虚構日記 令和六年四月(弐)
四月某日
ウエストがゴムのズボンを着たら負けと言った人がいた。
部屋着はともかく、それを人前で着るようになったらもうおじさんだと。
今年になってから人前で着るどころか街に外出するようになった。
もう負けではなく終わりである。私は終わったのである。
とはいえ、なにが終わったのだろうか。
外見にこだわらない。
他の人にどう見られてもいい。
モテることを放棄した。
美意識を捨てた。
人としての魅力を自ら捨てたということだろうか。
だとしたら、私はとうの昔に終わっているのだ。
いまさら気にすることでもない。
ただ、若い頃、こんなだらしない大人にはなりたくないという中年になってしまったのは否定できない。
部屋着で着ていたズボンに穴が空いていた。
股のところ、チャックの下あたり。
ただでさえ、だらしないのに穴まであいていてはみっともない。
いくらどう見られてもいいとはいえ、さすがにかっこ悪い。
馴染んで履き心地はいいので、春になったら捨てることにした。
捨てると決めたら、わりとお気に入りだったことに気がつく。
モノが捨てられない人の気持ちがすこしわかった気がする。
四月某日
すっかり春になったので穴あきズボンを捨てた。
パンツ一枚で過ごすにはまだ肌寒いので新調しようと行きつけのショップに行った。
ショップといってもスーパーの紳士服売り場である。
ここの店員さんが私のスタイリストだ。服選びには彼女のアドバイスを全面的に信用している。
ひさしぶりに来てみると売り場がスカスカになっている。
そういえばこのスーパーは衣料品から撤退するとニュースになっていた。
いつもいるスタイリストもいない。人員削減だろうか。
がらんと空いたスペースにはベンチが6台置かれていた。
ベンチに老婆が一人座っていた。
手には赤ペンで書きこまれた新聞。ベンチに置いてあるルーズリーフにはびっしりと文字が書かれている。
競馬の予想だ。
老婆はウエストがゴムのズボンを着ていた。
ここは終わりつつある場所なのだなと私はクリアランスセールになっていたズボンを買った。
もちろんゴムのズボンだ。1000円だった。
安物が似合う男だ。そんな自分が嫌いではない。
四月某日
ゴムのズボンをはいて定規を買いに100キンに行った。
30㎝定規はあるのだけれどペンケースに入れる15㎝ぐらいのちょうどいいのがほしかったのだ。
文房具コーナーには長さ、材質、においといろいろな定規があった。
スチール製の10㎝定規があった。
端がクリップになっており、ノートや手帳にはさんでおける。
これはしおりとしても使えて便利そうだ。ハイパーオリンピックで遊ぶのにもいい。
無人島になにかひとつ持って行くとしたら、この定規にする。
すぐに後悔するだろう。
異国の旅でこの定規をもっていればなにかの役にたつかもしれない。
長さの概念が長いと短いしかない国でこの定規をもった私がいろいろなものを正確に測ってみせたら、いにしえの伝承に伝えられていた賢者の再来と崇められるかもしれない。
そう考えるとこんなに便利なものが100円で手に入るなんてすばらしいとレジに向かった。
セルフレジで現金が使えず機械に文句を言っている老人がいた。
このまえブックオフで見た老人だった。
なんとなくまわれ右をした。
四月某日
工事の騒音から逃れるのに今日は街に出ようと地下鉄に乗った。
スマホでニュースを見ていると近所の川で水死体があがったという。
散歩コースでなじみの場所だ。
天気のいい日は河川敷の公園でぼんやりすることも多い。
日常の景色に死体という非日常が入ってくるのはめったにない。
さらに死体が上がった川の上流でカモメがウグイを奪い合っているというニュースがあった。
カモメやウグイの餌になるまえに発見されてよかった。縁もゆかりもないけれどご冥福をお祈りします。
次が降りる駅なのでスマホを閉じた。
顔を上げると向かいの席にやたら濡れた人がぐったりと座っている。
汗で濡れたスーツが黒く染まっている。
本当に汗か。
汗だろうな。
今日はそんなに暑くないけれど。むしろ寒いよりの涼しいだけど。
地下鉄は濡れた人を乗せたまま発車した。
もしかしたらあの人はここではないどこかへ行くのかもしれない。
遠ざかる地下鉄の走行音が鳥の鳴き声のように聞こえた。
四月某日
地下街はまだ午前中なのに混んでいた。
カフェでアイスコーヒーを飲みながら今日の予定をたてる。
ラジオの仕事をしていた頃はここでモーニングを食べてから職場に行っていた。
あれはもう4年も前のことか。
壁に向き合うカウンター席に座っていると、どうも誰かに見られている気がする。
首のまわりにチクチクとさきほどから視線を感じる。
振り返ってみるが誰も私を見ていない。
当然だ。
誰も私に興味などない。
気のせいというか注目されたいという自意識のあらわれだろうか。
そう思うと自分が恥ずかしくなった。
席を立って、店を出ようとしたとき私が座っていた席にもう座っている人がいた。
私だ。
そこには私が座っていた。
あれは4年前の私だ。
店を出ると、歩く人みんなが私を見ていた。
私一人だけがこの世界で違っていた。
私は逃げるように走った。
走っているつもりなのに歩みが遅い。
無様だ。
みんなが私を笑っている。顔が赤くなりさらに汗がふきだす。
失禁しそうな勢いでホームを走り、ちょうどやってきた地下鉄に乗った。
私は汗で全身濡れていた。
昨日見たあの濡れた人は――もしかして。
地下鉄が動き出した。
これはどこに行くのだろう。
私以外、誰も乗っていない車内でとまらない汗をぬぐうこともできなかった。