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おばあちゃんの寺子屋

さぁ!自分のコトを書き留めていこう!

と思って、まず最初に思い浮かぶのが、母方の祖父、「西条(にしじょう)のおじいちゃん」だ。西条とは、父母とも同じ市内出身なので、二人のおじいちゃんを区別する時、町名をくっつけていた。

ホントは、# わたしの好きなヒト でも真っ先に思い浮かぶヒトは、「西条のおじいちゃん」。

私のことを書こうと思うと「西条のおじいちゃん」のことを書かずには始まらない。

「西条のおじいちゃん」のことを書くには、まず、「西条のおばあちゃん」が自宅でやっていた学習塾の話をしないと始まらないことに気づいた。

だから、その学習塾のことを思い出そうと目を閉じるともう40年近く前のことなのに、部屋の中の様子が鮮明に思い出す。

思い出した光景を何か表現しないと、、、と何とか絵に描いてみることにした。

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自宅のふた部屋を学習塾にしていて。

子どもたちは、好きな時間に、ここにやってきて、学年別に分けてある本棚から自分の学習帳(国語と算数だったかな)を出して、好きな机で、問題を解いて、できたらおばあちゃんの机に行き、マル付けをしてもらう。間違えたところは、その机で教えてもらい、解き直して、また、見せに行く。今日の学習帳の課題が終わると、宿題の学習帳と交換して持ち帰る。

私がとても印象に残っているのは、その学習帳の問題は、すべておばあちゃんの鉛筆で手書きなのだ。おばあちゃんの姿で想い出すのは、いつも、机に向かって座って、一人一人の学習帳に鉛筆でスラスラと問題を書いている姿だ。

そして、「あの」憧れの『学校の先生が持っているピンクの採点ペン』でマルを付けてくれる。

学校から家に帰って、ランドセルだけ家に置いて、直行してきた子どもたち。ひとしきり遊んでから、立ち寄った子どもたち。入れかわり立ちかわり、ここに訪れる。学校に着て行った体操服でみんな来るので、部屋の床は、砂で若干ザラザラしていた記憶がある。そのザラザラ感が「地域の中にある」ことを表していたようだった。

この「西条のおばあちゃん」の学習塾、なんて名前だったのか覚えていない。そもそも、名前なんてなかったのかも知れない。子どもごころに「寺子屋ってこんなのだったのかな?」って思っていた。

「西条」は、私が住んでいた小学校区の隣の小学校区だったので、私はその学習塾には、友だちがいなかった。孫だったので、居間に繋がる扉から出入りしていたし、直筆学習帳は、棚には立ってなくて、おばあちゃんから手渡しで受け取っていた。

外からの入り口から入ること、

棚から自分の学習帳を探すこと

は、私にとって、何か『憧れ』だった。。。

みんなの仲間に入りたかったのかも知れない。

こうやって、タイムスリップして、むかしを思い出していたのを、ふっと今の自分に戻ると

「もしかして、この『おばあちゃんの寺子屋』が、私が今求めている自分の居場所、子どもたち・親たちの居場所を作りたい原点なのかも知れない」

と気づいた。

訪れるヒトを決して選ばない、ひとりひとりを想って開く居場所。

生活感ありありだけど、手づくりの居場所。

『おばあちゃんの寺子屋』こそが、私の理想の居場所なのかも知れない。

私のコトでもなく、おじいちゃんのコトでもなく、、、結局、おばあちゃんのコトで、話し尽くしてしまった。



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