01/25 スリル・ミー名古屋千穐楽 成河×福士誠治(時々、松下洸平×柿澤勇人ペア)
千穐楽を見た後、とても満足感があって、これで心置きなく卒業できるな!となる気持ちと、ふと禁じられた森にいる気持ちの両方を感じさせる稀有な演目でした。
自分が目撃した、成河さんと福士誠治さんペアの演目は、音も、映像も、尺のあるメディアでは何一つ記録が残ってなくて(強いていえばTwitterの稽古風景程度)、これ本当にあった……?
書いている内にとても長くなってしまって、このまま自分の内に秘めておきたい気持ちと、一周回ってこのよく分からない感情のかたまりを備忘録として残しておきたい気持ちがぶつかり合って、公開するかとても迷ったのですが、ただ、ものすごいものを見せて貰ったこの事実を何とか…なんとか反芻して残させて欲しい。。。
名古屋千穐楽は有り難いことに両ペア、拝見出来ました。有難うメ~チケ!
※基本、私=成河さんの私、彼=福士さんの彼。時々、松下さんの私と柿澤さんの彼も混ざる感想(と呼ぶにはあまりにも長い何か)
感じた両ペアの違い
まず本の解釈や役づくり以前に、舞台上での表出方法がそもそも違う。同じものを描いていたけど、水墨画と油絵くらい違って
松下さんと柿澤さんのペアは写実的
成河さんと福士さんのペアは象徴的
だったイメージ。
言葉の発し方が、兎に角、両ペア全く違ったんですよ。
松下さん・柿澤さんのペアは、本当に重要な言葉しか際立たない。逆に際立てている自覚があるかも分からない。気持ちが乗ってきたから結果、その言葉が強調されていた、みたいな事がありそう。とても自然で、観客もその密やかな言葉を逃さないように気が付けば耳を澄ませている。
削ぎ落とされてナチュラル。気持ちで喋る。若くて青い。日本語が内包する情緒や、それを理解してくれる観客をとても信頼したお芝居に感じました。
観客を信頼するが故に、観客の存在を含めた余計なものを削ぎ落として、目の前の相手(私・彼)に対して、どう在るかをとても大切にしていたイメージ。
対して、成河さんと福士さんのペアも余計なものが削ぎ落とされていた点は同じ。にも関わらず、そのすべてが演劇用にデフォルメされた表現だった印象。とても自然にみえるけれど、日常に落とし込むと違和感のある所作。
言葉はもちろん、呼吸に至るまで気持ちが行き届いて精緻。結果、情報量が多く洗練されている。どうして、この役は、この言葉を発し、行動したのか?の試行錯誤が、それこそ単語や息遣いの単位で見えた気がしました。
卓越した技術力と、演じながら五感から入った刺激を受けて、変化する余裕もちゃんとある、心と技術の両方がないと出来ない大人の芝居。
松下さんと柿澤さんのペアは小さな劇場である事が生きる芝居
成河さんと福士さんのペアは小さな劇場である事を活かす芝居
そんな印象に加え、さらに脚本や役に対する解釈の違いが乗っかって来るから、同じ本なのに全く別物。
ペア毎に大きく違ったけど、解釈の違いとは別にそもそも表出方法が全然違うじゃん…(呆然)という感じでした。
【成河さん演じる私】
溺愛された一人っ子(に見えました)。ひどく愛された経験が、私を自信家にしている気がします。
死ぬほど溺愛されていないと「刑務所の看守なんて金でどうにでもなる」というトンデモ理論が成り立たないと思うんですよ。
成河さん演じる私の佇まいに圧倒されていたけど、よく考えて欲しい。冷静に考えて未成年で殺人犯(私)が望めば、金で解決出来る説、それ僕の方が超人!という割には幾ら何でも脳内お花畑じゃない????ですか????
自分自身でお金を刑務所に持ち込むのは難しいだろうし、差し入れでお金を貰う、もしくは裏から手を回してお金を渡す、俺の親父は絶対に出す、という圧倒的自信と確信が無いと出来ない所業。
もうこの時点で、相当、凄まじい愛情を受けて私も育ってそう。それか、私本人の人格はみていないけど、ただ私の願いを叶え、何かを与えることが愛情だと思っているタイプの親御さん。
見栄っ張りな親なら身内の死刑を回避させるだけで良いじゃないですか。それなのに、お金で共犯者と同じ牢に入れてくれるってえぇええ。「罪は犯してしまったけれど、うちの息子ひとりだと可哀相だし、知ってるリチャードくんがいれば・・・」みたいな親じゃないと成立しないゲーム。ハードル高すぎる。
自尊心は低いけど、プライドはすごそう。普段は「女の子」と呼ぶのにお嬢様→遊んでる女、と言葉が悪くあたりに、それを垣間見た気がしました。
彼と隷属関係にあるように見えた時もあったけど、身長差による視覚の影響も大きかったので、福士さんと成河さんが近い身長だったらどんな風に見えたのか、とても気になります。
"私"は凄まじい思いがある事はとても分かりやすく、その内側の色は、とても分かりづらかった。きっと観る方によってその姿形を変える人。
私→彼に対する感情
君は僕のものだ。
以上!!!真っ直ぐでも一途でもない、貫ぬくような何かに衝き動かされたイメージ。執着、独占欲。そういうのを足して割らなかった。
狂信者的な側面もあって、偶像化した彼に対して、私にとって都合の悪い所には目を瞑っていた気がする。彼の内面・心に興味なさそう。
ただ、それは彼が私を見ないから、次第にそうなっていったようにも感じるので、やっぱり彼ありきの物語だったようにも思います。
私が変わっても、彼は私のことを見ていないから、変わりようがなさそう(私が彼を操作している説もありつつ)。ところが彼が変わると、彼を見ている私の動きが明確に変わる。
【追記】彼は私のことを見ていない、というのは少し語弊があって、彼は私のことを、私に気づかれないように見ていたけど、あれは「こいつはきっとこう動くだろうな」という自分勝手な予想とそれの答え合わせのために見ていただけで、結局、彼は私という人間から何かを受け取ろうとはしていなかったという意味で=見てなかった です【追記ここまで】
彼以外何もなくて良い。彼にも僕だけで良いだろう?って要求してる。彼を束縛する事を欲しているというよりは、彼を引き摺り下ろして自分のものにしたかった。そのために彼を屈服させたかった…ように見えました。
彼のことをさいご、独立した対等な個として扱わず、「僕のもの」と私に紐付いた彼にしてしまってるの本当に残酷。
しかし、それをも日本語の愛と呼びたい。
【福士さん演じる彼】
私目線だからか、どんどん回を追うごとにほんとうに魅力的な彼になって驚きました。
公演初期は、顔がいいだけの鼻持ちならない、なんの魅力もない最低な人間だったのに、公演後半戦に向かうにつれ「私を狂わせたのは間違えなくあなたです!!!」と言いたくなる魔性の男。
”蠱惑的”という印象が強かった。現実にあの喋り方をする方がいたら相当”気持ち悪い”はずなのに絶妙なバランスで魅力的な方に成り立たせていて凄い。どういう過程を経たらあの彼に至るんだ…。
本当に微妙なラインで、ほんの少し力加減を間違えたらキャラクターチックになって成立しなさそうな、そういう危うさが彼の不完全な造型にも合っていました。実在感・存在感のある偶像みたいな人。
色気を湛えているのに、潔癖な女王みたいな印象もあって。乱暴なのに育ちのよさを感じさせる品がある。装ったベールの下には、少し茶目っ気があって意地っ張りで、臆病で、浅はかな彼がいた感じも。
彼が装わなかったのは登場シーンと、「いい合図だった、レイ!」と取調べ室に放り込まれた直後、アフレイド、だけだった気がする。結局、誰にも本心を明かせなかったけど隠せてもいなかった見栄っ張りな人。愛されている私に対しての嫉妬と諦観もある。あと、たぶん私の家の方が裕福なんだろうな。
初日を拝見した時に、難しい役という意味が少しだけわかった気がして、私目線から見た彼だからすごく表層的になってしまいそうだし、段々しょうもない姿を見せていった上で、成河さん演じる”私”と存在感が対にならないといけないの、はちゃめちゃに大変そう。
彼→私に対する感情。
いる、いない、じゃなくて、いるのが当たり前。家族とは違うけど、存在感はそれに近い何か?だからパーソナルスペースを侵されても腹立たしいけど平気(例・深夜自室に突撃して来る
家族みたいに内心、甘えて(舐めて)いるから平気で酷い事を言うし、意地を張ってすぐ装うし、試すような事をする。私からの好意に確信を持っていて、尋ねてからYesと言わせる最低さ。自分を無条件に愛してくれる母親相手に甘ったれている息子的なイメージも受けました。
公演初期の彼→私は、側にいる犬くらいの感覚に近い印象で。ちゃんと出来たらご褒美をあげていた。
私と関係を持ったのは、ユダヤ教徒としての戒律を犯す(スリルを味わう)ためと、私への報酬であって恋愛感情とかはなさそう。正当なものへのカウンター的な。
彼にとって私は、己の行為を見届ける #観客 であり、同じ物を見るべき #目撃者 であり、共に手を染める #共犯者 。
ただ、”私”という観客に悪事を誇示出来れば満足というささやかさも感じたから、付き合ってくれる私がいなかったら、あそこまで彼もエスカレートすることは無かった気がする。私を振り回しているように見えて、ひどく私に依存していた。
愛と呼ぶか問題
この一連を”愛と呼ぶかどうか問題”あると思うんですが(ない)、みる人が”愛”という言葉をどう定義しているかによって変わって来る気がします。
日本語の愛はLOVEだけでは絶対ないと思っていて。
相手をズタズタに傷付けてでも手に入れたい、一方的な独占欲や執着心。
相手の心が自分だけで満たされるなら、それがどんな感情だって構わない!
「それは愛なのか?」「いや、そんなものは愛ではない!!」というツッコミまで、個人的には日本語の"愛"という言葉に内包されていると勝手に思っています。
深い情も強い信仰心も酷い独占欲も、根源的な衝動にどう名前をつけるかだけじゃないですか。ただのラベリングの差。
感じている人間、見ている人間の価値観によって、貼られるレッテルが違って来る。
そんなみる人によって名前を変える、形容し難い情の殴り合いと、それに反発するか、受容するかの押し引き、執着と絶望、主導権の奪い合いのぐちゃぐちゃな憎しみに似た感情までを、包括して愛と呼びたい。
だから、色んな方の感想をみて、自分が愛だと思っているものは、、、実は他の方にとっての【愛】という言葉には含まれていないのかも!!!!って思いました!!!!
台本に【愛】という言葉が一言も出てこないので、そこは委ねられていて楽しいですよね。あの一連は愛だと思っているけれど、それは、本当に愛なのか・・・?ってツッコミも含めての愛なんです。
スリル・ミーの音楽 ~ストーリー・オブ・マイ・ライフと感じた違い~
成河さん福士さんのペアは、描きたいものがあり、その手段として音楽がある感じで、さも僕たちストレートプレイです!!!みたいな顔をしているけれど、この作品を傑作たらしてめているのは音楽だと思うんですよ。傑作って言葉、生まれてはじめて使いました。
スリル・ミーの音楽は作家性の高い衝動的な作風の皮を被りながら、感情を動かすための計算・企てが、既に旋律やハーモニー自体に備わっている気がします。だから、そもそもメロディから離れる必要がない。
ミュージカルの楽曲はショーとしての機能を担う歌も多いけれど、スリル・ミーはストレートミュージカルというのも何となく分かる気がします。作品の中で音楽が独立していないというか、一体化しているというか・・・。
ピアノによって描かれる音楽が抜群に良いし、この作品の情緒のラインを引いているのは確実に音楽。
逆にいうと、旋律と台本・既存の演出に添えば、それなりに成立してしまう怖さと、添うことでより各々の個性が浮き出てくる面白さの両方がありそう。このあたりは物凄く短絡的に言っているかも。
好き嫌いは受け手の判断に任されつつ、人を殴れる構成や演出のファンクショナルな強度(物理)が2011年・日本初演の歴戦スリル・ミー にはあるというか。
脱線しますが、逆に演者に委ねられているのは、ストーリー・オブ・マイ・ライフ(ホリプロさんが海外から持って来た男性2人ミュージカル)の方だと思います。
この作品を観た時、日本初演って・・・こんなに・・・怖いんだ…!(呆然)と感じました。あと、音楽のまとめ上げる力の凄さ。
ストーリー・オブ・マイ・ライフは、役者さん側が直で観客の情動を揺り動かすか、観客側が積極的に拾いに行くかしないと、人によっては撫でられただけで終わる、ファンクショナルな脆さ…裏を返せば、そここそが作品の肝だった気がします。
音楽もスタンダードな所から少し外す、途中からズレたり違和感を感じさせる音運びを大切していたというか…綻びを意図的に作ってあって、そこを拾って愛せるかどうか、みたいな。そう、綻びや違和感を膨らませる作品でもあったような。個人的には大好きです。
もちろん共通点もたくさんあるのですが、作品を組み立てる際の考え方が、この2作品では大きく違う気がします。スリル・ミー と一緒に語られる事も多かったけど自分の中では、かなり別の存在でした。これはみる側が作品の何に着目して作品を分類しているかだと思うので、そう感じたことがとても面白かったです。
スリル・ミーの音楽 ~各ペアの歌の印象~
松下さんと柿澤さんのペアは2人でひとまとまりだったのですが、、、、成河さんと福士さんのペアは決して交わらない対岸にいる1人と1人。でも、双方ペアの歌の印象は全くその逆でした。
松下さんと柿澤さんのペアの歌は互いに独立していて、個と個のぶつかり合い。ソロアーティスト同士。おふたりとも歌に対して確かなものがあって、そこをあえてそのまま生かしたイメージ。
だから松下さんと柿澤さんのペアは、それぞれのピッチのクセ?とかも絶妙にそのままの所が多くて、お互いが等身大で個々だった印象(2回しか拝見していないので、本当に印象です)もちろん要所要所は、そのままじゃなくて重ねるようにしてたイメージ。
そのアンバランスさが彼らの関係性を明示しているようで。こんなにひとまとまりに見えるのに、2人は他人で、決して1つになどなれない。
対して、成河さんと福士さんのペアは本当に歌がまとまっていて、あえて楽曲の旋律を誠実になぞる事で、この演目が音楽によって表現しようとしたものをすくい上げて、とても丁寧に描写していた気がしました。
びっくりしますが、ここまで書いてまだ本編の感想はじまっていません!!!!!
M1~M2.隠された真実
改めて、この物語はピアニストの朴さんがはじめて、この方もまたこの作品の演者なんだな、と何となく思った名古屋楽でした。
朴さんが現れて、息を吸って、あの象徴的なメロディを奏でる。あそこはピアノに合わせて照明が切り替わらないといけないので、朴さんも大きくきっかけを作って、さながら楽器と演奏を始める時のような緊張感。
名古屋千穐楽は、私が下手から登場。
私が壇上に上がる際に天窓から自然光に似た白い光が差し込む事で、場の空気がサッと澄んで、舞台上に乾燥した審理室が浮かび上がって来るのが何とも言えないんですよ。とても宗教的で、時に懺悔室にも見える。この雰囲気は元々のスリル・ミーにあった要素なのか、栗山さんの演出によって描かれたものなのか。
話は変わってしまうのですが、欧米の友人に「日本人には神(唯一神的なニュアンス)がいないから、作品の受け取り方が、私たちとは違う」と言われた事があって。そういった意味で、日本人である栗山さんがこうした神を思わせるモチーフを使うのは、日本人なりの感覚なのか原作にあった感覚なのか気になります。
この冒頭シーンのBGM、スポーツカーと僕と組んでのメロディを踏んでいるので、「嘘」か「彼」を暗示する旋律なのかなぁ(想像
楽譜を見ても、あのスリル・ミーと比較したら驚くほどシンプルな楽曲の構成で、繰り返しの繰り返し。
逆に今、感想を書いていて嘘というよりは幼さ?も表れているのかなぁと思いました。ここの曲の楽譜、子供でも弾けるものすごく簡単な旋律なんですよ。それが段々、♯シャープも増えて来る。
無機質で美しいメロディにのせて私がしずしずと現れる。とりあえず、私が今も何かに囚われたままなのは分かる~!!
天窓を見上げる私。
成河さんの演じる私は、なんというか本当に…ハッとさせるように…ハッとするように振り返りますよね…。なんだろう。呼吸なのか視線なのか何なのか。舞台全体を引きで写していたカメラが、私が振り返った瞬間、一気に私へフォーカスを合わせる感じ。
思い込みに近い印象だと、成河さんのお芝居、もとい演劇人の身体のお芝居は点と点をカーブで結ぶような動きをされるな、と思う時があります。
止め絵と止め絵の間に動きがあるように見えるというか、少しデフォルメして、動作の情報を引き算しているから、とてもメリハリがあって、そこに視線が行きやすいのかなぁと。リミテッドアニメーション的、歌舞伎的?ダンスや所作の世界。
あと演劇の方は、正面(客席)に対する意識が物凄く高いですよね。意図的に背や真横を向く時以外は、必ず客席の端の席からみてどう見えるか、という姿勢が必ず行き届いている気がします。自然に見せているけど日常生活ではやらないポージングがちょこちょこあって、そこに在り方の誠意を感じます。
細かい表情をすごくみたいけど、これは舞台として演出が付けられているものだから、オペラグラスを通して見るより、肉眼で見ようと思って、目を凝らしてみる事にしました。
(※さいごがまんできず一回オペラグラスを使う)
「座って構いませんk「はじめます」
の録音音声とのタイミングが毎回神がかっていたのが音響スタッフさんの気迫というか、もう貴方が4人目の役者です!!感がすごい。3人目はピアノの朴さん。
このシーン、公演初期は天井から白の光だけで私の表情がよく分からなくて、歌う時だけ正面(客席後方)から顔を照らす照明がゆっくり差し込む演出だったように記憶しているのですが、公演途中で、最初から顔の表情分かるような照明になりました?か?(うろおぼえ
審理室で天井真上からサスが差していたのは、最初のM2シーンだけ(図左)で、後の審理室シーンは左右から照らしていた気がします(図右)。違うかも。
真上からサスで照らすのは、わざと表情を分かりづらくするためと、陰影・コントラストを濃くして年老いてみせる・白髪にみせるためもあったのかなぁと思います。過去公演の照明プランが知りたい…。なおこの後、図は出て来ません(余裕があったら追記したい
「何が知りたい?」は客席への問いかけにも聞こえますよね。「おはなし…します…」でポツリポツリと話し出す感じ。
ほんとに成河さん、こんなに柔らかくて素敵な歌声だと知らなくて、初日歌い出しの時にびっくりしました。「どうき…かくされたしんじつ」とか、完全にひらがなだったのに、歌い始めると、だんだん言葉の意味がのって饒舌になるのが…不思議!
逆に、松下さんの私さんは、おどおど?した中でも、とても朗々と歌われていて「これは歌を歌うひとの歌い方だ!」と感じました。アーティスト的な歌唱を経験されている方の在り方というか。ニュアンス伝わって…。
私の「なんだったのか…」こっちの台詞ですよ!!!!
このシーンの時、成河さんの演じる私が瞬きもせずに客席を見つめるから、なんだかこちらも瞬きをしてはいけない気がして、毎回視線が外れるまで睨みつけてしまいました。
「消せはしない重い罪を」あたりの、レのナチュラルはずるい。。
53歳で歌う時は、アレだけ下に筋肉を引っ張りながら、あのフレーズを歌い切れるのがすごい。どうなっているんですか。骨盤下あたりの体幹を支える筋肉がとてもしっかりしていて、背面の筋肉を使うのがとても上手そう。籠りやすい低い音色を、体の中で響かせるだけで終わらせずに、丁寧な息で前へ届けているイメージ。
かつ声を低く保ったまま、言葉の明瞭さと歌う音域も確保している。
言葉の明瞭さの担保として、ひとつ言葉の捉え方が挙げられると思うのですが、成河さんは多分、【僕だけ】という言葉があったら【僕】【だけ】の意味を分けて捉えてから、つなげるようなことを意識的にか、無意識に出来ている方だと思うんです。
ふつう細かくても【僕だけ】くらいの塊で捉えている方のほうが圧倒的に多いと思います。もしくはその違いを意識して捉えられていても、身体表現にのせた時にクセやテンポで大きな塊になってしまうか。
訓練による技術だけでは母音や子音がそれぞれあそこまで綺麗な音にならないはず…逆にあそこまで言葉に対して誠実だと、生きていくのがしんどくないですか…(おそるおそる)全部、妄想で書いています。
日常会話でも、言葉の意味と感情の境界を曖昧にしている人の方が圧倒的に多いので、そちらの発話の方が自然。
「重い罪を」 は、審理官向けには”子ども殺し”、内心では彼を死なせた事(子を殺した事への後悔は一切なし)と思ってそう。
「歴史の中に 埋もれてしまった事実は 今や誰のもの」
この歌詞!!!!劇中の世間への言葉と見せかけて、当事者が観客もメタ的にぶん殴って来る感じがあって!!!!!良い訳詞ですよね!!!
事件って報道されると、当事者たちの手を離れて、社会の共有物・消費物になってしまう所があるから、本人たちの認識と乖離が出て来る。あの独特の感覚…何て言えばいいんでしょうか。
もちろん社会の人々も事件の情報を受け取った時点で、第三者ではなく、何らかの物語の当事者ではあると思うんですけど。むずかしい。
「あの日二人見た、夢のような」で涙を零す私。自分が見た回で大体、成河さんの私は右目から涙をこぼしてるのですが、右目から流すのは嬉し涙、左目は悲しい涙という迷信を思い出して、ダメージを受けています。。ここ、左目から流した時があれば教えて欲しい。。。
あの日、“二人”見たと言っているから、わたしの中では「私と彼」で見た「夢のような眩しく熱い記憶」これが何にかかっているのか。私の中では、一連の事件のこと??それとも高校の頃の青春の日々?と思って悩んでいます。後者であって欲しい。
「前にもそんな事があった。」のところ、そんな事がどんな事か、各ペア、でそれぞれのエピソード決めてそうですよね〜教えて欲しい。「前にもやった事がある」含め。余白〜〜!
松下さんの演じる私は審理官の言葉にちゃんと答えようとしてて、成河さんの私は何処か他人事…回顧したり脳内イメージを見ながら言葉を諳んじてるイメージ。
成河さんの私は「壊れた船のように取り残されて」の”船”という言葉をなぜ印象的に言うんだろうと思ってたのですが、他の方の感想で哲学方面で何か含みのある意味もありそうだと知って、それでかなと。
成河さんの私に対して、松下さんの私は、深い後悔の念にいる。
「私のもとに戻って来ました」という言い回しが気になって、英語脚本を見たら「he came back to Chicago」という表現で、【私のもと】というよりは、【こっち=シカゴ】に戻って来たなのかなぁ。地名をぼかした結果ニュアンスが変わった?
そして、嵐のようなスリル・ミーの伴奏で場面転換。
M3.僕はわかってる
大きい劇場で見ると、引きで見るからか、より瑞々しい19歳の私が現れて驚く。背筋がピンと張って、若々しい。この印象の違いは姿勢のシルエットの影響と、身体の重心の取り方が少し上がったからなのかなぁと。
19歳の出現、余りにもアハ体験すぎて、最近会った50人くらいの人に成河さん演じる私のタイムスリップっぷりが凄かった!!という話しをしました(迷惑
松下さんの私は深くため息をついて、金時計を見つめて"彼"に意識が行ってるけど、成河さんの私は、「はー来ないなー」くらいで思ったら、視界に入った鳥にすぐさま興味を持ってかれる。
彼は登場シーンで客席正面に身体を向けて、一拍置いてから私に向かいはじめますよね。確か、柿澤さんの彼も福士さんの彼も。
あの一拍で、彼の存在を印象づけられた気がしてるんですけど、どうなんでしょう。。。。普通にお話を進めるなら、あんな不自然に客席正面で一拍止まる必要がなくて、真っ直ぐ私の元に歩かせたら良いじゃないですか。彼の存在感?を提示したかったのかなぁ。
18年12月14日の東京公演初日の時にも、この一拍で物凄く息を飲んで。
えっ、あっ、彼を演じられている福士さんって、こんなにスタイルが良くて格好いい方だったのか…(困惑)
福士さんは芝居が格好いいお兄さんというイメージが強かったので(完全にブログと極道めしの影響)、"彼"のビジュアルを生で見るまで、福士さんの容姿自体がきれいな事にピンと来ていませんでした。うわぁ。
たぶん、それにはダントツで身体にフィットした衣装の効果もあったと思います!衣装・前田文子さん…!とてもスマート。
彼が一番最初、私を驚かせるために抜き足差し足する所って、彼のキャラクターを提示する上で、とても大事だと思っていて。福士さんの"彼"も結構、表情と動きも込みで若い印象を受けて、なんて事はない、ただの19歳だと見せたかったのかなぁと(成河さんと福士さんのペアは19歳に見せることは最早諦めていた気もするけど)
このシーン、私があんなに目を見開いて鳥に興味津々だからこそ、彼が来た途端、私の関心が彼100%に塗り変わるのが辛い。私はどマイペース。彼もどマイペース。
彼を認識した瞬間の私のパァアアって表情を見ると、いつもポインコが出てきます。
わたしが「また同じ大学院に行けると」言ったのは、ここ繋ぎのフリですよね。なんとなく。”弟に聞いた”って繋げるための。
冒頭私の「待ってたよ…」が余りにも嬉しそうだから、「そんな言い方おかしいね!」あたりでキレ倒すのがかなり情緒不安定な感じ。この吐き捨てる?というか、挑むような台詞を合図にパワーゲームがスタート。
私の「だって、ただの友達じゃないだろう?」に対して、福士さんの彼が挑むように「(聴かせて貰おうか?)」みたいに私を一瞥してから、彼が視線を外すのがとてもすきです。M6.スリルミー の僕の目を見て!!の伏線〜!!
私が他の人のことを、”奴らども”、”時間の無駄”とまで言い切っているのは、世間に対するマウントなのか、対 彼コミュニティに対してのマウントなのか。
松下さんの私は、「そんな子たちと付き合って欲しくない!」おかん的なのを感じて、成河さんの私は「ぼくだけを!!みて!!」というただただエゴな感じ。
「でぇーも!ぼーくのもーとへ」みたいな、成河さんの歌っている時につかう話し言葉っぽい息の使い方や「一番、大切なーーーー”僕”のもとへ」「きーいーたーよーきーみーの”弟”っからーねっ!」の”僕”、”弟”の静かな強調が抜群に良くて、これが尺のあるメディアで残っていないの、本当にもったいない。
このタイミングの私って、私が彼にとって、”一番大切な存在”じゃない事は、心の中では分かっていますかね。どっちだろう。
彼の弟さん、ずっと小さいのかなって思ってたけど、溺愛されているのに金銭を要求する辺りで、中学生くらいにはなってるのかなと思った。アメリカ事情わからない。
「それくらいの事わかるだろ?」→\分かりません/
この演目、随所に「分かってる」って言葉が出て来るけど、全然分かってないまま進むので胸が痛い。。。
こんなこと私に言いたい放題言われて、あれ?この後、彼ってどんなセリフ言うんだっけ??と、舞台を見ながらド忘れしてたんですけど、そこに彼が「冗談だろう?」と言ってて「ですよね!!!」という感じでした。ほんと冗談だと言って欲しい。
英語台本だと「冗談だろう?」が「I've only missed the worship.」となっているのですが、どういうニュアンスなんでしょう。
成河さんの私の「待ってたよ…!」「車で出掛ける!?」あたりの台詞が本当に嬉しそうで、情緒が保たない…。光が強いと闇が濃くなるんですよ。。。
「頼みがある」以降の成河さんの私と福士さんの彼の会話、はちゃめちゃにテンポが早いし相手に聞かせる気が皆無で、ほんとうに勉強が出来て、話す対象にぜんぜん興味がない人たちの話し方で心の中で爆笑していました。シン・ゴジラに出て来る官僚たちの会話スピード。ほんとあんな感じ。
ガソリン、長めのマッチ〜とかの彼からの指示も、相手(私)が自分(彼)の言葉を傾聴し、かつ相手も頭の回転が速いのが前提の不親切なスピード感。松下さんの私と柿澤さんの彼はちゃんと会話のキャッチボールをしていたのに、福士さんの彼からのボールは完全に投げっぱなしで、成河さんの私が必死に這いつくばってボールを拾っていた。
キスシーンは、やっぱりこの作品を担っている1つの要素ですよね。本能に訴えるというか、見応えあるというか。ドキッとする。
同性と深い関係になるのは、どの時代においても個々人の自由という前提があってですが、やっぱり、このキスで二人の関係の異常性が示される。
ビックリしません????でした???か???自分ははちゃめちゃにビックリしました。マジか。え、こんなにするの?
彼が遊び慣れているのが分かるキス。ニコッと微笑めばすぐ女の子が寄って来るんだろうな!満たされることがないにしろ。
おぼっちゃまだった私が、はじめて悪い?事をするきっかけが彼だったのかなぁと何となく思いました。何か過去に決定打。私が彼に心酔する出来事がありそう。私彼年表が欲しい。
対して松下さんと柿澤さんペアのキスを改めて見たら、松下さんの私が積極的に攻めていてビックリしました。求め合う?みたいな表現使っても大丈夫ですか(おそるおそる
成河さんと福士さんのペアだと、私から彼の柔らかい所に(精神的にも肉体的にも)許可なく触れるの、彼は絶対に許さなさそう。もう片方のペアはキスの最後、松下さんの私が柿澤さんの彼のくちびるに手を触れていて、えーーーとなりました。対等・・・!
...
千穐楽に追加された演出?で、福士さんの彼が公園を去る前、マッチ箱を明確に私に対して数秒間、見せつけてから遠くに投げる…というのがあって。楽日にそんな変更あります????
その数秒間が明確に追加されたお陰で、舞台の照明が爽やかな夏の公園の木陰から、黒くまだらな私の心象風景に移り「ぼくっだけだっ!こんなーにもー〜わーかってるだろう…?」のくだりへ堕ちる様が本当にすごかった…。
落差の付け方が変わって、圧が違う。圧がすごい。強く深い。情念。頭の中で天城越えの誰かにとられるくらいなら、あなたを殺していいですかが脳内再生された。殺さないけど。
一本のマッチが、全てに火をつけた。が完全に意図せず彼が私に火をつけて大炎上な感じに。
松下さんの私はいつも項垂れている印象があって。ここで中年の私に戻った時も、首をもたげている…そんな印象でした。
M4.やさしい炎
松下さんの私が、最後ガソリンをひと振りする前に、持っていたタンクを振ってガソリンの残量を確認してて、おーとなりました。慌てているようにみせて、とても冷静。
成河さんの私は思いっきりガソリンを掛けた後に、ぶわっとなる火の粉の様子まで動きで表現していて、あの短時間にそこまでの情報量のせて来るの本当に凄まじいと思います。
彼の「きれいだ」が毎回どんなニュアンスで受け取ったら良いか困惑していて、千穐楽でも受け止めきれませんでした。上ずっているけど物凄く力が張った硬い息遣い。
話は変わるのですが、福士さんが事前のインタビューで「だって人間は本来、放火して人のものを燃やして喜べるようにはできてないはずなのに。」って答えてらっしゃって
面白い表現だなって。できてるって感覚。
このシーンで炎を見つめている時の成河さん演じる私の表情が、なんとも言えなくて、本当にここだけでも映像で残して欲しかったし、舞台写真でも良いから出して欲しかった。
このシーン、私と彼の表情の変化、目線の動かし方、手の角度というか、ぜんぶが本当に素晴らしかったんです。彼と私の視線の向こうに、煌々と赤く燃え盛る炎と、じわりと汗を垂らすような熱源。熱い空気の層に向かって、文字通り熱に浮かされ進んでいく様が繰り広げられて。
私がすごい…と炎に圧倒され
だんだん、炎に魅せられて私がフラフラと近付き
「「慰めてくれるー」」で彼に触れられた瞬間に、なにかの衝撃があった後
託宣があったように、力を委譲され浮かされたように私が炎へ向かっていく
この託宣は、メタルマクベスdisc2という舞台の、王の殺害を決意する時のマクベスの表情にも似たあの宗教的な感じ・・(唐突な他作品参照
「「慰めてくれる」」まで斉唱だったのに、「火の粉はじけて」からは彼が主旋律を私に明け渡して、下パートに潜るの本当に最高なんですよ。彼が上位にみえて、主旋律を担うのは大体、私。この時点でこの物語は”私”視点のお話ですよ~~~!!!と、こっそり提示されている気がしてゾクゾクする。
このシーンの情報量過多でめちゃくちゃ大好きなんですけど、以前、一緒に行った友人は「ちょっとしつこい」って言ってて死ぬほど笑いました。たぶん、友達は松下さん柿澤さんペアの方が好きだと思います。
ハモリのシーンで、下パートを担う彼の声量の方が若干、大きいのがとてもアンバランスで、めちゃくちゃ好きだったんですが、東京公演後期になるにつれ良いバランスになって残念でした。名古屋千穐楽は会場が変わって出力が変わったからか、またちょっとアンバランスに彼の方が大きくなっていて凄くよかったです・・・これは完全に個人的な好みの話です。
うっとりとしながらも、冷めるのは彼の方が早い。この冷め方に、なんとなく揮発、という印象を受けました。
「やさしい炎」の後、ノベルゲームの差し障りのない学園日常BGMみたいなの流すの、本当に人の心がない(褒めてる
M5.契約書
松下さん私の「驚かせてやろうと思って」に対する柿澤さん彼の「なんで?」の言い方があまりにもあんまりで笑ってしまった。
「お前がいなきゃ、ダメなんだ。」のセリフと全く噛み合ってない不穏な伴奏!!!!!
[君が、必要だ。]は18-19年スリル・ミーを表す最高のコピーだと思っているんですが、あんなにサラリと流されるの、ほんとに、ほんとにもう(好き
成河さん私の「はじめてだね。そんな事言ったの」なんですが、あんなに繊細な芝居を、あの精度で言えるの。すごい。
何十回も公演を続けているにも関わらず、さもこの言葉はじめて聴きました!みたいな新鮮さで台詞を返すの、本当に凄まじいと思う。どうなってるの。派手ではない、こういう細かい所を恐ろしい精度で縫ってくるの、とても怖い。色々なものが綯い交ぜになった喜び、困惑、おどろき、少しの興奮、戸惑い…、そしてそれらを感じる前に突き放した時に出たみたいな一言…色んなファジーな感情があんなに繊細にのっているの、本当にすごい。
契約によって手番という概念が生まれてしまったのが不幸のはじまり…
「契約書をっ!つくっ!てっ!………サイン!!」部分で成河さん演じる私の手合わせ(大阪昼公演で一回、復活)が、なくなっていました残念。
屈服?する前に、手を合わせるの、外界からの刺激をシャットダウンする感じがあるじゃないですか。あそこの私の内向きの逡巡とか葛藤が堪らなく好きだったんです。
どうぞ、って彼が手をやるときの足元~指先までの姿勢・角度が完璧〜!!
自室にいる時もナイフをジャケットに忍ばせておく、彼の厨二心が笑えるし、笑えません。
「血でサインするんだ」に対する「何それ」「僕だけじゃないよね」の私の言い方が、ほんとうに普通だったんですよね。純粋に疑問に思っている感じに聞こえるのが、逆に異常に聞こえる。もう普通も異常もこの演目にはない気がするけど、あえてそう言わせて欲しい。
「血の雫をくれ」のところ、甘さも優しさもなくなってて、ただ命令口調が抜けて柔らかくなっただけだった。甘やかさない彼。悪魔との契約、ごっこ遊び、見立ての遊び的な印象が強いです。
「前にもやった事がある」で挟まれる地獄のピアノ(1音)〜〜!
契約書ラスト、ためて~ためて~からの「「誰もっ!知らなーい~」」の所、D♭、Cのピアノ仕切りで空気を切り替えてからテンポを上げて、楽譜に沿って二人で歯切れ良く歌い始めるのがすごく好きなんですよ…。
楽譜に書かれたメロディやリズムにのる事がこのシーンを描写するのに適しているという信頼感あってのことというか。
ここに彼の下ハモ「タイプの文字がかすれても~」あたり、めちゃくちゃ下がっていく音階でよくこんなに精緻にピッチ取れるな(感嘆)
M6.スリルミー
このシーン、あんなに上手の彼が興奮して、うっとりした表情してたの知らなかったので、はじめて上手側でみた時びっくりしました。やばい人だ。
「だきしめてほしい」の前、成河さん演じる私は、自室の周囲を伺ってから、彼に迫るんですけど、松下さんの私にはそういった描写がなくて驚きました。真っ直ぐ柿澤さん彼の背中に迫るのかーーーー!えーーーこの差、面白くないですか。
成河さんの私は、周りを伺うくらいしたたかで社会性があって、松下さんの私には彼しか見えてなかった。
私の「今度は僕の番だ」という台詞の後も、彼の反応がすこし違って、柿澤さんの彼は、間(ま)のあいだに何かの逡巡があって、パシッと音を立ててライターを閉める事で場の空気を仕切り直してから、「そうだ…」と切り出す。
対して、千秋楽の福士さんの彼はガン無視して何の反応も示さずに「・・・そうだ…」と立ち上がって話し始めるので、そりゃそんな無反応は私も怒る!!!!という気持ちに。柿澤さんの彼は、反応だけはしてくれたのに。
千穐楽は、会場が大きくなっていたの700人規模向けのスリル・ミーの圧が凄まじかったです。。。。なんのスリルもない!
彼を覆う蓋が、とても重いように感じました。酸素を失って空気の中で溺れる魚みたい。手を伸ばしたのに引っ込めたり。彼の諦め、諦観のようなものが。
なんかあの拳を引っ込めないで、家族か何処かにぶつけていたら何か変わった気もする。吐きたい時、洗面器があるのに家族の前で飲み込んじゃうタイプの人。
これ千穐楽の記憶か曖昧なんですが、どうせ弟の誕生日だろ!って福士さんの彼が叫ぶ時、私は階段の手すりを握り締めながら、後ろを向いてるんですよ。
やるせ無い後ろ姿を観客に見せつけた後に、耐えきれないっっ!といった具合に勢い良く振り向いて「もうっ!我慢できーないっ!」って私が歌に入るんですが、振り返る時には私が涙を溜めてて、地獄度が増していました。なんなんですかあの緩急の付け方。先に彼に注意をひきつけておいて、音楽と振り返る動作で、一気に私にフォーカスを合わせて来る感じ・・・。
あんなに彼が弱さを垣間見せたのに、「これじゃあおかしいじゃないか!!!!!!」って自分の主張を叩きつけてくる私、本当にどっちもどっちだなって思います。お互いのことを見ていないにもほどがある。
私も「もう逃さない」って言うから、やっぱり彼が自分の側にいるのが”正”だとは思っていない気も
このシーン見ると、いつも出てくる言葉が「阿鼻叫喚地獄絵図」。
自分より身長の高い彼の胸ぐらを私が掴んだり、「やめろ!!」って引き剥がしたり、見せ場っていったらおかしいのかもしれないんですけど、それに対して何がしかのカタルシスを感じるの、本当に面白いなって思います。
「さぁ、壊してくれ!」は、私の自尊心が低さ、マゾ的なものかと思ったけど、"君であれば、壊されても構わない"ほど、僕は君に許しているんだ!!という思いの伝え方なのか。
成河さん私のオクターブ上げ「スリル・ミー」に慣れてたから松下さん私の「スリル・ミー」をきいて、えっっ!!!下がるの!!!???とびっくりしました。
過去の他ペアだと全部下がってます?ここの旋律だけは、やっぱり私の情動的に音階が下がるのはおかしいんじゃないかとかの議論になって、海外本家にオクターブ上げはありなのか問い合わせたりしたんだろうか。とても原本も大事にされそうな方々だからこそ、オクターブ上げに至るまでの過程が物凄く気になります。
音階が下がる方の表現を成立させようとすると、そもそも成河さんの演じる私の造形を根本から変えないといけない気がします。あの私だと、下げられない(想像
あんなに私に迫られて彼が「従う」「済まそう」って言葉で片付けるの本当に残酷。
彼が首を傾げながら(さぁ、お好きにどうぞ。お前はどうする?)みたいな挑発してくるの、本当…本当…。マウント合戦。。なんなの…。
「やだ」の怒りと悲しみが綯交ぜになったあの感じ。どういう生き方をしたら、あんなファジーなニュアンスが出来るのか全く分からない。
優しくなくて良い、という言葉が出るという事は、優しい時もあるということなのか(混乱
「だって、共犯者ふたり」の「だって」の言い方があまりにやるせなかった…。。。成河さんは歌のあたまやアタックで、話す時の息やポジション?を使っている印象があって、それも多分、ストプレに見える一因かなぁと思っています。
歌終わりの「スリルッ!ミーッ!!」の時、手を這わせた後、彼の首を切る手刀のような動きが、松下さんの私にはなくてビックリしました。
福士さんの彼は、成河さんの私の手が彼の身体ををなぞる様を見てるんだけど、それがものすごく他人事で、ぞんざいに突き放したような見方に見えるんですよね。諦めたというか。どうでも良さそう。
傷付かないように心を閉じたか、こんな目にあってるのは自分ではないと切り離した、虐待された子供みたいにも見えました。
松下さんの私は「彼の……友情が必要でしたから」の「…」の間は、凄く考えて、つっかえて「友情」という言葉をひとつ選びとった感じだったのに、成河さんの私はとてもぞんざいに「彼の友情が」と言い放っていて面白かったです。
成河さん、人物の価値観をすごく緻密に設定した上で、強調する言葉を綿密に仕上げて来ているイメージなので、すごくサラッと言っているという事は、成河さんの演じる私にとっては、割とどうでも良いことなんだろうなと解釈しています。
役の情動はその日の相手との会話を通して微妙に変わるから台詞の言い方や思考は変わるけど、その役が根本に持っている根っこの価値観はブレないように稽古で相当、入念に準備して来ているというか。
M7.計画
このシーン出だしの福士さん彼に対する印象は、ただただ傾斜。
ずっと主張するばかりだった成河さんの私が、ポツリポツリと柔らかく話すのがまた。。。。満たされていればこれほど穏やかな人=私であったんだなぁ。
契約のせいで手番という概念が生まれ、身体を差し出さないといけなくなった代償が、自分自身ってほんとにしんどい。。男女問わず嫌々やってても生理現象として身体は反応するから、心と身体がバラバラでとても自尊心が傷付くんじゃないかなと。
自分の身体なのに、自分の思うとおりにならない。えぐい。
彼もバイオレンスなんですけど、彼自身も傷つけられた子供であるというか。
でも、洗面器に吐けないタイプの彼だったら、自分が傷ついている事すらガン無視していそうだなぁと。その反動で暴力性が増してそう。言ったらアレですけど、夜の街にいる愛情に飢えた寂しがり屋の構ってさん、みたいな。
彼のジャケットを着直す仕草がいちいち格好よくて、こうして見ると演者さんは人を惹き付ける抗いがたいチャームをお持ちの方なんだなぁとただただ思います。
福士さんの彼の「殺人だ。」という台詞、物凄く冷たいんだけど、一瞬温度が上がった感じがあって。冷たく熱に浮かされたっていうのもおかしいと思うのですが、でもその相反する感じがとても好きです。
福士さんの彼がネクタイを成河さんの私の首に掛ける演出、実は公演初期はなかった説・・・ないですか。さすがにそんな演出したらノートに書いてるだろう・・・と思ってTwitterで他の方の感想を検索したら、年明け以降にネクタイを首にかける演出の感想が出始めたので、公演途中からの変更かもしれません。私も1月4日公演くらいからみた気がします・・・なんでそんなひどい事するんですが(ほめてる)気の所為かも。
ネクタイを私の首にかけるくだりは、松下さん柿澤さんペアには無くて成河さんと福士さんのペアだけ。幼馴染でもネクタイ持ち出してあんなことしたら、こいつ大丈夫か!?って、ドン引きだと思うんですけど、不思議と絵になっていた成河さん・福士さんペア。
千穐楽は、ポケットにしまったはずの彼のネクタイが一部、ダラリと垂れていて、そのことでさらに彼のアンバランス感が増してあわわ…という感じでした。千秋楽でネクタイがはみ出していたのは、演出なのか分からないけど、演出だったら本当に人の心がない(褒めてる
大阪公演から変更になった、「お前、以外で」→「ぼく、以外」の台詞変更。
このシーンで、私=ぼくだと、彼が定義していたのに
最後99年で、私が俺に塗り変わるの、本当にしんどいなと思います。彼が見ていた”僕”は、本当は”俺”だったんですよ…伝わりますかこのニュアンス…?オレの方がより強い雄だぞ、みたいな感じ。日本語訳〜!!
福士さんの彼が柔らかく「10歳くらいの、子供を狙おう。」と言って、成河さんの私がハッとした時に
(これはチャンスかもしれない。)って成河さんの私が一連の計画を思いついたような気がして、もうその後、その視点でしか見れなくなってしまった。
「(彼を手に入れるための)犠牲の羊」
「(彼を手に入れる)簡単なこと。」で、(そうだ…そうだ、簡単なことだ!!!)って一連の計画を思いついたような感じがして、2人が同じ歌詞で歌っているのに、意味は全く違って聴こえて情緒が死にました。
M8.戻れない道
この曲の入り、お手本みたいに私が綺麗に歌うから、「遅かった…」から、だんだん崩れて感情滲み出てくるのがエグいです。。
この歌の最初のお手本感と、そこから段々、崩れていく感じの表現、合唱のソロから独白に変わるような印象をずっと感じていて。
何がそう感じさせるのかと考えてみると「こーこーはどーーーこかっ」の所、たぶん成河さんの私が頭から真っ直ぐ抜ける若い学生さんみたいな発声をされてそうだったので、手垢のついてない、まっさらな感じで耳に入って来たんだろうなと。素直に頭に音を逃すから、少しピッチが高くなるのとビブラートが掛からない歌い方。リプライズの方が顕著だったけれど。
53歳になった時はビブラートを入れて、密やかだけどバリバリ歌い上げる方向に。
成河さんの私が「あまりに遠くまで」をとても丁寧に丁寧に歌っていたから、凄く耳に残っていて、日本語タイトルは「戻れない道」だけど、大切にしているのは英語原題の「Way Too Far」の精神なのかなぁと勝手に思っています。
「このロープww俺が言ったのより細いじゃないかww」の柿澤さんの彼は、本当にクソガキという感じで、何が面白いんだと突っ込まずにはいられない。事の重大さがわかっていない若さ。人殺しも盗みも大して変わらない。
成河さんの私の「歩いてた…」以降のメロディーとピアノの旋律、舞台から私は一歩動かないのに、森の先にある破滅の崖に向かって徐々に駆け出す私の心象風景が浮かんで来る感じ(定期
「そう」の後の、かそけく消え入りそうな静けさからの「信じてた」は本当に美しくて地獄。
この曲、ほんっっっとうに凄まじく綺麗ですよね。読売大賞の歌唱披露もあったけど、曲単体でも何らかの形で歌い継がれて、色んな方に歌われて欲しい名曲。
M9.スポーツカー
柿澤さんの彼は青くて、楽しくて楽しくてしょうがない感じ。滲み出る残忍さ。
福士さんの彼が子供から目を離して客席を見るとき、東京では”冷ややかで在る”所から、大劇場用に”冷ややかさを放つ”ようになっていた気がして、情緒が死ぬ。
このシーンは初日から物凄く完成度が高かったです…!!
あの、子供を惑わして、福士さんの彼のくるっと回る時の身体の使い方がなんとも言えず好き。
子供が普段、親御さんに「触っちゃだめだよ」と言われる鍵(スリル)をキラキラと彼の手によって、見せつけられ、手を伸ばしてしまった、ほんの幼い子供心を思うと、ただただ切ない。と、同時にエブリバディウォンツな彼に見入ってしまう。
スポーツカーの終わりに、舞台上の色がさっと塗り変わって、あの照明器具が位置を変える音が鳴るの、ゾワッとします。
あれはどうやって制御してるんだろうと思って、調べていたら丸茂電機 シューティング機能付調光操作卓という代物があるらしくて。機材の説明書を読み始めてしまったので、もうこの感想書き終わる気がしません。。。仕込みと操作風景みせて欲しい。。。
M10.超人たち
この曲はまさに音楽!だと思っていて、すごくリズムやテンポを大切にしないといけないシーン。この曲は明確にカウントを感じました。表どり?っていうんでしょうか。表拍の1拍目と3拍目をとても大事にしないといけないやつ。
楽譜にある前奏の指示はStrong and Lively(生き生きと)。人の心がない!!(褒めてる
柿澤さんの彼ってあんまり罪の意識はなかったと思うんですけど、福士さん彼って、悪いとは思ってないけど、しでかした事の質量を、ちゃんとわかってる感じ。
松下さんの私は、ホール客席のだいぶ中程まで飛び出して来てビックリしました。
「「証明したんだっ!!!」」あたりで、ふたり確か客席正面向きましたっけ。あのリズム感が毎回たまらなく好きです。
「証明した」で福士さんの彼と成河さんの私がぶつけあうんですけど、ここで、”何”を”証明した”のか二人の中でまったく意味が違うんじゃないかって、頭を抱えています。。
福士さん彼が上下(かみしも)で移動しながら「手に触れたもの、全部拭け!」の”ぜ”で手をあげて「ぶ」あたりで指を差す動きのテンポ感。ほんとうに好きです。公演途中から、特にアタックの付け方が綺麗になって、すごく場の集中力が増した感じ。
「しっかりしろ!」の「ろ」の音程、低く潜るから福士さんの彼の音域では感情出しづらいと思っているので、ここは台詞テイストに逃しちゃっても良かったと思うんですが、あえて過去公演、ずっとメロディラインに添って歌っていたので執念だなとおもってました。ただメロディラインで歌っていた福士さんの彼が、千穐楽ではじめて「レイ」「しっかりしろ!」が台詞っぽいニュアンスになっていて千穐楽の熱…!とゾクゾクしました。
このシーン、キチンと成り立たせるには理性でコントロールするのと感情の衝動の真ん中ギリギリを上手く攻めないととっ散らかってしまいそうだなと思っていて、やっぱりあのお二人は技術的に成立させていた印象がすごく強かったので、心だけで振り切るとっ散らかったバージョンも見てみたかったです。
いやほんと、何かの勢いで、音程リズムとっ散らかるくらいただただ感情赴くままにやる所も観てみたいな~~~!!と思っていたのですが、やっぱり爆発力があるようにみせながら、最後まで凄く精緻で丁寧に作り上げていたイメージ。
彼が「ミスなど一度も覚えはない!」と首を振りながら私に向かって言い聞かせる彼が凄く好きです。
「誰か見られた!」からの伴奏が本当に秀逸で!!!ドッドー、ドッドー、の伴奏がどんどん音色が足されて、音階が上がっていくのが本当にカタルシスなんですよ~!心臓の音みたい。アドレナリンドバドバ。
もう戻れーなーーーい!英語歌詞が、「戻れない道」の原題である「way too farーーー(あまりに遠くまで)」となっている事に気付いてグッと来ました。
特に成河さんと福士さんのペア、異常な興奮をクレッシェンドで最後に集約していたというか。あの力場の作り方すごい。ラストのロングの後、息をぜーはーしていたのは成河さんと福士さんペアだけだったような。
福士さん演じる彼は、スリルを犯した直後はいっぱいに満たされるのに、フッと揮発して空っぽになってしまう印象があります。
史実だとこの後、二人で外食したってというのが何とも言えない。
成河さん演じる私が、このシーンで子ウサギのように顎をガクガク震わせているのが凄く気になって、詳しそうな人に訊いてみた結果、顎ではなく首後ろの筋肉を過剰に緊張させることで、連動して顎が震えさせたのかなぁという結論に。ただ、これたぶん上手くやらないと連動して内側の筋肉も引っ張られて過呼吸になりそう…。
そこからすぐ身体を切り替えて53歳モードに出来るの、どういう身体の中身をしているのかが分からない。緊張と弛緩が抜群にお上手なんだろうな…!
この曲を歌い込まれる福士さんのブラッシュアップが凄まじくて、本当に見応えがありました。
M11脅迫状
「おかしいな」で私が、他の人から明確に分かるように私が私の身体に手を添えてメガネを探すのが、本当に見せつけている感じで。彼に見せるんじゃなくて上手側で客席正面を向いて観客にに見せつけていたのが、この…この…(怒
福士さんの彼の「どうした?」発言が余りに自然だったので、私も彼も心が満足してる時は、あんまり装わなくて良いんだなって思うと泣きそうでした。
「息子の命」の歌い出しから二人の声がピッと寄り添いながら歌うから、本当に二人で一人みたいな声になりますよね。。。。
回を重ねる毎に精度が増して、明確に出力を合わせて、お互いにピッチを重ねていた印象です。最初からあそこまで合うの本当に凄いと思うんですよ。
声の相性が良かったのもあると思うんですが。19歳で歌う時はポジション高め?に作っていた成河さんの私が、福士さんの彼と2人で歌う時に結構、微調整されていて(たぶん)。斉唱の時とハモる時でも、シーンによって絶妙に音のポジションを変えて、福士さんの声に馴染ませるようにしたり、あえてぶつけるようにしたりしていた印象です。ご自身の身体表現に対してあそこまで自覚的であろう方は、舞台でも映像でも余り見た事がなくて、純粋に凄いなと思います。
彼が「俺が誘拐されたら親父はどうするだろうな?」と言うのは、すごく唐突だなーと思うんですが、そもそも私の回想なんだから断片的でもあってるのか〜!!背丈の大きい福士彼が拐かされる様が想像つかなくて、ちょっと笑います。
でもうちはどうかな(悲しさ
世間体のためだ!(やるせない怒り
の彼の落差~~~~~!!!孤独~~~~~!!!
わざわざ苦しみ喘ぐ彼に対して、私が上手側・彼の真正面に移動してから「うちもきっと出すと思うよ!」と宣言するのをみて、小さい頃から、彼がわざと家族から孤立するように仕向け、私に嫉妬させ、侮らせ、依存させ続けたのは、やっぱり"私"かもしれない、とも思いました。
M12眼鏡/大人しくしろ
姿勢と角度、態度と「わるかった」の言い方含め、1mmも悪いと思ってない彼!!!
結末を知った上で、この歌を聴くと二次情報が多すぎて目が足りないので結末を忘れてもう一回見たいです。
「それに僕の"めがね"!」「"警察"に自首すれば!」あたりの、私の"相手に聴かせてやってる感"が凄かった〜!!
下手が彼が歌っている時、光量が少ない中で歌っていない、待機している時の冷めた目をした私。そんな”無”の状態から、息を吸って、瞬発力をあげて、彼を詰る言葉を発する私は、本当に狡猾でしたたかにみえました。わからない。狡猾にみせているだけなのかもしれない。
成河さん演じる私の切れ味がものすごく良くて、千穐楽は特に福士さんの彼が動揺して、ガラガラ崩れ去る様がリアル。
だんだん、テンポが上がって、狂乱っぷりが増していく。
M13あの夜のこと
「とても驚きました」の台詞のあと、暗転する前にカンマ1秒、差し込まれた松下さん私のニヤッとしたあの笑顔!!!!えっ!!!ちょ!!!!あ!!!ええ!!!??え!!!!!?????大丈夫、差し込むの今のカットであってますか??????彼もまた狂気の人だったということかと動揺しました。
スリル・ミー全体で、このシーンだけ担う役割が少し弱い気がして、いつも印象が薄いです。
私の部屋でのやり取りって所がまた良いですよね!ここら辺から、もうじわじわ私に主導権握られている感じ。痺れを切らして彼の方から私を訪ねたに500票!!!「弁護士なら俺がいる」宣言、毎回ジワジワきます。幼くて滑稽な印象。
ピアノが大きくなっていって、わたしがキッと顔を上げて、警察に言う時の歌い方が、すごく話し言葉の時の音を使っていてすごいな、と。
キッと警察を見た後に、私が項垂れるのがなんとも言えない。。。
M14.戻れない道(リプライズ)
私が「兎に角、うちに戻ろうよ!!!!(えぐえぐ」としてて、ほんとにかわいそう(棒
成河さんが演じる役のテンポ感ってスリル・ミーに限らず、ほぼまったく違和感を感じないのですが、このシーンで「待てよ!!!!!」って叫ぶとこ。あそこだけ、生理的にちょっと早く感じていて、この自分の感じた違和感が逆に印象に残っていて、何でだろうとずっと考えています。
「お前は……………最低だ。」の彼のセリフ、お恥ずかしながら、彼がどういう意図でこのセリフを言ったのか未だ分からず、、、、1/4頃の頭が良い2人回は、「(お前だって散々、俺を利用して楽しんで来ただろう)」ニュアンスで、自分の解釈落ち着いてたんですが、最近はその感じも薄れていて何だろ。
「こーこーは、どーーーーこーーか」心もとない、迷子みたいな、無垢な声で歌うのやめて!!!!!!
成河さんの表現の巧みさをこういう細かい所で垣間みる気がするのですが、気持ちだけ作っても、絶対あんな歌い方にはならないじゃないですか。過去、「無垢」に聞こえたものを、ちゃんと自分の引き出しに入れて、自分の体で試して、舞台にのせている感じ。型に囚われる怖さがあるのに、きちんと使いこなしていて凄い。
M15.僕と組んで
この部屋にぶち込まれても福士さんの彼が冷静な時が一時期があったのですが、だんだんまた焦ってみっともなくなって来ました。
「警察がそんな事を…」(間→逡巡)の、彼の表情込みの切り替えほんとにいいですよね…!好き。
このシーン、私が、すごく人間っぽかったです。人間に、人間っぽいってのもおかしいな。公演初期はすごく私が他人事みたいに話していて「悪くない取引だろう。」も私ってば壁に向かって話してるのかな????と感じた時もあったけど、、今回は福士さんの彼に、ちゃんと背後にいる彼に話し掛けていた。
この話しかける感じが意図的なのか、劇場が大きくなったことで、少し表現が大きくなったから結果、相手に話しかけているように聞こえたのか、自分の単なる妄想なのか、どれかは全く分からないです。
初日の頃の福士さんの彼、ほんとレイのバーゲンセールという感じで、何の心もなくレイレイ言ってて、レイの大盤振る舞いだったんですけど、だんだん公演を経るにつれ、みっともなさにバリエーションが出て来て、「な!きいてくれよ!」「しょうがなかったんだ…!」みたいな言い訳がましい感情が、上擦った「レイ↑⤴︎」に、すがるニュアンスとして乗っててぐっと来ました。
ここで、スリル・ミーのメロディーを差し込みながらキスをするのは、さながら私の撒き餌のようで「(かかった!)」という感じ。
分かってるだろう?これで離れられない、逃がさない…みたいな。互いに己を人質にする無茶苦茶な人たちだな…(褒め言葉
その後、彼を制止した私へ、彼がみせた「ぇ…」って表情と私の「わかったよ…」の、か細さ。が両方!!!しんどい!!!
松下さんの私に「わかったよ」と言われた後の、柿澤さんの彼の座り方・姿勢が、あまりにも横柄なクソガキ幼馴染感があって、福士さんの彼とのあまりの落差に吹き出しそうになりました。この後に及んで柿澤さんの彼、そのハートつよいな!!本当に状況分かってないな!!
福士さんの彼もとてもみっともなくて、とても良かったです。
「いいよ、そしたら一緒に絞首刑だね」の言葉に対して、真反対のポジティブニュアンス!!!!
形容し難いファジーな表現を成河さんが台詞に乗せてくるの、本当に凄いなって思う。
M16.死にたくない
このシーンから福士さんの彼が腕まくりしてるのがシャープで好きです。柿澤さんの彼はM15 僕と組んで から腕まくりしていました。そう思うとやっぱりはちゃめちゃに余裕がある柿澤さんの彼。
死にたくないの一連の動きはダンス的な振り付けなのかなぁとぼんやり思っています。三拍子なので死神とのワルツみたい。主導権は死神側。
福士さんって本当に魅力的な俳優さんだと思うのですが、特にチャームが際立つのは、惨めで、みっともなくて、情け無いシーンな気がしています。
追い詰められているから、いつも器用に見せている面が削ぎ落とされて、よりクセ?というか個性が出やすいというか。それが、他の方には出せない味になっているような。叫びが福士さん節(ぶし)。
柿澤さんの彼は、男の子!という感じでした。
M17.99年
私の「そっか知らなかった。(そういえば、君の今の夢も知らなかったな。まぁ、どうでもいいか。)」みたいな諦観を感じる99年。
成河さんの私の「同じ場所で過ごすんだよっ!」の言ってやった感~~~~~~!!!!!ずっと、ずっとこれ言いたかったんだな!!!というのが伝わって来て「ずっとそれだけが望みだった」につながって、何なら彼と出会ってからずっとこれ言いたかったくらいに感じました。
この後の間の使い方が、本当に残酷で情緒が死ぬ。
もう離れられない(ニコっ
「君を僕の"もの"にするためだ。」で、わざわざ、毎回私が、”もの”を強調するの。すごく、すごく残酷。最早、彼のことを対等ないち人格として扱ってなくて、「私」の所有物として「彼」を定義していて、あぁあぁ。
ここ日本語の台本だと、「物」なのか「もの」なのか教えて欲しい。あんなに”もの”を強調したのに2回目の「僕のものだ…」つぶやくようなニュアンスに変わってたのは反則じゃないですか。やめて。
「まだ分からないの」が「君ほどの人がわからないの?(困惑」のニュアンスに聴こえました。
「わざと落としたんだよ 」で私の言葉が、顔と声込みで彼にベチャって張り付く感じ。わざと?ビックリし過ぎて、思わず反芻してしまう彼。「捕まるために…?」の時の彼の表情だけで血の気がサッと引いていていった感じが伝わって来て、すごく良かったです。
判決は出た。裁判とゲームの結果
「離れない、離さない。」あそこやわらかく、私がクレッシェンドみたいに寄ってくるから、彼も後ろに下がるしかないんですよね。人間の生理~~~!!!
成河さんの私「"勝った"のは、僕だ!!」の言ってやった感と、吐露のようなニュアンスを両立させてるの本当に凄いな、と思うんですがどうでしょう。。
「死刑になってたら!!!!」の彼の殴りつけて来る感じと、それを受けての「一緒に死ねるならっ!…………それも悪くない」が本当に泥臭くて、人間くさくてね…。
さいご、「死ねるなら↓」じゃなくて「死ねるなら↑」だったんですよ。日本語の語尾は、音階が下がるのに、そこが生理に反して音階が上がる時って、それだけこみ上げて来る何かが無いといけないので、とても……とてもしんどい。
からの、「悪くない。」ですよ、悪くない!!生き死にを前にして、「悪くない」って!!!日本語訳〜!って感じある。
英語シナリオは
As long as We were together.
僕たち一緒なら(死刑だって構わない)
みたいなニュアンスなのかな。それも悪くないって訳すって。えええ。
成河さんの私の「一緒に死ねるなら、それも悪くない」は、初日と両極端。初日は祝い、千秋楽は呪い。
99年の私、初日付近のアプローチも結構、好きだったんですよ。
「刑務所の看守なんて、金でどうにでもなる」が、あんなに恐ろしくニタァってなったのも、確か公演途中からだったと思います。初日は成河さんの私が聖母のようだったんですよ…。初日は本当に引き算されて、超越した、人間以外の何かのようでした。
段々、公演を経るにつれ、人間みを帯びてきた、、、というか、彼の言葉・感情を受けてシンプルに台詞を言うようになったような気がします。
わたしがニタァって笑うのって、もの凄く筋肉を使うから、ここは私の本性が現れた!というよりは、単に彼の事を怖がらせたかったのかなってちょっと思っています。真の狂気って、子供みたいに素直な笑い方になるはずなんですよ。悪い、なんて1mmも思わないから。
だから、ひきつったり、何か違和感のある笑いが出来る人間は、理性や常識という概念を知っていて、あえて踏み込む人なんじゃないかなと。
理性や社会常識を知った上で、実際との差が可笑しくて笑っていたり、見てる人に笑顔を見せつけて恐怖心を煽るために笑っている…イメージなので、このシーンは私自身の隠していた本性が出たというよりは煽り芸じゃないのかなって疑っています。君を怖がらせたい。
福士さんの彼の「いかれてる。」は、彼が完全に弛緩して言うんじゃなくて、一定の力を保って喋っているのが、いつも印象に残っています。
もっと深く息を吐き出しながら、ため息混じりに自分へ言っても良い台詞じゃないですか。なのに、毎回とてもフラット?に近く「いかれてる。」と言っていたのが、なんでかなって。ここ、柿澤さんの彼がどんな風に言っていたのか、意識して聞けば良かった…。
ただ力は保っている所にある種、思考の一時停止・諦観は感じました。
ここで弛緩しちゃうと、私に対して完全に負けを認めてしまうので、そう意味では最後まで彼は見栄を張ったというか、反発する意思があったのかなぁと。
レイ、で客席を向きながらシニカルの笑うのが、私に対して「残念だったな」と言う感がちょっとあって良かったです。認めよう、と言い方も能動的な動詞ですよね。評価を下す主体は彼自身。
「君を認めよう〜孤独だひとり」の表現も、どちらかというと彼は、私に自分のことを明け渡さなかったじゃないですか。
あと君を認めようで彼のパートに入ってから、たぶん、曲の調が変わって「やさしい炎」と同じ調になりますよね。ここ、意図的にリンクさせているかは分からないんですが、なんかしんどい。
二人でハモる二発目の99年は、少し音域?が下がるの、いつもなんで下げちゃうんだろうと思っていたんですが、改めて楽譜を読んでみると、あれはピアノが最後に低い音程から上の音へ一気に駆け上がるためにしゃがんだのかと感じて、改めて作者さんエゲつなさに拍手しました。
ここくらいから、もう自分が泣き過ぎてて舞台が若干見えづらかったです(ぽんこつ
(ここで我慢出来ず、オペラグラスを取り出す)
福士さんの彼→涙ぐんでる
(あたまをかかえる)
「まさかお前…っ!」で、眼鏡だけじゃなくて、何から何まで私の仕込みだった!とピースがハマったようなイメージ。恐怖だけではないと思うんですよ…なんだかよく分からない感情だった気がする。混乱が近い。何だかよく分からないけどなみだがでる、みたいな。マーブルっぽく見えた。
柿澤さんの彼は震えながら踏み外さないように階段をのぼっていって、私に酷く怯えて可哀想に…。いや、やって来た事はぜんぜん可哀想じゃないんですけど。目の前の幼なじみが突然、なにか得体の知れない怪物になってしまった感じ…。柿澤さんの彼は凄く青くて若そうだから見えている世界が狭い分、世界がひっくり返ったように思えたんじゃないかなと。完全に妄想です。
対して、福士さんの彼は、ちゃんと俺たちと世界を切り離した上で、"私"に対して畏怖と恐怖と、あと何かよく分からない色々な感情が渦巻いていた感じ…。
「永遠にー」では、成河さん私は微笑みを湛えていて、あぁ、千穐楽は笑顔にしたのか、、、と油断してたら最後の「永遠にー」の「にー」で笑顔がふっと消えて、目力がある表情に切り替わってた気がしたんですが、皆さんいかがでした。。。(記憶がおぼろ
その後、せり出して来るところからボロボロと泣き始めて、あんなに、歪んでそうな中年に切り替わるのがほんと、ほんと、何なんですか。
最後の福士さんの彼のレイは、甘い、優しい呼びかけになっていたので、「私」は、本当に「彼」という人格を見ていなくて、自分が偶像化した都合のいい彼を求めてたんだろうな、と思いました。
社会派とはなんだ
全体見ると、何でここ、この表現なんだろう?みたいな疑問、表現の部分を執拗に見てたのですが、社会派の作品というのも何となく分かる気がします。社会の中であぁなってしまった彼らと、あぁなった後の社会と彼らの付き合い方と。
”法律を使う”という意味では、私は見事に刑罰の仕組みを逆手にとって鮮やかに使い切ってみせた。制度の限界を示唆する作品でもあったような。
刑罰や法律などの制度は人が作ったものなのに、それをどう使うかを人間が学んでいく不可解さもあったり。
自分は機能的な仕組みやルールをとても愛しているのですが、同時に限界と無力感も感じているので、そう思ったのかも。
刑罰制度に関して、個人的にはなんとなく結論を出していて、加害者に反省を促す機能はなく、殺された子供の親御さん側から”加害者を殺す”という選択肢を選ばせないため、社会の憎しみの受け皿のため、犯罪への抑止力(明確な不利益)として存在していると思っています。
加害者が「反省しています」と口では言いながら、法廷では罪が軽くなるよう振る舞うケース、加害者にも苦しい物語があって恨むに恨めないケース、加害者が明確な意思を持って行為に及んでいたことが、ただ分かっただけのケース。それぞれに対する救いは何処にあったら良いんでしょうね…!
被害者側は時間をかけて、自然治癒していく以外の有効なプロセスが思いつきません。これはある意味、取りこぼされた仕組みの不備だと思うし、もう少し何とかしようがあると思うので、被害者へのアプローチも、加害者へのアプローチも社会全体でアップデートしていって欲しい(これでもかという脱線
終わってみて
初日でスタンディングオベーションなかったんです。成河さんと福士さんのペア。その後、凄まじい勢いでブラッシュアップされて、本当に素晴らしいものを見せていただきました・・・(拍手喝采
開幕前は松下さんと柿澤さんのペアもちょっと観てみたいな、と思っていたんですが、チケット一般で全く取れませんでした。初演ペアすごかった。
有り難いことに松下さんたちのペアも譲渡頂いて東京でも観る機会があったんですよ。松下さん達のペアも観ておかないと千穐楽で観て、後悔するのが怖かったので本当に良かったです。これで演目に固執しているかどうかが分かる!!と思って。
東京でみた松下さんと柿澤さんの回は凄く後味に寂寥感があって、大変良いもの見せて貰った…という感じで…見た後にフライドポテトを食べる元気が残ってたんですよ…。
裏を返すと成河さんと福士さんのペアの描く、よく分かんなさがめちゃくちゃ好きだったんだろうなと。
成河さんと福士さんのペアは全力フルスイングで情緒を殴って来て、食欲無くなるし毎回過呼吸気味になるくらい泣くし、もうぐちゃぐちゃで意味が分からなかった。
何なのか分からないから、あれは何だったんだってずっと考えているし、きっと分かることもない。それでも考え続けるんだと思います。何だったんですかあれ。
成河さんと福士さんがあの時の年齢でガチンコペアを組んで、殴り合いみたいな美しい旋律のピアノ1台2人ミュージカルをやるって、もうそんなの自分が生きてる内に二度と観られないかもしれないじゃないですか。ぶつかるのか、噛み合うのか、食い合うのか何なのか。
成河さん、福士さんは根底にある心も大事にしながら様々なジャンルの表現を咀嚼して、後天的に自分の中に落とし込んでいる方々だと勝手に思っていて、そんなお二人が演出家とピアニストとその他大勢のスタッフさんたちと、どんなお芝居を作るのか。
そこに18年スリル・ミーのモノクロビジュアルが投下されて。
若手実力派俳優の2人芝居という打ち出し方で、あのザラザラとしたビジュアルが出て来るの、個人的には違和感…というか物凄い衝撃でした。omoshii magのインタビュー写真を見た時に、普通こっちだよね!うん!みたいな気持ちになって。
その違和感から、きっとものすごいものを見せて貰えるんだろうな、というスタッフ勢の並々ならぬ覚悟と気概を(勝手に)感じました。
その確信を信じて良かったです。凄く良かった。本当に凄かった。
感想も!感じたことをひたすら書くのが、本当に久しぶりでとても楽しかったです。自分の中に、まだこんなにたくさん言葉や感情があるなんて知らなかった!!!
自分は与えられた仕事に時間を割いて来たので、改めて自分個人の衝動や興味関心って何処にあるんだろう…と、そんな青臭いことに、この作品を通して向き合えて、とても面白かったです。
観劇の感想をほぼ毎公演書くという事
=観劇回数も世に晒すということで。
何とか…その情報、感想書くことから切り離せないかな!!!???って思っていました!!!!!(離せません
はてなとかアメブロに分けて、別人格として書くことも、割と大真面目に考えました。なぜ切り離せないかと考えていたか振り返ると、この演目を多くの方に見て頂きたい方々の意思に反している事や、ご覧になりたい方が他にもたくさんいる中で、わざわざたくさん行った事を書くのどうなの???って方もいるかも、という気持ちがあったんだと思います。自意識~!!
あーぁ、ほかの舞台の時は、あんなに心置きなく通えたのにな~~~~!!!(大の字
いわゆる愛好家的な側面で、この作品が好きなのか?と自問自答したり、でもこの作品をそう意識していらっしゃるのは、実は男性の方が多かった気がしていて(芝居終わった後の客席の反応・発言とかみていると)
客席の多様性って何でしょう。そして、客席が一色だというなら、なぜこんなにもこの作品を観て孤独を感じたんでしょうか。
人は演劇を通じて、社会と出会い直し、何かとの距離をはかったり、社会での自分の立ち位置を改めて知る、と個人的には思っています。
そう考えると、書けば書くほど、自分が持っている物差しや思考と向き合わなければならず、正直に感想を書けば書くほど、社会との距離がどんどん遠のく気がして、その過程がはちゃめちゃに孤独でした。
これ言語化している今も凄くザワザワする!!!いやでも出来る限り書き残しておきたい。
この舞台がとんでもないもの見せて来たから、自分は、今、どんな手段で殴られたんだって確認したくなっちゃうんですよ!!…なんだったのか知りたい…手掛かりが欲しい…。
観る側のプレッシャー(に自分は感じた)の掛けられ方もすごかったんですけど、ただものすごくみたかった。
「多ステ」、「沼」、「熱狂的」、この状態を指す様々なカテゴライズ・ラベルがあるのでしょうが、それよりももっと手前の衝動、ものすごくみたかった。
息がしたかったら、するじゃないですか。なんかほんとその程度のことなんですよ!!!
このものすごくみたかったシンプルな気持ちと、この舞台で見せられたやばめの感情は、一部、通じてそうな怖さがあります。
自分の気持ちや衝動に正直に従う、という素晴らしい試みの結果が、彼や私だったりする訳で。その自分の中に潜む欲求と向き合うのも酷くストレスがかかって、面白い体験でした。
気が狂って通っていたと言うには、かなり周到に準備をしていたし。冷静に考えてほしい、社会生活を成り立たせながら、あのチケット申し込みに至るまでのあらゆるタスクをこなしている人たちは、みんな気が狂っているというよりは、実はとても冷静なんじゃないかと!
きっと熱狂的、と括られている方々の中でこの演目に見出したものはきっとそれぞれ違うし、その違いで浮かび上がって来たものは、きっとその方だけの愛おしいものなんだとおもいます。
自分のこの衝動が、誰かのつくった言葉で簡単に定義されるのは、個人的にとてもさみしい。もうちょっと名前をつけずに持て余したい。
この舞台を観る!と決めた事は、自分の人生の中で、最良の選択のひとつだったし、これはもう本当にタイミングと巡り合わせというか、人生でそういったものに出会えるのは心から幸せなことだし、これはきっとそういうものだろうと、自分の中の衝動と向き合えて、本っっっっ当に良かった。
それはチラシを用意したり、チケットの販売スケジュールを告知して下さったり、若手俳優2人と銘打ちながら、あんなザラっザラのメインビジュアルを打ち出す事を決めたホリプロ関連のスタッフさん、また布教をされていた既存のスリル・ミーファンの方々、あと自分が気づいていないたくさんの方々のお陰もあるので、こんな凄い作品に出会わせて下さって、本当に有難う御座いました。
出来ればまたいつか、そう思えるものに出会える事を願いつつ、時々、禁じられた森を彷徨っていきたい。
もっと歳を重ねたら、もうちょっと書ける言葉が増えたらいいな!と思います。
スリル・ミーの一連の感想は、限界過ぎる自分のために書いていたんですけど、アクセス数を見た時に、自分がお会いした事のない方もご覧になっていて、みなさんこの演目にひとかたならぬ思い入れを持ってらっしゃるんだな、、と感じました。
まだ感想書き足りない方がいたらぜひ書きましょう!読みたいです!!!!一年経ってから、こんな長い感想書いている人もいるので大丈夫!!!!!!
100人いたら100人とおりの感想がある訳で、その100とおりの感想・見方がとても気になります。
壁打ち、ダダ漏れ、独り言、とあらゆる前置きと予防線を貼りながら、なぜ人はこうして感じたことを野ざらしにしてしまうんでしょうね〜〜!!そんな欲求に向き合うのも、とても新鮮でした。面白い!!
この一連の感想を書いたおかげで声をかけて下さった方もいて、とても嬉しかったです。知らない人に話しかけるのって勇気が要りますよね。本当に有難うございます。
感想を書いている時は、はちゃめちゃに孤独だったんですけど、公開した後は何かとの距離が遠ざかったのと同じくらい、どなたかとの距離も近くなった気もします。
その意味を与えてくれたのは、読んで下さった方のお陰だと思うので本当に有難うございました。
名古屋千穐楽の感想は、比較的、真面目に書きました(当社比
こんなに言葉を尽くしたい!と思えた事が幸せ!尽くしても伝えきれないよく分からない感情に出会えたのも嬉しい!!
本当に素敵な時間を有難うございました!!!!
この感想を書く怖さ
定義しない事には話が進まないので、何かしらの言葉・解釈に当て嵌めて書くのですが、勝手にラベルを貼ったりカテゴライズするのは、やっぱりとても怖いです。
気がしました、印象、イメージ、思いました、感じました、で〆て、これは個人の見解・感想です!!と予防線を張らずにはいられない俺はデジタル生まれソーシャル育ち。
自分の力だけで、自分のみたもの、考えたことについて言及するのは、こんなに勇気と気合いがいるものなんだ…と愕然としました。何処を切り取るかの取捨選択が自分の価値観に因るから、とてもザワザワします。
感想を書くことで、型にはめる…ともすればデータベース的に過去の引き出しや固定観念から、対象を消費してしまうかもしれない。
ずっと、そんな恐ろしさについて考えていたんですが、この怖さって、一周回ってやっぱり持っていた方が良いと思って。
レッテル・ラベルを貼る怖さと、いつでも剥がせる勇気。気負わず、でも常に自覚的でありたいです。肩肘張らずに。分かりたい、きっと分からない。でも受け取れていたら、伝わったら嬉しいを積み上げていきたいですね…(ゆるいまとめ
そう言いながら、個人的に色んな感想が読みたいので、もっと軽率に感想を書いて良いと思います!!!
スリル・ミー だけで客席数×公演数の数だけ物語が存在するって事でしょう…う…想像するだけでたのしすぎる…無限大。
でも、誰にも共有せず、自分の中で噛み締めるだけの舞台も、それはそれで素敵なので、最後は自分で決めたら良いんだと思います。
成河さんと福士さんのペア、尺のあるメディアでは何一つ記録が残っていないのですが、本当にすごかったんですよ!!!!
これくらいまた、何かを書きたい衝動に出会えたら本当に幸せだと思うので、いずれまたそんな存在に出会えたら嬉しいです。
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