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13年前のあの日のこと

この記事は東日本大震災に関することを記載しています。
私は当時、東京都におりました。しかしながら、地震の描写が書かれています。
辛い記憶がある方、読まないで下さい。












13年前のあの日。
私は都内六本木で働いていた。オフィースレディってやつだ。『プラダを着た悪魔』という映画と、『働きマン』という漫画に最も影響されていた頃だ。

当時の私は、今で言う港区女子とバブル女子を出して2で割った…そんな感じ。

ブランドの服に身を包み、13センチのヒールを履いてカツカツ音を鳴らしながら歩く。濃いアイメイクに、アッシュ系カラーのボブ・ショート。当時、奮発して買ったルビーのピアスをトレードマークにしていた。

ただおしゃれに身を包むだけじゃない。ガンガン働いた。深夜残業は当たり前だし、土日もプライベートも無い。でも、楽しくて楽しくて、寝るのが惜しいほど、馬鹿みたいに働いた。そして、豪快に飲んで遊んだ。寝ずに飲んでカラオケして、そのまま出社なんてこともしょっちゅう。

そんな頃。

その日は、当然会社にいた。まもなく終業時間ということもあり、軽く事務処理しながら隣のお姉さんと何か話をしていたかな。和やかないつもの週末の午後。突然、大きな揺れが起こって、すぐにただ事じゃないって感じた。

会社の天井がパラパラと剥がれ落ち、壁にヒビが入っていくのが見えた。上司が叫んでたな、机の下に入れー!って。小学生のときに地震体験自動車に乗ったのと同じくらいの揺れだった。立っていられない。オフィスはビルの16階だったから、おそらく地上より揺れたんじゃないかな。とにかく、凄まじかった。

揺れがおさまって、すぐに外に出た。もちろん階段で。着の身着のままってやつ。お気に入りの13センチのヒールは会社に置きっぱなし。室内履きのまま、財布とコートだけを持って私達は外へでた。

高層ビルから見える空は、青くいつも通りだったのに全く別の世界だった。

あたり一帯は、同じように近隣ビルから出てきた人たちでごった返している。みたことのない異常な風景。
高層ビルが立ち並ぶ昼間の六本木。そこいらで働く人がほぼ一斉に外に出てきたのだ。その人だかりは朝のラッシュ以上。

上司たちは何やら話をしている。これからどうするのか相談しているようだった。その最中、再び地震が起こった。
コンクリートの地面が、海のように波を打って、電線がぐにゃぐにゃ揺れている。ビルも折れて、落っこちてくるんじゃないか、本当にそう思えるほどの景色。まるで映画の世界のようだった。その後すぐに、業務実行は不可と判断され解散となる。

金曜日の午後4時頃。

何もすることなく、とりあえず家に帰ることにした。最寄り駅に行くと、電車が止まっていた。同僚たちとどうするって話をしながら、とりあえず秋葉原あたりまで行けば、電車が動くだろうと安直に考えて1〜2時間おしゃべりしながら歩いた。

でも、電車は動いてなかった。

私は当時も埼玉県に住んでいたので、同僚たちとはここでお別れし、ひとりで歩き始めた。その時点で、ビジネスホテルやカラオケ漫画喫茶など、泊まれそうな場所は満室でどうにもならなかったからだ。

タクシーも考えたが、その料金を考えたら乗る気にならなかった。なにより長蛇の列に心挫かれた。歩くほうが早いんじゃないかって。

当時、とにかく歩いている人はいっぱいいた。方向音痴名私だったが、同じように帰宅難民はたくさんいて、みんなについて歩いていった。

ハタチそこそこの女がひとりで歩く時間じゃない。でも、不思議と怖さは無かった。ただ寒かった。3月はまだ寒い。おしゃれ重視の私は既に春物の服を着ていた。こんな夜中に寒さに震えながら歩くなんて思ってもいなかったから。歩いても身体は温まらず、寒くて寒くて、凍えそうだった。
途中、コンビニに寄ったけど、考えることは皆同じ。商品棚はすっからかんだった。

私は歩いた。

いつもは夕食の時間、お風呂に入って、布団に潜り込む。そんな時間になっても歩いた。
普段、通勤に2時間近くかかるのだ。歩いたらそりゃいつになっても到着しない。メイクはぐちゃぐちゃに崩れて、ひどいパンダ顔をしている。
青っぽいラメの入ったジェルネイルが目に入って、家に帰ったら予約入れたい…なんてぼんやり思った。

日常と非日常の間で、ただひらすらに歩く。

雨が降っていなかったのが幸いだった。でも、どんな星空だったのか、月はどんな形をしていたのか、そんなの全く覚えていない。とにかく寒い。それだけを強烈に覚えている。

スマホ片手に、ヤフーニュースとツイッターで情報を見ながら、ひたすら歩く。

地震のことはもちろん、電車が止まり多くの人が歩いて帰路につこうとしている件もニュースになっていた。

覚えている人もいるだろう。

被災していない人たちは、被災地の方々にはもちろん、この歩いている帰宅難民の私達にもエールを送ってくれていたのだ。

あのときの日本人の一体感は言葉に言い表せないほどである。日本人を誇らしいとさえ、思った。

当時、官房長官だつた枝野氏に対しては本気で『枝野寝ろ』と、心配していたし、ACの『ポポポポーン』なんてのはトラウマになるほどネタになった。

再生数稼ぎじゃない、本気で心配して物資を届けた人もたくさんいた。人ってまだまだ捨てたもんじゃないって、思えたな。

空が白んできても、私はまだ歩いていた。寒い寒い、とつぶやきながらただひたすらに歩いていた。どうにかこうにか自宅についた頃はもう、朝だった。

実に16時間。あとにも先にも、これほど歩いたことは無い。

翌日が土曜日で本当に良かった。
家について即したことはお風呂。体の芯まで凍えていて、私の身体はガチガチ震えていたから。暖かいお風呂に入れることが、こんなにも幸せであると、生きてることの有り難さを実感した。

もうクタクタで何もする気になれない私は、レンチンご飯にレトルトカレーを食べた。しみるほど美味しい。良い思い出ではないが、今でも時々食べてはその美味しさに感動している。
そのあとは、泥のように眠り。翌日、日曜日は全身筋肉痛となり寝込んだ。

東京都や埼玉県は、そのあとすぐに日常を取り戻した。私も月曜日にはもう仕事に戻り、週末には地震が嘘のように社畜だった。

私は、なにもかわらない。

筋肉痛がおさまったらまた13センチのヒールを履いて出社したし、相変わらず濃いアイメイクもしていた。もちろん、ジェルネイルの予約も入れた。マイタンブラーを持って、スタバでコーヒーも買った。おしゃれなカフェで昼食も楽しんだ。

あの日の出来事は、まるで幻のよう。

幻にしたいと私が思ったのかもしれない。多くの人が亡くなった。大人も子供も、流された。ニュースを見るたびに、心が押し潰されそうなほど痛む。

先日の能登半島地震もそう。亡くなった本人はもちろん、遺された遺族のインタビューは思考を停止させる。

当たり前だが、苦手だ。残酷な現実を受け入れられない。地震も火事も事故も、起こらないで欲しいと日々思っている。

忘れてはならない出来事だと、思う。最愛の家族が一瞬でいなくなってしまうなど、絶対に忘れられない。しかし、覚えておくには衝撃的すぎる。当事者でない私が何を言っても伝わらない。

『あんたにはわからないでしょ!』

その通り。でも、私が何も出来ないことを悔いても、同情しても、死者は生き返らないし、壊れたものは戻せない。

もし、震源地がもっと南の方向であったなら東京都のビルは崩れ、私は死亡が確認出来ないほどの肉の塊となったであろう。

私は生かされたのかもしれない。

じゃあ、そんな私に何が出来るのかって言えば、やっぱり何も出来ない。世界を救うことは出来ないし、誰かの心を動かすことも出来ない。

だから、私は生きるしかない。一生懸命に。

辛い日はある。地獄みたいな痛みで弱気になって、これが続くならいっそのこと、って思うコトもある。なにもしたくない、今日も何もせずに終わったと嘆くこともある。それでもいい。生きよう、と。

今日も、私は立ち上がる。祈りと共に、何が出来なくとも、生きる。

腰痛作家に愛の手を(頂いたサポートは腰痛治療及び文章力向上のための書籍代として使わせて頂きます)