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「集団自決」発言から考えるこれから

「集団自決」発言について

成田悠輔氏の「集団自決」発言が炎上した。都合が悪いものは自らが手を下さない形で勝手にいなくなってほしいというニュアンスがあまり好きではないし、言い方もかなり露悪的であるため、炎上はやむなしと言ったところであるが、発言そのものや氏本人を黙らせることに特に意味はない。
少子高齢化が進む日本において、肥大化した社会保障費とそれを担う現役世代の重負担感は事実であり、そこから生じた閉塞感が少子化にの一因になっている(それが唯一の原因ではないと思うが)ことは否定できないと思う。
その意味では、人口ピラミッドの上をトリミングしたら良いのではという至極単純な解決案を空気を読まずに発言したことに対する拒絶反応と解釈している。彼一人を血祭にあげたところで問題は依然として存在するわけで、改善に向けた議論そのものを委縮させることはどうしようもなくなるまで問題を棚上げすることとなりかねない。かといって、自分が率先して自分の親に引導を渡すような事態もまた望まない。
休日で時間もあるので自分なりにこの問題へのアプローチを考えてみたい。

問題は何なのか

高齢化と少子化はとりあえず分離して考えることとする。連続性と関連性はあるものの、後者(少子化)は非婚化や教育投資の増加といった他の要素を含んでいるためで、単に現役負担の社会保障負担が軽くなったらかつてのような皆婚・子だくさん時代に戻るわけではないためだ。
高齢化というと少しネガティブなイメージがあるが、本来長寿は「良い」ものであったはずだ。誰しも健康に長生きできる社会、と聞いてげんなりする人はあまりいないだろう。一方で、それが稀であるがゆえに珍重、尊いものとされたことも事実である。希少性のあるものには価値があるが、あまり多くなりすぎればその価値は落ち、高度情報化した社会は古老の教えを敬う必要性も少ない、ましてはその維持に多大なリソースを必要とするならなおさらである。

日本人の平均寿命からして概ね85年、そのうち約20年は親に扶養され、今の年金世代のリタイヤは概ね60~65歳、そこから年金生活に入るとすると、20~25年は年金と医療を現役世代に頼ることになる。要するに85年の生涯のうち約半分は自分で自分を養い、残り半分はほかの人に養ってもらっている計算になる。勿論個人差はあるが、総体としてはそんなものだろう。国家というフィルターを通すことで見えづらくなるが、結局人はその字の示す如く、半分程度は他人に頼って生きているのだ。

令和3年度(2020)の厚生労働省データでは、重複のない公的年金受給者は約40百万人、2022年の総務省データによる15歳未満人口は約15百万人、実際は高校卒業、大学卒業まで親がサポートするため、大体20百万人が親の庇護下にあるとすると、計60百万人が自分以外のサポートを受けて生活している計算になる。家族にダウンサイジングして考えてみれば、老いた老親は介護が必要なうえ無収入、夫婦は現役だが子どもにもまだ手がかかる。国は個々の異なる経済状況にある世帯をまとめることで余裕のある世帯から困窮する世帯への所得移転と福祉の提供を行っているが、一部を除く大多数の世帯で同じ事態が進行しているのであれば苦しくて当然だろう。

つまるところ、問題の本質は「扶養者と被扶養者の数量的・金額的不均衡」だと考える。

解決の方向性1-現役世代の延長

タイトルままだが、解決策の一つは被扶養になるタイミングをできるだけ遅らせることとなるだろう。これはリタイヤ間際世代には頗る評判が悪いが、実際国はこの方向に進んでいる。定年はかつて55歳だったが、定年延長と再雇用活用による努力義務も合わせて、今後も伸びていくだろう。これは平均寿命の延びとの兼ね合いになるだろうが、人生残り10~15年は年金をお支払いしますが、それまでは働いてくださいという感じになりそうではある。

 とはいえ、これを国が企業に義務づけるというのはいただけない。企業に負担を押し付けているだけだからというのみならず、既存の強い解雇規制および労働条件規制との相乗効果で、そのしわ寄せが新規雇用抑制という形で若年世代を直撃する可能性が高いと考えるためだ。この施策を行う場合は、解雇規制の緩和と定年制度の廃止に加え、解雇の場合の(強制力のある)金銭解決ルールの整備と失業保険の充実がセットとなる必要があるだろう。

解決の方向性2-リタイヤ世代への支出減

これもまた非常に評判が悪いものだが、主に医療費の自己負担増と言う形で一部実現しつつある。これに加えて、いわゆる過剰な医療サービスを健康保険の対象から外すという施策もここに入るだろう。延命のための延命は(家族の気持ちは別として)減らしていくべきだろう。老親が受けている延命医療にかかる保険医療は負担が目に見えないが、生きている限り年金収入は目に見える形で入ってくる。現行制度上仕方がないことであるが、やはりこうした状況では現状維持を選択したくなるのは理解できる。とはいえそれが膨張し続ける社会保障予算と言う形で顕在化している状況で同じことを続けることはできない。

年齢で線を引くことはしたくないが、現場に判断を丸投げしたり、恣意的な運用がされたりすることも望ましくはないので、一定の年齢以上となったら緩和ケアは保険適用、積極的な治療や延命は保険適用外(要は自費)とするのが落としどころかもしれない。

人生の濃淡、充実度、経済状況は違えど、死というゴールは平等に訪れる。自分はまだ中年なので実感することは難しいのかもしれないが、自分が自分であることがわからない状態になる前、まだちょっと惜しいなというあたりが幕を引く良いタイミングなのではないかと考えている。それがいつになるかはわからないが、自分が老齢になるころには自分の意思表示で人生に幕を引くことができるという選択ができても良いと考えている。

解決の方向性3-若年世代の早期戦力化

若者の最優秀層はトップ進学校から東大や国立医学部を目指す。親たちは子供の成功を願って教育投資を増やし続け、大卒率も56.6%(2022年度)に達した。

だが、伸び続ける大学進学率と国の成長率は比例していないように見える。日本の成長率ピークは戦後復興期、高度成長期に訪れたが、前者はスタートが低すぎるとしても、高度成長期の労働者の半数以上が大卒の「優秀」な若者だったわけではない。中卒の労働者を金の卵として地方からかき集めてがむしゃらに働いたことで現在に繋がる経済の基盤を築いたのだ。

現在でも高い成長率を期待されているのはインド、インドネシア、ベトナムフィリピンといった国が若く、平均年齢が若い国々であることから、力強い成長の原動力は若年人口の比率と数であって、教育の質が関係ないとはいわないものの、メインドライバーたりえないと考える。全く教育を受けていないのは問題であるが、相対的に過剰な教育による利益(学位・知識)とそれによる損失(生産・消費人口への転換遅れによる機会損失)とを比較すると、個人単位ではプラスでも、共同体全体では収支マイナスになっているのではないだろうか。高度教育人材は料理で言えば全体の味を引き立てるスパイスや出汁のようなものであって、メイン食材ではないといったところか。

数が減ることで相対的に「大切」となった子供たちは、かつてより充実した環境で進んだ教育を長期間受けているが、数の減少を上回る活躍をするには至っていない。数を質で上回っているのであれば優れた若者世代が国を席巻してかつてない繁栄を謳歌できているはずだからだ。

単独企業では難しいかもしれないが、高卒レベルでも一定の基準を満たす人材は青田買いで大卒同様の待遇を与え、希望によっては企業に籍を置いたまま必要な専門知識を学ぶ機会を与える、というのが一つの方向性として考えられる。海外に赴任する場合に学士・修士号が求められる場合もあるので、就業しながら大卒資格を得る(報酬の一部として)ことも必要に応じ実施すべきだろう。当の若者にとっては大学受験に使う時間の節約と、横一線での就職活動をスキップでき、親も(彼らの教育熱が就職のためならば)教育投資を節約しつつ子供の自立が早期実現することで自身の老後資金確保が容易になることが期待できる。これはさほどドラスティックなものではなく、就職が先、高等教育は実際の就業を通じて自身のニーズに応じたものを受けてその道のプロを目指すという形に順序を入れ替えているだけである。大学をはじめとする高等教育機関がモラトリアムの場や就職予備校から脱皮し、真剣に学びに来る実務経験を備えた人間のための機関に生まれ変わることになるのではないだろうか。

勿論、この場合は企業の倒産リスクやブラック企業の問題は起こりうるので、上で触れた金銭解決ルールや失業手当と合わせて検討される必要があるだろう。

まとめ

上に挙げたような問題は、当然賢い人達は認識しており、それに沿った施策を徐々に時間をかけて整えてきている。問題は、人は自分の損益に敏感であり、損をすることを極端に嫌うこと、感情(情緒)によって判断を下すこと、国という何か実態のあるようでない幻のようなもので、事態をまっすぐに見られないことなのだと思う。これは自分も含めてだが。
繰り返しになるが、人口構成から見て「現役世代」と「リタイヤ世代+次世代」が一対一で釣り合い、皆が等しく年を取っていく社会は早晩持たなくなる。情緒は別として、そろそろ取捨選択をしなくてはならないと思う。
それを考える機会を持てたという意味では、成田氏の発言が広まったことは良かったのだと思う。

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