私が写真に込めたい"エゴ"とは
はじめに
アートといえる写真を撮るために、いま私は「エゴ」という壁にぶつかっている。この記事では、私が写真に込めたい"エゴ"とは何か?を掘り下げる。
「エゴ」とは?
写真おもしろコミュニティ「ふぁらおキングダム」では
写真をアート足り得るには撮影者の「エゴ」が必須 と教わった。
ここでの「エゴ」とは、
「撮影者が写真を通して鑑賞者に伝えたいテーマ」
「撮影者の意図」という意味だ。
エゴを読み取る力と、エゴを吹き込む力
写真の美しさに対する分析を学ぶにつれ、その写真が何らかのエゴを以て撮られたかどうか、また具体的にどういったエゴが吹き込まれているかの推測ができるようになってきた。(=エゴの読み取り)
ただ、これは読み取り精度の問題で、何となくのレベルであればほとんどの人にも出来ることだ。ルノワール展に長蛇の列が出来るが、そういうことだと思う。
他方、作者としてエゴを写真に吹き込むことは読み取ること以上に難しい。
エゴを吹き込むことの難しさ 〜絵画は足し算、写真は引き算〜
そもそもカメラは現実世界をそのまま写し撮るものなので、絵画と違って、エゴも何も基本はそのまま。キリトリ方、視点、着目点で、あくまで"リアル"を題材に己を表現する必要がある。
絵画は作者の意図だけがキャンバスに表現されるが、写真は作者の意図を阻害する要素を意図的に削ぎ落とさなければならない。真っ白なキャンバスに自らの意図を「足していく」絵画と逆に、写真はゴチャゴチャした要素から自らの意図を表現するのに必要な要素だけに「減らしていく」。
例)聖母マリアを題材にした絵画に、マリア様より目立つヤツを描くことはしないが、モデルさんの街角ポートレート写真の背景に通行人が入り込んでしまうことは当然ありえる といった話
作者側がどれだけ「ココが素敵!」と思って撮影しても、鑑賞者目線で余計な要素に目がいってしまう写真になってしまっていれば、エゴ吹き込みは失敗だ。「ココは見ないで!」と言ったら負けというか。
エゴを吹き込むことの難しさ 〜オリジナリティ〜
仮に引き算に成功してエゴを明確に鑑賞者に伝えられたとて、次の問題がある。作品の唯一性、オリジナリティだ。人と似たような作品では、アート作品としては、意味がない。
デジタルカメラを使った画作りは、このオリジナリティの点で差別化が非常に難しい。なぜなら、同じ被写体を、同じ機材で、画角とアングルを揃えて撮れば、それがプロだろうが素人だろうが、ピクセル単位で全く同じ写真ができあがってしまうからだ。
故に、写真は撮影者が意図的にエゴを吹き込まない限り「アート」にはならない。故に、大切。というか、それが骨子とさえ言える。
なぜエゴについて考えるのか
本筋に入る。私は自分のエゴが何なのか自覚できておらず、どうしたらいいかわからなくなった。
最初は被写体のせいにしていた。だが、いざ良い被写体を前にしても、"良い"写真が撮れなかった。絶景に圧倒されてしまい、結果として「誰もが撮る有名スポットの記録写真」に成り下がった。
私はエゴについて甘く見ていた。
というより、エゴの位置づけを間違っていた。
「美しい写真」と「エゴが宿った写真」は別物だ。
ちなみに:エゴを以て写真を撮ることは普通じゃない
どうやら、この悩みは私だけのもの ではないらしい。
写真に対してかなり熱量のあるコミュニティの中にあってさえ「お前のエゴは結局何?」に対して明確な解を持っていないのが多勢である。
解決の糸口
「エゴ」を単一で考えず、ある程度の抽象性を帯びた、被写体に依存しない「第一階層のエゴ」と、被写体に応じて可変する「第二階層のエゴ」に分解して、予め「第一階層のエゴ」を明確化してしまえば、現地で迷うことないんじゃね?と考えついた。
何を言っているかというと。
例えば、朝靄漂う上高地の大正池(=絶景)を前にしたとき、私は
「この絶景をできるだけ損なうこと無く切り取らねば」
としか考えることができなかった。
事後分析はしたが、撮影当初の私は「大自然の絶景」のどこに感銘を受けたか、もっと厳しくいうと、そもそもなぜ上高地に赴いて、どういう写真を撮りたかったのか、ほぼ全くと落とし込めていなかった。結果、絶景を前にただひたすらに圧倒され、まごつき、アセアセと撮りまくる他なかった。
肉眼でみたリアル世界だけから、その場で即座に感動したポイントを言語化し、そのポイントを強調するための構図なりアングルなり画角に落とし込んでいく という作業は、刻一刻とシャッターチャンスが変化する状況においてはかなり焦る作業だと知ったし、後日の分析に一週間かかった事実を踏まえると、少なくとも今の私にはまだ早いやり方だった。
「心が動いた瞬間にシャッターを切る」なんて素敵なキーワードがついついよぎってしまう。でも私が言いたいのは「それって脊髄反射でシャッター押してるだけですよね?」「上高地でそれやってたら、撮れた写真は過去何億枚と撮られた写真と一緒っすよ。だって全員等しく心動いちゃう絶景だから。別にお前のオリジナリティとかじゃないから。」だ。
ならば、予め自分がどういった部分に着目する傾向があるかを事前に明確化しておくことができれば、現地で飲まれたり迷うことなく、自身の傾向にマッチする要素をテーマとした「作品」として仕上げていくことが出来るのではないだろうか?という仮説だ。
この方法は未来の感動ポイントを予め予測し、強制的に「私のエゴ」としての縛りとし、現地ではその範囲に沿って撮影する、言ってしまえば極めて無粋なやり方だ。
しかし、この事前の予測どおりに現実がハマれば、確実にそれはエゴが宿る写真になる。私のスキルであれば、そうでもしないと落とし込めない。
この「予め自分がどういった部分に着目する傾向があるか」を「第一層のエゴ」と定義する。「第一層のエゴ」に沿った現地での具体的なテーマが「第二層のエゴ」だ。
「第一階層のエゴ」は被写体から「私にとっての美しさ」を、短期間で抽出し言語化するためのツールになる。現地で全工程をできるようになるための、補助輪とも言えるかもしれない。
またあくまで傾向なので、必ずしも最高の被写体を必要としない。
だから日常で出会う被写体を使うことで、エゴを洗練できるし、被写体から美しさを抽出する練習もできる。最高じゃないか!
早速、「第一層のエゴ」について自己分析をしてみる。
私の第一層のエゴ分析
正直、私自身がエゴを自覚できていない以上、手探りだ。
取り急ぎ、写真に限らず、私自身が好きなものを列挙し、ここれらから共通項を導き、さらに写真(静止画・映像)に関わる要素をピックアップしてみた。
※記事からは省いたが、下記をピックアップするにおいて、大量に書き出しをおこなっている。
なめらかしっとりな質感→却下
主に触覚として、とにかくなめらかさに拘る癖があると判明した。
例えば、上質なレザー生地、Apple製品に代表されるアルミ削り出しのアイテム、高級外車のボディ(塗装面)等、いわゆる「上質でしっとりとした質感」がヨダレが出るほど大好物である。多くの人も同じではあるが、その度合が強いと自覚する。
写真の世界でもこの癖の片鱗は見えていて、主に海や湖を撮影する際、1/100以下のシャッタースピードで撮った、いわゆる肉眼でみたままの写真より、長時間露光で水面を滑らかに表現した写真の方が圧倒的に好みである。
この嗜好性は、ヒントになるかもしれない。
結論から言ってこれは私のエゴにはならないのだが、経緯の記録としてもう少し追い込んで記述する。
長時間露光で水面を滑らかに表現することは、実は避けてきた。
なぜなら、それは現実の風景ではなく、風景の美しさを切り取るというより、写真として「作ったもの」で、それが美しい風景ということは、風景そのものの美しさで勝負していない気がするからだ。でも出来上がった写真を見ると、超好きだ。
そもそも「なめらかしっとり質感」が好き とはどういう心理だろうか。
例えば高級車のダッシュボードは、一面革張りだったりする。
天井はアルカンターラ素材などでサワサワしていたりする。
シートやハンドルやギアノブなどは、体が触れる部分であるため一定の利便性(グリップなり)があるが、ダッシュボードや天井は触れることもまずなく、どう考えても機能的には無意味だ。
触りもしない、見えるだけの部分の質感の良さが、人にどういう影響を及ぼしているのか?「高級感」とか「上質さ」という"印象効果"以外に考えられない。
では「無意味だが上質な質感のモノ」を配置すればするほど良いか、といえば、これがまた違ったりする。高価なオブジェが所狭しと陳列されている様子はむしろ下品な印象を与える。
あくまでも必要な要素でありつつ、必要以上の質感を持たせてあげることが肝要で、これが「洗練された上質さ」みたいな言葉になるのだろうか。車に屋根もダッシュボードも取り外すことは出来ないが、もっとチープな素材で問題ないのに、あえてそこを上質な皮で包む点が「オシャレ」な印象を与えるのだろう。
いや、どうだろうか。ちょっと間違っているかもしれない。
車の内装(ダッシュボードや天井)に関して言えば「世界観の維持」の方がメインではなかろうか。
ステアリングやシートの革張りは、高級車でなくとも、利便性の観点からも高価は大きい。だが、ハンドルとシートだけが部分的に皮で、面積的に多勢を占めるダッシュボードや天井は安い素材だったとき、チープな印象を与えるので、ステアリングやシートの素材の良さと平仄を合わせることで、チープさを醸し出す要素を排除(革張りにしちゃう)しているのではないか。
Macbookも似ている。
キーボード側のいわゆるラップトップの本体部分は剛性や排熱の都合でアルミ削り出しにする理由があっても、ディスプレイの裏面までアルミにする必要は無かったはずだ。これは世界観を損なわないため、結果的には「必要以上の上質さ」を付与した形になっているのではないか。
ふむ。。
「しっとりなめらかな、上質な質感」は最終的な印象なので、ここに惑わされてはならないかもしれない。そこに至るには、「上質さ」を損なう要素の排除 という操作が行われ、この徹底が、世界観の醸成に繋がり、この世界観がどうだったか?という話でしかないかも。
たとえばフワちゃんの装飾品、すべてプラスチックなどで安っぽいものばかりだが、とてもキレイというか、整っている。色使い含め、一品一品はチープなのに、徹底して統一することで、ポップな印象を醸成できている。
なるほど。あくまで醸成したい世界観があって、その世界観を損なうものをどれだけ排除出来るか、という問題でしかないようだ。
朝日の光芒が指す、暗がりの森の中の小川を撮影した写真をよく見るが、アレを長時間露光で撮影しているものが多いのは、朝日の光芒の幻想的でふんわりした直線、朝露で湿気を帯びた葉のシズル感など、幻想的な世界観を損なわないよう、ともすればシャキっとしてしまう「川の水」を、長時間露光によって雲のようなふわふわした質感に変化させているということか。
表現したい世界観次第、だな。
エゴとして挙げるものではないので却下!
立体・構造
幼少期はよく絵を書いていたが、その頃から無類の立体好きであった。
平面的な絵に魅力を感じなかった。
遊園地、手、マッチョの裸体、色々書いていたが、共通して頭にあったのは「立体的な構造をいかにして正確に二次元の"絵"に落とし込むか?」ということだ。
長さの比(第1関節、第2関節の長さの比や、全体に対する指の太さの比など)、陰影による凹凸の表現、遠近法による奥行きの表現、質感の表現。そればかり気にしていたと記憶している。
考えてみれば電子電気工学に進学したのも、パソコンがハードウェア的に/ソフトウェア的にどうやって動いているのかを知りたかったからだった。
そう考えてみると、今、被写体に選んでいる自然風景も、選択した理由に構造面に対する関心が影響しているかもしれない。
樹木ひとつとっても、あれだけ複雑な三次元的構造をした人工物はそうない。そんな「ランダム」が折り重なって、葉がほぼ均一に面を構成したりもする。しかもそれらには、おそらく全て意味・理由があり、人の手が入っていなため、嘘がない。
都市景観も嫌いではないが、新宿のモード学園やベイブリッジなど、構造の骨が丸出しの構造物以外には興味が湧かない。ツルッツルの外壁に完全に長方形のビルは退屈だ。
「立体・構造」は私の第一層のエゴとして採択できそうだ。
サイド光の自然風景、それがたとえ何の変哲もない樹木であっても魅力に感じたのは、その立体構造が際立つからだろうか。小道も、奥行きから好きなのかも。
であれば改めて注意が必要だ。
別記事にも書こうと思っているが、奥行きや立体感は、肉眼(二眼)で見るリアルの感覚と二次元の写真とでは、伝わりやすさの点で天と地だ。
絵で立体を表現する苦労を思い出せば簡単だ。
二次元で立体を表現する上で、陰影はものすごく重要。つまり完全な逆光と順光の場合、風景写真で立体感を演出することはまず無理だ。
自らのエゴと自覚するからこそ、肉眼で感動した勢いでそのままシャッターを押してしまうと失敗してしまう。それが二次元の世界で伝わる情景であるか?は心得たい。
水・透明
これも幼少からの嗜好として、水が好きだ。
特段泳ぎが好きとかそういうことでなく、生理的に水が好きなのだ。
手で水に触れることが好きだし、逆に乾いた状態は大嫌いだ。
見た目にも癒やされる。プールの水面のキラキラした様子は、大人になった今も心癒される風景だ。
何なら音も好きだ。海の波の音、川のせせらぎの音。
色が無い点も素晴らしい。
その点ではガラスも大好きだ。
風景は好きなのだが、山登りにあまり前向きでない理由がここにある。
山は基本的に水が無い。中腹に小川があったりすることはあっても、物理的に山頂になるに従って水の要素は少なくなる。
だから素敵だと思う写真には、何らか水の要素が含まれる傾向にある。
もしかするとこれも私のエゴというか、一種私の縛りとして採用しても良いかもしれない。
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