8月の読書感想文 柴田勝家『走馬灯のセトリは考えておいて』

真夏日がバカほど続くある日のこと。突然フォロワーが「夏休みの宿題をやろう!」と言い出したので乗っかることにした。

専用のdiscordを作ってテンプレも用意されている。こんなにインフラが整った夏休みの宿題はいつ以来だろうか。なにか強い意志が感じられるッ!!
そんなこんなで8月は毎日一行日記を書いたりしていました。

ただの終わってるギャンカスクソオタクの日記で草です。
これではいかん、もう一個なにかやらないと夏休みの宿題感がまるでない。選択肢は読書感想文と自由研究の二択。大量の書物なら日常的に浴びてたぜ、家庭の事情でな……ということで読書感想文をやることに。
幸いdiscordでお互いのオススメ課題図書を投げつけ合う部屋があったので、そこから良さそうなのを見繕うことに。

「色々上がってるな……どれも面白そうだが、こういうのって人格出るよな……なにこれ著者が柴田勝家?柴田勝家???????」

そうして私は夏の課題図書と出会った。なぜか戦国大名の名前を筆名にしてるヘンテコな作家のヘンテコな短編集。それがなかなかどうして味わい深かった。
以下、昨日の夜から頑張って書いた読書感想文です。ちゃんと2000字に納めました。よろしくどうぞ。

◯信仰の在り処を問う珠玉の短編たち

 小説ってこんな自由でええのか。柴田勝家著『走馬灯のセトリは考えておいて』を読み進めながら、たびたびそんなことを思った。
 ニュース記事として語られるバーチャル空間での福男レースの顛末。秘仏をめぐる研究論文の体で書かれるある学者の生涯。人類の絶滅した遠い未来に残された営みを体験する宇宙人の話に、宗教を原虫の一種としてその伝播を考察した論文に、私小説的なクソゲーのプレイ日記。そして、バーチャルアイドルの死を通して人間の魂の在り処を問う表題作。
 本書に収録された短編はどれもこれも、様々な技巧を凝らして書かれている。ページを繰りながら、次は何をどう見せてくるのかとワクワクする自分がいた。そんな技巧のデパートめいた短編集となっている本書だが、テーマはすべて「信仰の在り処を問う」という姿勢を貫いている。
 ここで「信仰」という言葉を使ったけれど、この言葉の絶妙なさじ加減、実はすごいのではないかと思う。「宗教」というと途端に胡散臭さが出てくるし、逆に「尊い」という言葉は今や一種の軽薄さすらにじむ始末だ。その点、「信仰」という言葉にはちょうどいい重みがある気がする。
 特にそれを深く感じさせられた短編が『絶滅の作法』だ。地球人類が絶滅した未来に、宇宙人がデータの形で保存された人々の営みを追体験する、という穏やかなポストアポカリプスのお話なのだが、ラストに添えられた「いただきます」という言葉に触れた瞬間、安堵とも寂しさともつかない感情がふっと溢れ出た。
 おそらく日本人のほとんどは、食事の前の「いただきます」という挨拶には「食べ物とそこに込められた命に感謝する意味がある」ということを教えられた記憶があると思う。そこに込められた生命への祈りが、人類が絶滅した遠い未来においてもまだ残っているという描写に、なるほどこれが「信仰」というものか、と納得させられた。
 信仰というとどうしても大仰なイメージになってしまうが、よくよく考えてみれば私達の日常にそうしたものは宿っているのだなと思う。先程の「いただきます」の挨拶もそうだし、オタクにとって身近な概念である何かを「推す」という行為もまた信仰と言っていい。
 表題作の短編『走馬灯のセトリは考えておいて』は、現代において身近な推しの対象となったバーチャルアイドルが題材となっている。
 死者の姿をライフログとAIを用いて再現する「ライフキャスト」の制作を生業とする主人公のもとに、かつて一世を風靡したバーチャルアイドルの「中の人」から依頼が届く。その過程を通じて、主人公と依頼人それぞれの過去が明らかになっていくのだが、そこにもまた確かな信仰と救済の形が描き出されている。
 作中で大きな役割を果たしているAI技術とバーチャルアイドルという存在は、ここ数年で大きな成長を遂げて私たちの生活の中に根差しつつある。それによって私たちを取り巻く世界が大なり小なり変容しつつあるのも事実だ。
 作中ではライフキャストの発展により生者と死者の境界が曖昧になった世界が描かれる。ただ、AIによって再現されたライフキャストはよくできた複製品にすぎず、死者そのものの復活を意味しない。それはある意味、普通に死んで忘れられることよりも虚しいのかもしれないと感じた。
 しかしそんな虚しさと対照的に、クライマックスのライブシーン、そして死の間際で依頼人と主人公が交わしたささやかな約束が成就する瞬間に、確かなあたたかさを感じるのだ。それこそがきっとこの短編集を通して語りたかった「信仰」というものの核なのではないかと思う。それが真実であるかは確定できないが、その人が在ると思えばそれは確かに「在る」のだ。様々な技巧を凝らして信仰の実存を問う本書だが、その命題に対する作者の回答はきっとそういうところにあるのではないかと思う。
 収録作の中でも異色の「姫日記」では、クソゲーと称されるゲームを戦国時代好きとして「楽しかった」と語る作者の姿がある。そこにも作者の信仰の形が見えるような気がする。
 つまるところ何に価値を見出すかイコール何を信仰するかは、究極的にはその人の「自由」なのだ。それこそ本書に収録された短編たちが、さまざまな技巧と形態を用いて書かれているように。
 そこに美しさや価値を見出す存在がいる限り、信仰はそこに存在し続ける。絶えず変化を続ける世界の中で、そのことが誰かの救いになるのなら、この本にもまた信仰は存在しているのだと思う。


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