【※ネタバレあり※】失われた「生活」をめぐり、取り戻すロードムービー ~『すずめの戸締まり』感想

お洗濯の都合よりも、馬場状態の都合で週末のお天気を気にする生活をしています。ハバネロです。
ちなみに明日のエリ女、現地に行くんだけど雨らしいので本当にどうしようかな……。二つ結びの美少女が現れて「ねぇ、今から晴れるよ!」って言ってくれないだろうか。おそらく最後のGⅠ制覇チャンスだろうウインマリリンを良馬場で走らせてあげたいんだ……そういえば『天気の子』の作中で同じことやってる人がいたような気がする。

さて、最近競馬だったり虹ヶ咲だったりその他諸々だったり、色んなところで色んなことをやりすぎている気がするので前提を確認することから始めるが、私は元来アイドルマスターのMADを作る人間、いわゆるニコマスPと呼ばれる生き物だ。
半年くらい前、おなじようにニコマスPをやっている阿羅他さんからニコ生にお呼ばれした時のこと。動画だったり型月だったりの話を好き放題していると、だしぬけに阿羅他さんがこんなことを言った。

「ハバネロさんの動画って、アイドルの活動ってより生活に根ざしてる印象があるんですよね」

あんまりにも虚を突かれたので、そのときは「ほぁーん、そうですかね」とたいへん間の抜けた返事をした記憶がある。そんなこと一度も思ったことがなかったからだ。
しかし思い返してみると、映像作品を観ているときに、物語の本筋とは関係ない日々の暮らしのシーンが、私の脳裏にやたら印象的な記憶として刻まれているのも事実なのだ。
『となりのトトロ』でさつきとメイがおばあちゃんの畑でとれた野菜をかじるシーンだったり、『Fate/stay night』で士郎や桜が台所に立つシーンやセイバーが揚げ出し豆腐に舌鼓を打つシーンはやたら覚えているし、『ARIA』で灯里が朝ごはんを食べるのを幸せそうに眺めるアリシアさんの表情もすごく好きだったりする。
幼少期に見たタイトルすら忘れたディズニーの短編アニメで、グーフィーが朝風呂浴びて身支度を整えるシーンも好きだった。確かサーカスのゾウが出てきて色々ドタバタする話だったと思うのだが、このクソ雑な説明でもしタイトル分かる人がいたら教えて欲しい。
(※11/14追記:Twitterの有識者のおかげで作品タイトルが判明しました。『The Big Wash(邦題:グーフィーの大仕事)』という作品で、風呂を浴びるのはグーフィーじゃなくてゾウのほうでした)
……ともあれ、「生活に根ざしている」という言葉は、なんとなく私にとってキーワードのような気がしている。先日同人誌に二本ほど原稿を寄稿したが、なんとなーくこれまでより日常描写に力を入れたりもした。

……なぜそんな話から入ったかというと、新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』を観て、これはまさに「生活」がテーマになる物語だと感じたからである。
もちろん、前作『天気の子』でも陽菜と凪の姉弟が暮らすアパートの風景だったり、潰れたバーの居抜きで売れない編プロ業をやっている須賀さんと夏美さんの暮らしだったりが主人公・帆高の目を通して丁寧に描かれている。さらにその前作『君の名は。』では、口噛み酒や神楽舞に代表される糸守の文化と東京の都会的な暮らしが対比構造として活写される。おそらく、新海監督の目線が、当たり前にある「人々の生活」に向いていることはここまでの作品を見ても明らかだと思う。にも関わらず私は、『すずめの戸締まり』を観るまで、それらの生活描写に彼のこだわりめいたものが隠れていることに気づけなかった
逆に言えば、それだけ『すずめの戸締まり』という作品はそこにある「生活」をそれだけ丁寧に丁寧に描いていたし、そこに物語全体のテーマ性が含まれている、そんな気がするのだ。


※※※ここからは作品の根幹に関わるネタバレが含まれます。鑑賞済みの方、もしくはネタバレは一切気にしないぜ!という剛の者だけ続きをお読みください※※※






■ディザスタームービーとしての新海誠作品

既にご覧になった方は分かると思うが、『すずめの戸締まり』において「地震」は大きなファクターになっている。
特に2011年の東日本大震災は、物語の根幹や主人公であるすずめのバックボーンに大きく関わる重要な出来事だ。
明言も直接的な描写もされないが――おそらくあえて避けたのだろうと思う――すずめがつけていた絵日記の日付、屋根の上に乗り上げた船や海沿いに築かれた防波堤のカット、母親と暮らしていた故郷が東北地方という描写などから考えると、すずめが母親を亡くしたのはこの時で間違いないだろう。

思い返せば、『君の名は。』では彗星の衝突が、『天気の子』では豪雨や気候変動が大きなファクターになっていた。『君の名は。』以降の新海誠作品は、先程述べたように人々の「生活」に目線を向けた映画であり、デートムービーとしてのパワーすら兼ね備えた恋愛映画でもある一方で(※私は全部ソロで観たが)、実は自然災害を扱ったディザスタームービーの趣もある。
それはきっと、生活や恋愛といった人々の営みと、自然災害が対立関係にあるからだろう。ここでどうしても思い出すのは、おそらく本作同様に東日本大震災をモチーフに描かれたであろう『シン・ゴジラ』のこの台詞だ。

「避難とは、住民に生活を根こそぎ捨てさせることだ。簡単に云わないでほしいなあ」

『シン・ゴジラ』より

被災すること、そして避難することは、間違いなくそこにある生活を失うこととイコールだ。かくいう私自身も幼少期に阪神・淡路大震災を経験している。幸い私の周りで大きな被害や犠牲者は出なかったものの、崩壊した阪神高速道路の映像や、JRの沿線に仮設住宅が建ち並ぶ風景はやたら鮮明に覚えているので、それだけ非日常的でショッキングな画だったのだと思う。

日本人にとって、大雨や地震といった自然災害はあまりに身近で、そのまま描いてしまうと、とんでもなく生々しくなってしまう。それを緩和するためか、本作を含む直近の3作品ではいずれもファンタジーの要素を混ぜて自然災害を描いている。
「常世」と呼ばれる異界に通じる「後ろ戸」というゲートから「ミミズ」と呼ばれる怪異が出てくることで生じる――これが作中世界における地震のメカニズムであり、それを防ぐのがミミズを封印する役割をもつ「要石」と、「後ろ戸」に鍵をかける「閉じ師」の存在だ。
このようにファンタジーとしての災害を描くことはもう一つの効果を生んでいる。本作における「ミミズ」の血肉を連想させるグロテスクな色合い、あるいは『天気の子』における鉄床雲の迫力や雨粒の美しさ、『君の名は。』のティアマト彗星の輝きと衝撃。それらの禍々しさや美しさは、日本古来の神道の要素と絡み合うことで、大自然への畏怖へと無理なく接続されている。
そして、それらの災害への「対策」が必ず作中に存在するのも特徴的だろう。本作においては要石や閉じ師の存在がそうだ。決してノーリスクではないものの、破滅を回避できる手段が用意されている。
新海誠作品における自然災害とは、畏怖をもってきちんと向き合うことで回避あるいは共存できる、そうした存在なのだ。
なんとなくこの辺の要素を拾っていくと、新海誠のディザスタームービーの趣味って、ローランド・エメリッヒやジェリー・ブラッカイマー的なスペクタクルよりもミミ・レダー監督の「ディープ・インパクト」(※競走馬ではない。念のため)的なものなんじゃないだろうかと思ったりする。え、それはお前の趣味だろうって?そうだよ。

■失われた「生活」をめぐる旅路

初っ端から大脱線してしまったので話を戻す。本作の主人公・すずめは震災によって母親と「生活」を失ってしまった少女である。
叔母の環が作ってくれた彩り鮮やかな朝食やお弁当にはあまり興味を示さない。一方で、地震速報のアラートや草太の怪我には敏感に反応する。突然フェリーに乗って愛媛まで行く羽目になっても、さっさと水や食料、毛布を確保し、自分よりも椅子になってしまった草太にそれを与えようとする。そしてあまつさえ「死ぬのなんて怖くない」と言い切り、後ろ戸を閉じる危険な作業に躊躇なく身を投じる。それはまっすぐでヒロイックな行動のように見えるが、根底にあるのは災害から時が経ってもまだ日常に戻れないサバイバーズ・ギルトに他ならない。このへんは『Fate/stay night』の衛宮士郎や『仮面ライダーオーズ』の火野映司といった主人公像を彷彿とさせる。もちろん両作品が大好きな私はちょっと興奮した。

そんなことを考えれば、ミミズとそれが引き起こす地震という災害に立ち向かう使命を背負ったすずめと草太の旅路は、もっと緊迫感のあるものになってもおかしくない。だが、そうはならない。ならないんだよロック。
もちろん各地で後ろ戸を閉じるシーンはきちんと緊迫感のあるスペクタクルなものになっているのだが、二人が旅先で出会う人達は、それとは対称的にとても優しい。
愛媛の民宿の娘・千果も、神戸のスナックのママ・ルミも、すずめの抱える事情には必要以上に深入りしない。ただ泊まるところと食べるもの、旅を続けるのに必要な鞄や衣服を与えてくれ、そしてそのお返しとしてすずめは労働力を提供する。観ていて、なんだかここの暖かさで涙が出てしまった。災害は人々の生活だけでなく、社会における居場所も失っていく。一度失ったそれらに、すずめは旅先で再びめぐり合ったのだ。
ここで手を差し伸べるのが、自分と同年齢の千果と、保護者である環とおそらく同世代のルミというのもいい。それはきっと、すずめにとって自身の周囲にある生活と間接的に向き合う時間でもあったはずだ。

その一方で、非日常の存在である閉じ師としての活動の舞台は人の生活が失われた場所である。
割れたガラスや瓦礫が散らばり、電気の通らなくなった廃墟というのは、地震によって破壊された街の姿にどうしても重なってしまう。そんな中ですずめは、椅子になってしまった草太に手を貸し「後ろ戸」を封じる閉じ師の役目を担おうとする。
この封印に際して、そこで暮らしていた人の感情に思いを巡らす必要があるというのもよく考えられた設定だと思う。
それは既に失われてしまったものに思いを馳せる行為であり、それを封じることで今を生きて前に進もうとする行為でもある。彼岸である常世に通じる後ろ戸を閉じるという行為は、鎮魂にほかならないのだ。
そうやってすずめは、旅の中の日常と非日常、その両方で失ったものと少しずつ向き合い、取り戻していく。その過程の描き方が、本当に丁寧なのだ。

もうひとつ良いなと思ったのが、非日常の存在である閉じ師の草太にも日常生活が存在することを徹底して描写していたこと。
ちょっと古びたアパートに暮らしていたり、教師を目指して大学に通っていたり、芹澤という悪友がいたり、階下のコンビニで働く女性たちにも年令問わずモテていたり、閉じ師の活動と教員採用試験の日程がバッティングしてしまったり……。そうやって、草太がすずめと同じ日常を生きる人間であることをめちゃくちゃ丁寧に描いてくる。アパートの部屋と本棚の描き方とかも、大学生のリアリティそのものでニコニコしてしまった。本棚置くスペースつくるためにロフトベッド使ってたよ私も……。

そして何よりすごいのが、そうした丁寧でこだわり抜いた生活描写の積み重ねが、「人々の生活を守るために、一旦は要石になってしまった草太を犠牲にする」というすずめの選択にきちんとつながっていること。
これまで観てきたように、旅先での経験を通じて「生活」はすずめにとってもう縁遠いものではなくなっている。だからこそ、それを守るために一度は辛い選択を飲み込むことに説得力が生まれているのだ。新海誠、作品を重ねるたびに物語をつくるということがめちゃくちゃ上手くなっている。Sさんって本当にすごい。心からそう思った。

■喪失と順応を繰り返して日々は続く

もうひとつ言語化しておきたいのが、全編を覆う「なにかを失っても日々は続くし、意外となんとかなるんだよ」というポジティブなメッセージの存在だ。

その象徴になるのが、草太の肉体として旅を共にする一本脚が欠けた椅子だと思う。三本しか脚がない椅子というとどこか不安定な印象を受けるのだけれど、それは作中できちんと求められる役割を果たしている。
食事の時にきちんと椅子として座ることもできるし、高いところにあるものをとるための踏み台としても機能する。
もちろん椅子は草太の体でもあるので動けるし、後ろ戸を閉める時やダイジンを追うときは画面をめちゃくちゃ駆け回る。子どもたちが乗せたジュースがこぼれないようにうまく動いてバランスを取ることだってできる。
同じように、完璧ではないけれど機能する存在として描かれているのが、聡太の友人・芹澤が駆る中古のアルファロメオだ。
揺れるし屋根はきちんと閉まらないけれど、草太を救い宮城に向かうすずめと環を送り届ける足としての役割をきちんと果たしてくれる。
母を失っても、すずめは環との生活に順応しているし、人間の肉体を失った草太は椅子の体で動くことに慣れていく。そして脚を一本失っても、椅子は椅子としての機能をきちんと残しているし、屋根が閉まらなくても車は走る。
何かを失っても意外と何とかなるし、そこに順応して生きていくことはできるのだ。そこに新海誠の考える人間の「強さ」があるのではないだろうか。

ただ、そうした順応性は強さでもある一方で、己の痛みを覆い隠す行為でもある。
劇中、サービスエリアで環が「すずめを引き取ったことで失った時間を返してくれ」と激昂するシーンがある。それはもう一柱の要石であるサダイジンによって引き出されたものではあるものの、後にその言葉を「思わなかった訳では無い」と環は述懐している。何かを失ってそれに順応することは時に膨大な時間が必要になるし、その過程で損なわれるものも存在する。
だからこそ、すずめは母を失った痛みともう一度きちんと向き合わねばならないのだ。

■すずめが取り戻したもの、私達が取り戻す未来

そうしてすずめは、かつて母親と過ごした家の扉をくぐって常世へ向かうのだが、このシーンで印象的だった箇所は2つあった。

ひとつは、草太を救うべく後ろ戸をくぐる直前に、見送る環に告げた「好きな人のところへ行く」という言葉。すずめの草太への恋心は初対面のときから存在が示唆されているが、それが旅の中で少しずつ 少しずつ形をなしていく過程が丁寧に描かれていると感じた。
そうした誰かを想うという行為もまた、人間らしい生活の一部といえるのではないかと私は思う。「貧すれば鈍する」という言葉があるけれど、災害という非日常は物質的な部分だけでなく、精神的な部分も削り取って困窮させてしまう。その結果、自分自身の生存で手一杯になると、誰かを想う余裕などなくなってしまう。だからこそ、徐々に草太への思慕を募らせていく過程もまた、すずめにとっては生活を取り戻す旅路の一つだった……と言ってしまってもいいのではないだろうか。

そしてもう一つ、常世に渡り草太を救い出したあと、すずめが救うのが「幼少期の自分」であることだ。
正直、そこまでの展開で「常世はあの世とつながっている」という話が出てきた際には、なんとなく「お母さんともう一度だけ会うみたいな展開があるのだろうか」と思っていたが、ここに関しては本当に私が浅かったと言わざるを得ない。
当該シーンでも語られている通り、母親が亡くなり、もう帰ってこないことは当時のすずめ自身が既にわかっていたことでもある。その時のすずめに必要だったものは、未来への希望だったのだ。
辛い状況はいつか終わるし、大きくなって、誰かと出会い恋をすることもできる。言葉にすると本当に月並みで、単純なことに思える。けれど、それを無根拠に信じるということは、辛い状況の渦中にある人にはとても難しい。
私も色々クソみてえな人生を送ってきたので、自分の心が闇落ちしきっている時に他人からの善意や励ましなんてゴミクズ以下だと思ったことは実際に覚えがあったりする。ただそれを取り戻してくれるのが、乗り越えた未来の自分だったとしたら、その無根拠な希望は信じるに値するものに見えるのかもしれない。

そうして日々の生活と未来への希望を取り戻したすずめは、日常へと帰っていく。母と同じように看護師になるという目標のため、一生懸命に勉強する日々。いつものように戸締まりをし、学校へと向かう道の途中で、誰よりも待ち望んだ草太の姿を見て、彼女はこう告げるのだ。
「おかえり」と。
正直、「行ってきます。」というキャッチコピーを冠して世に送り出された作品を締めるセリフとして、これ以上のものがあるとは私には思えない。ベッタベタのど直球なのだけれど、そうであることにきちんと説得力がある。

ここで改めて過去二作を振り返っておきたい。
『君の名は。』は愛する人の喪失を受け止める物語だった。
『天気の子』は愛する人の喪失に真っ向から抗う物語だった。
では『すずめの戸締まり』はどうかというと、喪失を受け入れた上で、大切なものを取り戻すという両者のバランスを取るような構成になっている。

私は『天気の子』はかなり好きな作品で、「陽菜のためなら世界を変えてしまっても良い」という帆高の選択に内心「やりやがった!!!」と快哉を叫んだほどだった。一方で「この選択を取ったのが嫌だなって思う人がいるんだろうな……」と思ったのも事実だ。
『すずめの戸締まり』におけるその辺りバランス感覚は、「日和った」「万人受けに迎合した」と言い方も出来なくはないだろう。ただ、前ニ作ほどすずめと草太の言動に青臭さを感じなかったのが、心地良い視聴体験に繋がっていたのも事実なので、そこについては素晴らしいと私は思っている。

さて、最後に作中の年代について考察をめぐらして終わりにしたい。
作中ですずめが東日本大震災で母親と死別したのが12年前、また「100年前に東京で大震災が起きた」というのは関東大震災だと思われるので、おそらく作中年代は2023年だと推測できる。
つまり、2022年にこれを観ている我々にとって『すずめの戸締まり』は、ちょっとだけ未来の出来事なのだ。
2022年現在も、わたしたちの世界では新型コロナウイルスの脅威は消え去っておらず、もう何度目だか分からない流行の波が来るかもしれない、というニュースで世間は騒がしい。ロシアを中心に国際情勢も不穏だし、南海トラフ地震の不安もないわけではない。
作中で閉じ師の仕事について「大事な仕事は人の目に触れないほうがいいこともある」と語る草太のセリフは、コロナ禍で見えてきたエッセンシャルワーカーや医療従事者の重要性に対する示唆に感じられてならない。

それでも、『すずめの戸締まり』で描かれるちょっとだけ未来の世界では、人々はちゃんと日常を謳歌しながら生きている。
100年前の関東大震災の傷跡は、もう東京にはほとんど残っていない。
かつて阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた神戸にも、たくましく生きるスナックのママさんや常連客の人たちがいた。
東日本大震災の傷跡も完全に消えたわけではないけれど、少しずつ自然や人の生活が戻ってきている。そしてすずめはその時に負った喪失の痛みと向き合って、日々の生活と未来への希望を取り戻した。

未来にはきちんと希望があって、日々の生活はいつかきっと戻ってくる
ほんの少しだけ未来を生きている少女の旅路を通して、新海誠が伝えたかったのはそんなメッセージなんじゃないだろうか。
薄暗い不安に覆われた現在を乗り越えた先に、かつてあった日々の風景に「おかえり」といえる未来がやってくることを、祈らずにはいられない。
そして、その時を迎えるまで、日々をしっかり生きていきたい。
かつて私にとって新海誠作品は「どこか湿っぽくてテンションの下がるもの」という印象だった。それもこれも、クリスマスに野郎ばかりで集まって鍋を突きながら「秒速5センチメートル」を観るという暴挙に出たせいなのだが……。あのときはみんな呻きながら酒を飲んでいた。
そんな印象を拭えないまま、なんとなくで鑑賞した『君の名は。』以降、作品の中にポジティブなエネルギーが少しずつ増えていっているように感じる。湿っぽいセンチメンタリズムの作家だった新海誠が、その湿度を希望のためのスパイスとして使うことに習熟していった結果、『すずめの戸締まり』はバランスの取れたエンターテインメント性と、普遍的で力強いメッセージ性を持った作品になった。
「国民的映像作家」「最高傑作」という大げさなキャッチコピーに、「いやいや吹きすぎでしょ……GⅠ前の陣営コメントでももうちょっと慎み深いぜ……」と思いながら見に行った私がこんなに長文書いてるんだから、その力はなんとなく伝わるんじゃないだろうか。
私の中では、今年観た映画の中でベストワンを選ぶなら、おそらくこれで揺るがない。それくらいエネルギーのある作品だった。

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