『ルックバック』2日連続で観ました!
『ルックバック』、観ました!2日連続で!
いやーよかった。2日とも見終わった後、しばらく立てませんでした。
終盤、もの凄い勢いで感情の渦がどんどん膨らんでいって、その巨大な渦が、その勢いと質量をそのままに、比べてみるとあまりにも小さくちっぽけな身体(作中の藤野あるいは私の)に、すっぽり収まってしまったような。そんな感覚に捉われて、すっかり放心してしまいました。
大変素晴らしい体験でした。
大枠で、ざっくりとこの映画を捉えるならば、”「〜したい」という欲求に対する応援歌である” と私は思います。
主人公である藤野と京本の「〜したい」が変化しながら、交錯しうねりながら、壮大かつ疾走感のあるビートとリズムを形成しているのです。
またそのリズムを後押しするというか、挫けそうになる時に「バーカ。後ろ見てみ?」っていう感じ。
タイトルの「ルックバック」という言葉をそんなふうに翻訳したのは、私だけではないと思います。
まだ、観ようか迷っているの方であれば、強くおすすめしますし、すでにご覧になった方とは、いろいろ話してみたいですね。
さて、ここからは具体的にシーンを思い出しながら、個人的に思ったことについて書いていこうかなと思います。結構長いです。
描きたい→褒められたい→勝ちたい
まず最初の、月から、小さな町、家の明かり、その一室で絵を描いている藤野の後ろ姿、というふうに視点が映っていきます。
なんというかこの出発点の小ささ、それを包む雰囲気の暖かさから、どこかまだ「守られている」という印象を得ます。
その中で、学年新聞に掲載する4コマ漫画を描く藤野の姿は真剣そのもので、卓上ミラーから覗く表情にもそれが見受けられます。まさしく「描きたい」という一心です。
その時描いている漫画「ファーストキッス」。
事故で亡くなる寸前の男女が、生まれ変わってもまた口づけすると約束し、来世では、人間の女性と、隕石に生まれ変わって、その約束を果たす。
出会いとは、まさしく衝突であり、例え傷つく運命だとわかっていたとしてもその引力には逆らえない。
そんな真理が、小学4年生の4コマに、ユーモラスに描かれているのです。面白い!
実際にすごい漫画を書いているなと思うのですが、クラスメイト達にも、藤野の漫画の評価は非常に高く、「将来は漫画家?」などと言われ、これ以上ないくらいに天狗になっています。
この漫画を書き始めた当初、あるいはもっと前の、絵そのものを描き始めた当初は、「描きたいから描く」だけであって、特別な動機は必要としなかったでしょう。
しかし、このシーンには「褒められたいから描く」という一面が顔を覗かせます。「描きたいから描く」は嘘じゃないけど、それだけではないんですね。
そしてその後、藤野と京本の作品が学年新聞に並びます。
その時の表情は「どれどれ」という感じから真っ青になる。この落差は、わかっていても笑ってしまいますね。
「京本の絵に比べると藤野の絵って普通だな」と隣の男子が言うと、教室が無限に広がって、藤野の姿は、「その他大勢」のクラスメイトとその喧騒に埋もれてしまいます。
帰り道、祖母や先生に漫画を褒められた記憶を思い返しますが、最後には男子の一言(かなり悪意のある言い方に改変されている)を思い出してしまう。
「4年生で私より絵がうまい奴がいるなんて!!」と叫ぶ。
「4年生のなかで一番絵がうまい私」と言うアイデンティティを奪われたことは到底受け入れ難いことです。
しかし、自分でも認めざるを得ないほどに、単純な画力で言えば、差は歴然でした。
そこで、自身のアイデンティティを取り戻すため、ひたすらに描き続ける日々が始まるのですが、ここで「褒められたいから描く」が「京本に勝ちたいから描く」という変化を読み取ることができます。
描きたい→褒められたい→勝ちたい
つまり動機の変化というグラデーションがそこにあるのです。
勝ちたい(けど勝てない)→描きたくない
6年生になってもひたすら描き続ける藤野。
クラスメイトや姉から「心配している」「そろそろ卒業した方がいいよ」などと言われる。
自分達のつながりから逸脱しようとするものに対し、「あなたのためを思って」冷や水を浴びせる。藤野からしたらまさしく「うるせぇ」である。
心配する気持ちも決して嘘ではない、というふうに考えるのは簡単な事じゃない。「うるせぇ!」と言う気持ちをまっすぐ受け止められる大人は世の中にどれだけいるだろうか、とふと考える。また自分はどうなのか、と。
数年前、Adoさんの『うっせぇわ』が流行った頃、自分は全然受け入れられなかったことを思い出す。つい最近なって「あぁアレすごいなぁ」と思いました。
さて、話を戻すが、周りから何やかんや言われようと、ひたすら描き続けた藤野であったが、ある日の学年新聞をみて、プツンと糸が切れてしまう。
「どれだけ練習しても、京本との差は縮まらない。自分には絵の才能がない。」
漫画を描くことをやめ、以前のように友人達と遊んだり、姉の勧めに応じ空手を始めたり、ソファーで家族とテレビを見たりして過ごす。
笑っているのに、安心しているのに、どこか虚な表情が印象的でした。
家族とくっついていればそれは安心だけどそれだけじゃあねぇって感じです。
「勝ちたいのに勝てない」と感じながら描き続けることで、描くことそのものが苦痛となってしまった。
つまり「勝ちたい」→「描きたくない」、もう少し単純化して「描きたい」→「描きたくない」
「したい→したくない」つまり「1→0」というオンオフの変化が見受けられる。
勝てないから描くのが苦しい。しかし果たして「描くこと」は苦しいことなのだろうか?
会いたい!伝えたい!見たい! 勝ち負け、上手下手からの逸脱
卒業式、担任より卒業証書を届けるように言われ京本宅に訪問する。
京本の部屋の前で、4コマの白紙の原稿を見つけ、つい筆をとる藤野。
この4コマもまた面白い。「出てくるな!」と「出てこい!」という対立に対して、既に死んでいるというオチで対立を無意味化している。やっぱりすごい!
手からこぼれた漫画が京本の部屋に滑り込んでしまったため、慌てて逃げ出す。
しかし京本は勢い良く裸足のまま、家を飛び出してくる。
京本の、「藤野先生に会いたい!」という欲望が、部屋から出たくない人に会いたくないという恐怖をポーン、とあっさり飛び越えてしまった瞬間である。
「藤野先生のファンです!藤野先生は漫画の天才です!」と辿々しくも伝える。喋りに訛りがある。それも引きこもりの原因の一つなのだろうか?しかし「伝えたい!」は止められない。
藤野は、描くのをやめた理由を「賞に応募する漫画のため」という。
この後、直ちに描き始めることから、描いていない間も漫画の構想を練らずにはいられなかったのではないかと思います。
それに対し、京本は「見たい!」という。このシーンでは何度も「したい!」が繰り返される。
「したい!」という欲望があらゆる規範や恐怖を超えていくことが、今まさしく飛び出してきた京本によって表現されている。
その後、別れて帰り道のシーン。
雨とか泥とかなんとか、全く意に介せず、自由に無茶苦茶に跳躍しながら帰る。音楽もめちゃくちゃよかったなぁ!
藤野にとっては、描きたいという気持ちを抑え込んでいた、「勝てない」という蓋がどこかに飛んで行った瞬間である。「京本に勝つ」というストーリーが、京本の言葉によって無意味化されたのである。
雨とか泥とか、上手いとか下手だとか、周りの同調圧力とか、そんなものは関係無い、無意味なのだ。抑圧がなくなった今、「描きたい」という欲望が、藤野の全身から溢れ出している!
ここで、描きたくない→描きたい、に戻ってくる。
またその動機として「賞に応募する」が加えられています。
「したい」の交錯、別離
賞に応募する漫画を協力して描き始める二人。
「賞をとりたい、漫画家デビューしたい」というのが藤野の気持ちであるとするならば、京本の心境は「藤野先生の漫画が読みたい」「手伝いたい」だろうか。
あるいは、二人とも「もっと外の世界をみたい」というふうに感じられる。その時は、藤野が京本の手を引いている。
初めて応募した漫画の結果を確認するためにコンビニまで歩く二人は、吹雪の中を歩く。まさしく冒険さながら。
外の世界に飛びだすため、手を取り合いながら前に進む二人といったところか(それで向かうのがコンビニってのも面白いんですよね)。
見事入選を果たし、初めての賞金を得る。二人が、世界に認められた瞬間である。
その後も順調に二人の漫画は、掲載されていくが、その中で、京本は別離を決意する。
「美術大学に行きたいから連載は手伝えない」と告げる京本。
それに対し藤野は、「美大でても就職できないよ」「私といればうまくいくのに」「人とたくさん会わなければならない、無理だよ」と否定的な言葉を浴びせる。
以前、藤野に「もうやめたら」という言葉をかけた姉やクラスメイトの姿を重ねずにはいられない。「呪縛」という言葉が頭に浮かぶ。
京本の「もっと絵が上手くなりたい」という欲望は、二人でいることの居心地の良さ、一人になる恐怖を飛び越えていく。
「一緒にいたい」を「上手くなりたい」が凌駕した瞬間である。自立のためには欲望が必要なのだ。
描いても意味ない→描きたいから描く
連載が軌道に乗り、藤野は成功を収める。
しかし、アシスタントのことで頭を悩ませているのか、小刻みに足を動かしながら電話をしている。
言葉は丁寧ではあるが、何かしら感情が消化不良な印象を与える。
そんなおり、京本が通り魔的な犯罪に巻き込まれ、亡くなったことを知る。
京本の部屋の前で、「京本が死んだのは私のせいだ。描いてもなんの意味もないのになんで描いたんだろう。」と、絶望する。
そして現実逃避する。
あの日、京本が部屋から飛び出して来なくて、でもやっぱり美大生にはなっていて、ピンチの時に藤野が駆けつけて、京本は死なずに済む。
藤野も紆余曲折ありながら、また漫画を描いている。
そんなどこまでも都合のいい妄想をしていると、京本がかつて描いたのであろう4コマが目の前に現れる。
「背中を見て」
妄想から離れ、過去を振り返る。
「藤野ちゃんはなんで漫画描いているの?」と京本のかつての言葉が思い返される。
二人で過ごした時間が藤野にとって、無意味なわけがない。
「描いたから京本が死んだ」とそう考えることもできるけど、「描いたから出会った」と考えることもできる。
そもそも生きることも描くことも無意味だ、ならば自分で意味付けして生きていく他ない。
そして京本と出会ったことを決して無意味だとは思えないし、思いたくない。
ここで序盤の「ファーストキッス」なんかも思い出すとなんかもう・・・。
「藤野ちゃんはなんで漫画書いているの?」
過去の色んな場面を振り返りながら、喜びや悲しみ、あらゆる感情が逆巻く。
そしてその渦が、京本の問いを中心にして、心の中にスポっとおさまる。
藤野はまた雪の中を歩く。二人で歩いた雪道を、一人で。
正面に白紙の4コマを貼り、漫画を描き始める藤野。
その姿勢は昔と変わらない。窓の外の景色だけが、月明かりに照らされた住宅街から、忙しなく日が上り沈んでいく都会の風景に変わっている。
「描きたい」という気持ちは、物語の旅の途中で、動機や形を変えてきたが、最後には元の「描きたい」に帰ってくる。
しかしその「描きたい」という原石のような気持ちは、今までの過程から削られ、より多面的な輝きを放つ宝石として、旅から帰ってきたのである。
以上です!
書いてるとついのめり込んでしまいますね。
「したい」の変化に着目して、感想を伝えられたらなと思ってのですがいかがでしょうか。
最後まで読んでくださった方ありがとうございます!!!
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