資料を公表されました。私は、令和の世になってニューマンがクローズアップされる日が来るとは全く思っておらず大変驚きました。以前から、"謎の会社"ニューマンについて知りたいというネット上の声も散見されておりましたので、私はこれを機に創業に関わる資料を公表しました。
【参考】0.2mm芯シャープはどこが最初なのか|文具王 高畑正幸|note

それまで、ぺんてるさんが世界で初めて0.2mmのシャーペンを開発したとされてきましたが、それを取り下げることとなりました。

 高畑さんは、私にわざわざ「シャープペンシルのあゆみ」を送付して下さいました。その内容を見て、最初の0.2mmシャープペンシルの開発を巡る舞台裏について、考察をしてみたので、書いていきます。これは、あくまで単なる一個人の考察なので、それを前提に読んで頂ければ幸甚です。
「シャープペンシルのあゆみ」は日本シャープペンシル工業会が創立30周年の記念事業として刊行した書籍で、日本のシャーペンの歴史を辿る上で非常に貴重な資料となります。私の祖父 皆川辰三は同工業会の理事長を13年に渡り勤めていたことが分かりました。高畑さんもこの資料を送って下さる際に「日本シャープペンシル工業会の理事長を務めたこともある方ですから、業界への影響力は相当あったと思われます」とおっしゃっていました。

 私の問い合わせに対して行われたぺんてるさんの調査では、何を典拠に初の0.2mmとしたか不明とのことでしたが、「シャープペンシルのあゆみ」が当時のシャーペン製造に関わる主要企業で構成された団体が編纂し公式に発表し、それにぺんてるさんが深くかかわっていたことを考えると、これが一つの典拠となっていたのではないかと私は考えています。実際に、私がTwitterでこの0.2mm論争について情報発信した際に、「シャープペンシルのあゆみ」と矛盾するとの指摘をされていた方もいました。

「シャープペンシルのあゆみ」に0.2mmの芯を開発したのはぺんてる株式会社とある

 高畑さんは「シャープペンシルのあゆみ」を送付頂く際に「業界関係者も、ライバル社についてのことは公式にはほとんど語らないので」ともおっしゃっており、私はこの資料を読んで、本当にそのとおりだと思いました。

まず驚いたのは、次の内容です。

「戦後はニューマンがシャープペンシルで、ある程度流通を支配していたものの
万年筆と比較するとはるかに小規模だった」

 これは、「シャープペンシルのあゆみ」の中でコラム的に座談会のコーナーが組まれていて、その内容になります。戦後の一定期間に渡り、ニューマンが市場で優位にあったことが書かれていますが、それを「万年筆と比較するとはるかに小規模だった」とし、以降に自らの功績について語っています。
私の祖父である皆川辰三は、当時の経済紙のインタビューで、次のように語っています。

(株)実業之日本社「オール生活」昭和39年1月元日新年特大号

 「おかげで今では一カ月に15万本を出す日本一のメーカーとなった」と語っており、岩崎さんの発言と符合します。そして、仮にも戦後の混乱期とは言えシャープペンシルのシェアでトップであり、前任の会長である人物に対する評価としては、この表現は私は些か非礼ではないかと思っています。
シャープペンシルの流通量が万年筆より少なかったとしても、ニューマンがシャープペンシルが大衆に普及し始める黎明期に年間で180万本の生産を行っていたということは、その普及に寄与したと言うこともできます。また、その文脈でご自身の功績を続けております。

 この岩崎さんという人物は、祖父が日本シャープペンシル工業会の理事長在任中に病没し、その後に理事長になった方です。

日本シャープペンシル工業会の歴代理事長
日本シャープペンシル工業会の理事長の内この二名だけなぜか総会の写真がある
上下に対比構図のように記載されている?(「岩崎理事長”体制”」とある)

この岩崎さんという方は、座談会の冒頭で次のように紹介されています。

「この中で岩崎さんが業界の最古参だと思います」

 岩崎さんは、「シャープペンシルのあゆみ」が発行される前年にご逝去されていますが、その刊行にあたり組まれた座談会に呼ばれて中心的な語り手となっています。また、編纂にはご家族と思われる方が関わっていることが巻末資料から読み取れました。理事長経験者であり、座談会での扱いからも、その影響力が伺えます。

 資料から読み取れる事情は以上のとおりです。
 結論としては、私の単なる推測の話なのですが、シャープペンシルの業界団体で発行し、あまりニューマンを快く思っていない方が編纂に関わった結果として、0.2mmシャープペンシルの功績が見過ごされたのではないか、というものです。
※ これは、あくまで一個人の考察に過ぎませんので、真実はわかりません。

 ここから先は本題とは逸れますが、「シャープペンシルのあゆみ」を読んだことで、ずっと私の中で考えていた仮説が正しいのではないかと、より強く思うようになりました。それは、祖父が語らなかった、終戦後間もなくの混乱期に、ニューマンが躍進できた理由です。

(株)実業之日本社「オール生活」昭和39年1月元日新年特大号

 祖父は、最盛期と思われる時期に受けた雑誌のインタビューで、「武蔵航空兵器」という会社を作ったと述べています。中島飛行機の下請け工場として、念願だった独立起業を果たしました。これが、その後のニューマンの隆盛に関係していると私は考えています。

 一方で、同時期の文具業界はというと、「シャープペンシルのあゆみ」で岩崎さんが次のように語っています。

他にも、このような記述があります。

 戦時中に、統制経済によって様々な物品が政府の管理下に置かれ、配給が基本となり、シャープペンシルに限らず金属を使用した”不要不急”の産物の製造業が大打撃を受けたことが分かります。
 私の祖母も、当時について「配給だけでは生きていけなかった。裁判官が法律を守って餓死した例がある」とよく言っていました。配給品だけでは生きていけないため、闇市で物品を購入する訳です。官憲も、取り締まり切れるものではありませんが、見つかれば摘発されます。祖母は足が速かったので一度も捕まったことがないと言っていました。それを時代背景を知らずに聞いた姉が、祖母が怪盗かなにかと勘違いしてしまったこともありました。
特に、日本国内では銅や鉄鉱石等の戦略物資として重要な位置を占める鉱物資源が少ないため、それを補うために満州の豊富な鉱物資源をあてにしていて「満蒙は日本の生命線」と言われていたことは有名ですが、太平洋戦争が激化すると鉱物資源の輸入が滞り深刻な金属不足となっていました。
民間からの徴用があったことも有名で、渋谷のハチ公像まで撤去されてしまいました。私の祖母も、民間からの金属の徴用は激しく、腕時計など身の回りの金属を供出したと言っていました。

 そのような社会情勢下で、万年筆や鉛筆よりシャープペンシルがはるかに普及していない状況下で、鉛筆が木と芯があれば作れる訳ですからシャーペンの生産は壊滅的な打撃を受けたのだと思います。しかし、座談会での岩崎さんのお話の中で、軍需産業部を持つ会社は細々とシャープペンシルの製造を続けられていたことが分かります。

 祖父は、徴兵を避けるために時計屋として独立する目標を諦めて軍需産業の分野で独立起業をしました。しかし、終戦により会社を精算せざるを得なくなります。しかし、航空機の部品を作る工作機を使用してシャープペンシルの製造を開始することとなり、その後の躍進に繋がりました。
 祖父は、終戦の翌年にあたる昭和21年に三越デパートに製造したシャープペンシルを持ち込んだときに、「戦後、こんなに早く作れる訳がない」と言って信用されなかったと語っています。しかし、信用されていないのに、デパートは戦前からのストックをポツポツと売る状況だったので、すぐに買ってくれたとも語っています。これは、戦後の深刻な物資不足の中でニューマンが優位に立っていたことを示していると思います。これは、戦時中に重要な戦略物資である金属が軍需産業に優先的に配分されていたことを考えると、ニューマンが軍需産業に関わっていたことが大きく関係していると考えられます。
 それは、戦後であっても関係があると推測される記述を見つけました。
以下に福岡市博物館の企画展示より引用します。

   福岡市博物館 企画展示:No.564 戦争とわたしたちのくらし
「太平洋戦争末期の昭和20年(1945)は、モノ不足が深刻化していました。6月19日の福岡大空襲の後に、投下された焼夷弾の部品を貴重な金属資源として持ち帰った人もいました。同年9月2日に日本政府は降伏文書に調印し、戦争は終わりました。終戦後もモノ不足は続きます。人びとはヘルメットを鍋に改造したり、落下傘の紐を再利用したりするなど、比較的物資が残存していた軍用品を生活に使用しました。基地内外の写真の中には、基地内の廃材を抱えて帰る人びとの写真があります。また、雑餉隈(ざっしょのくま)にあった九州飛行機の工場の写真からは、軍用航空機の部品が数多く残されていたことがわかります。」

 私は、祖父が南方に出征していたことは祖母から聞いていたのですが、自身で南方の戦跡を見て回った経験から、大変に悲惨な経験をしたものと思っていました。しかし、祖父が自らの人生を語ったオール生活のインタビューを見て、実は日中戦争時に緒戦で怒涛の快進撃を続けていた満州・中支が主な戦地であり、南方での経験というのは、かのマッカーサー元帥をオーストラリアに逃亡させ大量に米比軍の捕虜を得たフィリピンでの戦いであり、しかもそのあとすぐに復員できた数少ない部隊に属していました。非常に幸運と言えると思います。しかし、祖父は自身が幸運であったことを理解しており、またすぐに徴兵されると考えて、それを回避するために軍需産業の分野で独立したと語っています。しかし、その甲斐もなくまたすぐに徴用されるも、終戦を待たずして帰国できているため、これは軍需産業のエンジニアという経歴が寄与していたと考えることも出来ます。学徒出陣で実は理系と文系で、戦死率が圧倒的に文系が高かったことが、近年報道で取り上げられていましたが、国が隠然とそうした差別をしていた時代でした。

 現在、私も国策に順じた事業をしていますが、そういった事業は有形無形の後押しというものがあります。祖父は、軍需産業に関わっていなければ、戦争が激化し敗色が濃厚となっていた時期に終戦を待たずして故国の土を踏めていたか分からないと思っています。

 母が、この祖父に強い影響を受けて独立起業し、私はその会社の跡を継承しています。ニューマンの文具を愛好して下さっている方からは、最初に時計屋を志し、戦時中に次に軍需産業で起業し、戦後は非常に手早くシャープペンシルの製造に切り替えるという祖父の軌跡は、実に節操がないように見えるかもしれません。しかし、それは文具メーカーとしての実績から来るもので、親族としては祖父を文具屋というよりは、実業家としての側面を強く感じています。実業で成功するというのは、確率は決して高くありません。
一つの分野にこだわるよりも、多方面に興味を持ち、行動できる性格の方が成功する確率は高くなります。しかし、厄介なことに単なる八方美人では、信用を得ることは難しく、また競合に対抗し得る専門性を発揮することが出来ません。成功する分野に行きつくまで多方面に向かって行動し、それで得心すれば一つの分野に一極集中する、という相反する性質の行動を求められる訳です。

 ニューマンの文具を愛好して下さっている方にとっては、私の発信する情報が、祖父をみる視点が異なる部分があるため、期待外れに思われてしまうことも多いと思います。申し訳なく思うことも多々あります。私は”謎の会社”といわれ、その情報を知りたいという方の声がネットで散見されていたことと、今回の主題である0.2mmシャープペンシル論争があり、主に会社について情報を発信しています。
 製品については、私よりももっと詳しい方が発信をしてくださっているので、悪しからずご理解いただければ幸甚です。

【参考】株式会社 実業之日本社「オール生活」昭和39年1月元日新年特大号

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