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選ぶこと、捨てること。

人生は選択の連続である。

どの学校を受験するか、誰と結婚するか、何を仕事にするか。
今日何を食べるか、どのシャンプーを買おうか、まずどこに買い物を行こうか。
大きいことから小さなことまで、色々な選択をしてものごとを前に進めている。

レストランにいくたび、あー全部食べたい、となる。だって全部美味しそうなのだから。

でも前に進むためには一つを選ばねばならない。すなわち、他を切り捨てなければならない。

「取捨選択」という言葉があるように、選択と切り捨ては表裏一体である。当たり前ではあるのだが、そういう風に捨てる方に着目することってあんまりないのかな、と思った。

実は切り捨てている

家を買うときに躊躇してしまうのは何故だろうか?そこで決断すると他の選択肢の家を買えないからというのも大きいのではなかろうか。
100円ショップの商品のように、失敗したらまた買えばいいや、は許されない。(普通の予算では)

家ではなくても大きな買い物をする時は、限りあるお金の中で、他の大きな買い物をできる可能性を切り捨てている。

結婚も、他の選択肢を切り捨てることであると思う。ただその人を選ぶだけなら、付き合う時点でもう選んでいる。
結婚すれば貞操義務等の法的な制約がつくし、別れるにも書類、財産分与など一定のハードルが上がる。他を切り捨てずにふらふらしてはいられまい。

可能性を広げたい親心

子供の頃は何が得意か、何が好きかなんてわからない。だから親はいろんな習い事をさせたり、いろんな体験をさせたりする。

子供の可能性は無限大だ。もちろん大人の可能性だって無限にあるのだが、幅が違う。

宇宙飛行士になりたい!プロサッカー選手になりたい!パイロットになりたい!YouTuberになりたい!お笑い芸人になりたい!
子供にはどれも魅力的に映るであろう。絞る必要も特にはない。

しかしいつしかその幅は狭まって、どんな会社員になろうか、どんなエンジニアになろうか、みたいな幅になっている。
自分がパイロットやお笑い芸人になることはないであろう。

ブレインストーミング

何か新しいことを決める時にブレインストーミング(ブレスト)を行うことがある。

ブレストではまず色々なアイデアを出し(拡散)たのち、絞っていく(収束)

人生における選択もこの「収束」フェーズと似てるのかなと思った。

子供のうちに最大限、いろいろな可能性を模索して広げて、大人になるとそれを収束させている。いろんな習い事や幅広い教育の先に今の仕事がある。結婚だって、いろんな人と出会って恋愛をして、最終的に1人に収束させる。

ここで大事だと思うことの一つは、発散するだけでは何も前進していない、収束させて初めて次のステップへ進んでいる点である。
もちろん決めることだけが前進ではないと思うけれど。

捨てるというハードル

「捨てる」ことは肩の荷が重いことが多い。なにか勿体無い気がするとか、寂しいとか、めんどくさいとか、怖いとか不安とか、理由は色々あると思う。

まだ着れる服、買ったけどあんまり気に入らなかった雑貨、食べ残し、枯れてきたお花、炭酸の抜けたビール、ブランドの紙袋、いつか使うかもしれない粗品、人からもらったタオル、、そういったものを捨てるのはハードルが高い。

だからメルカリで売ったり、残しておいたりしてしまう。切り捨てる必要がないのなら、保留を選ぶ人も多いだろう。この点ミニマリストは慣れているであろうが。

恋愛で別れを切り出された方も辛いけれど、切り出す方も辛い。これはエゴであるというのはわかっているし、本当にやったならクソだと思うけれど、とにかく切り出す方にとって1番楽なのは、保留したまま自然消滅させることだと思う。

選択肢を切り捨てる不安や怖さ、後ろめたさから逃げるだけでいいのだから。

切り捨てなきゃいけない時

カレー屋であいがけカレーを頼む君。食べたいドーナツ悩んだらどっちも買っちゃうそこの君。
ドンマイドンマイ、僕は好きだよ。

そうやって飲食店ではどっちつかずな回答をしてもいいけれど、ちゃんと決めなきゃいけないこともある。

それでも悩んでしまうときに、選ぶ理由だけじゃなくて、捨てられない理由にも目を向けると良いのかなと思った。

例えば、結婚に前向きになれない人は、その人がどうこうだけじゃなくて、他の人が気になってたり、今後他にいいひとがいるんじゃないかとか考えてるんじゃなかろうか。

もちろん捨てられない弱さと向き合うのは苦しい。「捨てるというハードル」を超えていない、不安や怖さを越えようとしていない結果が「現状維持」である。そして周りが成長する中での現状維持はすなわち、相対的な衰退である。
そんなことを言われたら本当に耳が痛い。

ここまでやってきたんだから、を捨てられないコンコルド効果も近いものがあるような気がする。

一番を選ぶという理想

なぜ捨てられないのだろうか。もっといい選択肢があるかもしれないからだろうか?

キャリアを絞っていく中で、1番好きなこと、1番やりたかったことをを選んだ、選び続けた人はどのぐらいいるだろうか。好きなことを突き詰めて仕事になった人がどれくらいいるだろうか。運命的な出会いをした一番好きな人と愛が溢れて仕方がないから結婚した人はどのぐらいいるだろうか。

大抵の人はどこかで、お金や人間関係、競争率や下積み期間、自己の能力、年齢、タイミング等、様々な理由で他の選択肢を切り捨てた結果なのではなかろうか。

機内食でfishを選んでハズレだった〜って思うこともあるけれど、
食べられたならどちらだっていいじゃない。限られた時間の中でそれを選べなかっただけなのだから。それを受け入れ、楽しむ人生の方がきっといい。

そもそも1番というのは、決めるものだと思う。元の趣味趣向もある程度はあるだろうけれど。
1番好きな食べ物はナスといえばそれ以降1番好きな食べ物はナスであって、ズッキーニではなくなる。

だからとにかく決めちゃえばいい。

まとめ

選択は、常に1番したいこと・1番ほしいものを選び続けるのが理想だけれど
今日食べたいものなんて、もちろん場合によるだろうが、実際何でもよかったりする。

捨てられない弱さと向き合い、前に進めてから初めて見えるものもあるんじゃなかろうか。

そして後追いで自己を肯定できればそれでいい!

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